ミスターパーフェクトは恋に無力

第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第3章 シークレットオーダー

8.千雪のせい

 業平ビルを出ると建留はどこかに電話をかけ、コースメニューでいい、と千雪の部屋に夕食の宅配を頼んだ。
「ざわついたところがいいかと思ってIOMAを予約してた。けど、話すほうがさきだ」
 雑音のある場所がなぜいいのか、千雪が首をかしげると建留はくちびるを歪めた。帰ろう、と建留が促して、どこにも立ち寄ることなく帰途についた。その間、今日に限ったことではないが、千雪はともかく建留までも黙りがちだった。
 マンションに帰りつくと、夕食が届くまで、千雪は浴室などを掃除して、建留はリビングのテーブルにタブレットと書類を広げて仕事をしていた。
 建留のそんな姿はかつて見慣れたものだった。千雪は、懐かしいという感覚を通り越して、隔絶していた時間を飛び越えたようなあたりまえの日常と勘違いしそうになる。
 建留は、エレベーター内での千雪の奇行を揶揄することも追いつめることもない。そこは助かりつつも、耳の奥で残響するアラビア語はこれから何かあると暗示するようだった。
 夕食は、帰宅して三十分くらいたった頃に届いた。

「建留、疲れてない?」
 ダイニングテーブルに着いて、いただきます、と手を合わせたとたんに建留が吐息を漏らすと、千雪は思わず訊ねていた。表情に疲労感はないけれど、旭人のため息を思いだした。
「だから癒やされに来てる」
 建留はからかうような様で応じた。
「土日、一日中仕事だった?」
「来てほしかった? そのわりには、返事はあっても千雪からメッセージが来ることはなかったな」
 どんなことをメッセージにのせればいいのかわからない。そんな千雪の迷走はそっちのけで、建留の言葉にはからかうなかにも少しなじるような声音が潜んで聞こえた。思いすごしか、食べよう、と建留はさっそく食べ始めた。
「夜は、ザイドと話してた。イギリスで会ったこと、憶えてるだろう?」
 食事の途中で唐突に建留の口から出た名は、めずらしいからもちろん憶えている。

 ザイド・ファルコナー・ビン=タイラー・アル=ナヒトゥーム。
 印象的なのは、一度では憶えきれなかったいくつもの名を持つということばかりではなく、ミドルネームのとおり大鷹のように鋭い眼差しと品格を備えているところだろう。
 中東にあるハズヌル首長国連邦(UHE)は、国土こそ狭いが、どこよりも早くから西洋色を適度に受け入れ、石油と観光で繁栄した。七つの首長国が集まった連邦国で、その最大の権力を持つのはジアイマーラという首長国だ。ザイドはジアイマーラ現首長の三男になるが、純粋にアラブ人ではない。祖父がイギリス人女性と、その間に生まれた父親が日本人女性と、という経緯で誕生したクオーターで、顔立ちには西洋の血が見え隠れする。一方で日本人という面影はない。事情を知ると、そういわれれば、と思う程度だ。
 建留がロンドン赴任をして、ザイドがイギリスの経営大学院に在籍していた当時、ふたりは知り合った。大学院の実践的プロジェクトの一環として業平不動産を訪れ、同い年の建留が相談に乗ったことがきっかけで親交を深めていったという。
 建留が中東に行っている間、ザイドの存在は千雪の唯一の安心材料だった。

「憶えてる。向こうにいたとき会ったりした?」
「会ったり、というより、半分くらいはあちこちでザイドと同行してた。どうせならジアイマーラに来いと云われたくらいだ。仕事の拠点という利便性を考えるとリヤドのほうが都合いいし、ジアイマーラに滞在したのはちょっとだった」
「いまザイドは何してるの?」
「ジアイマーラで経済政策を先導している。もともと地位はあって、それに実力も見合ってきたんだろうな。UHEの経済権限は首長国それぞれが持ってるけど、ザイドはアドバイザーとして各国から重宝されている。ザイドがいろいろ便宜を図ってくれて、おかげでイラクへのルートも拓(ひら)けた」
「イラク?」
「ああ。会議でバグダードの巨大都市化プロジェクトを提案してる。イラクの石油埋蔵量は世界第五位だ。腐るほどオイルマネーも眠ってるってことだ」
「……社長との打ち合わせもそのこと?」
「打ち合わせが社長とって……瑠依から聞いたのか?」
 問い返していた建留は自分で答えを出して、違う質問に変えた。
「うん。……社長のゴーサインが出ないと動かないって」
「そのとおりだ。だから、ザイドと連絡取ったんだ。早急の訪日を要請した」
 千雪は目を丸くして建留を見つめた。そこまでせっかちにならなければならない何かがあるような気がした。
「社長は乗り気じゃないの?」
 建留はじっと千雪の目を捕らえる。よくないことが告げられる予感がした。
「条件、とまでは明確にしないけど」
 そこで切ると建留は、どうかしている、と独り言のようにつぶやいて首を横に振った。
「建留?」
「再婚はどうなんだって訊いてきた」
「なんて……」
 答えたの? と口に出る寸前で千雪は口を噤んだ。浅ましさが丸出しだ。
「するつもりだって云った」
 建留はすかさず千雪の疑問を汲(く)みとった。
 千雪は、だれと? とまた口を開きそうになって、やはり愚かしいと感じた。
「父さんも同席してたし、社長もそれ以上のことをはっきりさせてくることはなかった。けど、ほのめかされたのは確かだ。だから、おれたちのことは公にするべきだと思った。付き合っているのか訊かれたら、そうだって云えばいいだけの話だ。瑠依に対しても」
「瑠依さんは、同席しなかったの?」
「プロジェクトはまだ内々のことだ。漏れては困る」
 その意味に気づけないほど、千雪は鈍感じゃない。自分にとって千雪の価値がいかなるものか、建留は暗に保証を与えた。離れてしまったことはなんだったのだろう。そう思うほど、建留はまっすぐに千雪に向かう。
「……プロジェクトはどうなるの?」
 千雪が問うと、建留は真剣な話なのにもかかわらず、ふっと笑った。
「……笑うこと?」
 逆に千雪は少しむっつりとしてなじった。
「千雪が話を逸らさなかっただけ、おれたちは進歩してるなって思っただけだ」
 建留が繰り返す『おれたち』に、思いのほか千雪はほっとさせられている。
「このプロジェクトを蹴(け)るようなら業平不動産の成長はない」
 建留は微塵の揺らぎもなく言明した。
「アラビア語、ザイドに習ったの?」
「ああ。難しいし、挨拶言葉とか基本的なことだけしか喋れない」
「ザイドは日本語のことをそう云ってた」
「そうだったな。アラブでは、ビジネスは英語か、もしくは通訳を入れる」
「エレベーターのなかで云ったことって何? アラビア語でしょ?」
 建留はシニカルな笑い方をした。
「言葉の意味は知らなくても、表面的な響きはわかるはずだけどな。時と場所は関係なくても、“場合”を考えれば」
 建留はずるい。やっぱり千雪はそう思った。


 食事のあとは、片づけを終えたとたん、「千雪のせいだ」と意味不明な言葉を向けられると同時に、広げた仕事もそのまま、建留からさらわれた。
 結婚していたときと違って、抱いたあと、すぐではなくてもやがてベッドを離れていく建留を目にすると、宝物をつかんだつもりが手を開いてみたら何もなかった、そんな気持ちにさせられる。
 本物の宝物に手が届くのはもう少し。
 建留と話しているうちに、自分が意思表示をできたこと、それが恥ずかしさからうれしさに変わったからそんなことを思うのだろう。
 史也から聞かされたなんらかの“秘密”のことは云わなかった。云えば、箝口令(かんこうれい)がしかれてしまう。
 千雪は秘密を知るべきだ。そんな気がした。

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