ミスターパーフェクトは恋に無力

第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第3章 シークレットオーダー

7.社内恋愛宣言

「須藤さん、これ、すぐ必要箇所を訂正してほしい」
 下の階にある業平不動産グループの一会社、業平デザイン設計から戻ってきたと思ったら、旭人は千雪のデスクの端に資料ファイルを置いた。
 すぐと付け加えられたからには今日ということだろう。
 思わず時計を見ると五時五十分を指している。週明け初日からたっぷり残業で、しかも、命じられたのは、これが旭人でなかったら嫌がらせかと疑いそうな時間帯だ。
「はい、わかりました」
「念のため。意地悪じゃなくて援護だ」
 耳打ちしてデスクに着いた旭人を見ると、かすかに肩をすくめて見せた。
「企画書の最終仕上げよ。須藤さん、がんばって」
 旭人と一緒に戻ってきた三沢が、椅子に座りながら千雪を励ます。
「はい。太陽光発電の件、うまくおさまったんですね」
 三沢の顔を見て判断したままを云ってみると、彼女はにっこりとVサインをした。そんなしぐさは童顔と似合って子供っぽい。千雪が好きだと思う彼女の一面だ。一方で、外見から受ける印象と違い、旭人が当てにするくらい仕事ができる人だから、密かに憧れている。
「そう。EM電機の開発が追いついたし、システムは重量的にも性能的にも問題ないわ」
 千雪は、訂正の入った資料に目を通してみた。
「コストも抑えられてますね」
「これからうちの大量発注を期待してるんなら勉強してもらわなくちゃ」
「ああ。やっと東洋社宅も上がりだ。水曜日の企画会議で報告して最終承認もらう」

 旭人は一つ息をついて椅子の背にもたれた。
 相当、疲れているみたいだ。
 ――と、旭人のしぐさを見ながら思ったところで、千雪は建留へと意識がいく。
 結局、土日とも建留が千雪を訪ねてくることはなかった。その間、打ち合わせとそのための仕事をしていたとしたら、休む間もなくてくたくたなんじゃないかと心配になる。

「アウトラインがしっかりしたんであれば、あと、東洋社宅は僕たちの出番ですね」
 史也が云い、賛同してふたりの男性社員たちがうなずいた。旭人は口を歪めて笑う。
「期待してる。東洋社宅だけじゃない。次があるからな」
「じゃあ、千雪ちゃん、先週云ってた内装の件、モデルルームチェックに付き合ってくれるかな。来週末にはある程度、仕上がるらしいから」
 旭人が背もたれから躰を起こした。何か口出しをするつもりだと察して、千雪はデスクの陰で素早く旭人の腕をつかむ。
「わかりました。家を見るのは好きだし、どんなふうに変わってるのか期待してます」
「だね。サービスのほうはできあがった物件を管理するだけだし、形成段階に係わるのは初の経験だから完成が楽しみだ。加納主任、よろしくお願いします」
 旭人はちらりと千雪に目配せしたあと。
「サービスに戻ったときに役に立つこともあるだろう。めずらしいもの見たさっていう道楽で終わらないようにすることだな」
 千雪の同行に関して止めることはせず、史也はしたたかなのか、旭人に事後承諾を取りつけた。
「コーヒー、持ってきますね」
 千雪は立ちあがりながら旭人と三沢を見やった。ありがとうと云う三沢にうなずいてから給湯室に向かった。
 そこには先着がいたが、女性社員は二つカップを持って、お疲れさま、と千雪に声をかけると、目でコーヒーメーカーを指し示した。
「コーヒー、いま淹れたの。どうぞ」
「ありがとうございます。お疲れさまです」
 千雪はカップホルダーを二つ取って用意し始めた。

「懲りてないのか」
 予測していたことでも旭人の声はいきなりに感じた。驚いた弾みでインサートカップが台の上に落ちて転がる。
「びっくりするから壁をノックするくらいしてほしいんだけど」
「触られるのだけじゃなくて男の声にもびくつくくせに、小泉には油断してる。金曜日、襲われかけたんだろ?」
 何を話したいのだろうかと思っていたけれど……。千雪は顔をしかめた。
「声、小さくして。建留が云ったの?」
「幸いにして、小泉はおれの管理下にあるからな。兄さんがおれを当てにしても当然だろう」
「襲われたとか、そんな大げさなことじゃない」
「小泉とふたりで大丈夫なのか?」
「デザインの担当は女性だし、べつにふたりっきりになるわけじゃないから。心配してくれるのは安心できるけど、そうしすぎないで。いつまでも世間知らずな学生じゃない」
 千雪と入れ替わりに旭人がしかめ面になった。
「無理に世間なんて知る必要なかったんだ」
「……旭……加納主任?」
「何をだれに遠慮する必要があるんだ? 兄さんにぶつかっていけばいい。これ以上、千雪が代償を払うことはない。むしろ、返してもらうべきだ」
 旭人は焚きつけるような眼差しで、戸惑うほどじっと千雪を見つめる。
 ためらっているのは、だれに――それは茅乃一人に限ったことで、何を――それは一緒にいることだ。そんな単純なことで踏みだせないのは、千雪の知らない何かがあるせいだろう。
 千雪は答えられないで、旭人に背中を向けるとコーヒーの準備をした。転がったカップを取りあげると。
「ほっとけば手遅れになる。それでいいのか」
 旭人は追撃するようなことを云う。
「手遅れ、って?」
 なんのことか、それはわかっている。それでも訊いてしまうのは、不安を消してもらいたいという甘さがあるのだ。
「今日の残業は七時までだ。明日、午前中までに仕上げてくれればいい。それまでにやれるところまでやってほしい」
 旭人は答えず、自分のぶんだけ持って給湯室を出ていった。
 それなら、はじめから明日でいいって云えばいいのに。千雪はため息をついた。

 今日は、仕事が捗(はかど)ったとはとても云えない。気になってしかたのないことを建留がひと言も口にしないからだ。
 口にしないという以前に、この二日間、電話じゃなくメッセージが来ただけで、その内容も、『おはよう』と『おやすみ』に『ごはんはちゃんと食べたのか?』という定例句のような言葉が付随するだけと、どうでもいいことばかりだ。
 千雪からは返事だけでメッセージを送ることはなく、もし建留が千雪と同じ気持ちだったら、メッセージも来ないと拗ねているかもしれない――というのは考えすぎ、もしくは千雪の願望だろうが。
 おまけに、今朝は直行すると云って通勤時も会えていない。同伴はまずいと云うくせに、いざほっとかれてしまうと、千雪は避けられているのかとさえ思う。矛盾だらけの自分に愛想が尽きそうだ。
 そんなこんなで、ふとすると仕事は疎(おろそ)かになっている。だから早く帰りたかったのに。
 デスクに戻ると、あと一時間、と千雪は自分に云い聞かせた。

 訂正箇所を見逃さないよう、分厚い書類をチェックしていくのは神経を遣う。目が痛くなってくる。パソコンの時計を何気なく見ると、七時を十分すぎていた。集中できていたという証明でほっとすることでもあるが不満も湧いて、云ってくれればいいのに、と隣の旭人を見やった。
「待たせた。終われる?」
 そう発した声は隣からではなく、背後から聞こえた。
 千雪が、驚くことはあっても、怖がることのない声だ。
 そして、まるで約束していたような云い様だった。
 この時間帯、社内には残業でおよそ半分の人がいる。そのなかで少なくとも、千雪の視野にいる人たち全員の意識が建留の声に反応したのではないかと思う。露骨に目を向ける人も捉えた。とりわけ、正面にいる史也と斜め向かいにいる三沢は、固まった千雪より早く顔を上げた。
「終われる。できる範囲で七時までだって云っただろう」
 旭人がかわりに答えた。千雪が悪いことでもしたかのように云い聞かせた口調だ。
 援護という意味がわかり、千雪は恨めしそうに旭人を見やった。云ってほしかったのは残業時間ではなくて、建留とまえもって示し合わせていたことだ。
「これ、保存?」
 動こうとしない千雪の手をマウスから引き放すと、建留は身をかがめてパソコンを覗いた。
 あまりに距離が親密すぎて、緊張感が急激に上昇して顔がこわばる。千雪が答えないのを見越しているかのように――
「このままいても居心地悪いだけだろう」
 建留は耳もとで囁いた。その声音からすると、自分がその原因をつくったくせに悪いとも思っていない。
 返事がないのを肯定と取って、建留は勝手に保存してパソコンの電源を落とした。千雪の腕が強引に取られる。
「行こう」
「バッグ取るから」
 暗に腕を離してと訴えると建留は察して手を離した。
 理不尽だが、建留の云うとおり居心地は悪すぎる。せめて、見られることがなんともないくらい、いや、むしろ当然だと思えるくらいに美人だったらよかったのに、と、千雪は詰まらないことを考えながらデスクの上を片づけてバッグを取った。
「おさきに失礼します。お疲れさまです」
 突き刺さるようないくつもの視線のなか、だれにともなく素早く見渡しながら声をかける。「お疲れさま」のお返しを背に聞きながら、千雪は逃げるように歩きだした。
 足早な千雪に対して建留は、「代理、お疲れさまでした」というあちこちからの声に悠長に応じながら、ゆっくりとあとを追ってくる。それでもすぐ後ろにいるのだから、歩幅の違いは歴然だ。
 オフィスを出てドアが閉まってしまう直前、俄にざわついた声が漏れてきた。明日はきっと針のむしろだ。

 エレベーターホールに行くと、人が淀(よど)むこともなくだれもいない。待つ間に、千雪は建留を睨めつけた。
「ひどい。三沢補佐は瑠依さんと同期なの。明日、訊かれたらなんて答えればいいの? 肩の痣、瑠依さんにも知られてるのに」
「小泉史也が見たんなら知っててもおかしくないだろうな」
「まえのことじゃなくて、金曜日のこと!」
 土曜日の朝、洗面したときには気づかなかったけれど、瑠依が帰ったあと出かけるまえに、目立つのかチェックしてみると、薄れかけていたはずの痣はまたくっきりと浮かびあがっていた。瑠依のようにちょっと気に留めていればすぐ目につく。
 金曜日、バスルームから運ばれたことも憶えていなければ、キスマークが上塗りされたことを知らず、そんな痛みもわからないくらい快楽に侵されていたのだろう。
 千雪が訂正したとたん、悠然とおもしろがっていた建留は顔をこわばるくらい引きしめた。
「今日、瑠依と会ったのか……じゃないな。いつ会った?」
 問いかけながら千雪のタートルネックのカットソーをチェックした建留は云い換えた。
「……土曜日。建留が泊まってないかって確認したかったみたい」
 それとは別に、あの捨てゼリフが云いたくて来たんだろうが、それはあえて伝えなかった。もともと、来たことさえ云いたくはなかった。腹立ち紛れに口にしてしまうなんて、いつまでも子供っぽい。
「のん気にしていられないな」
 建留は笑みの欠片もない云い方をした。それは、丸三日、会わない間、千雪が何より気になっていたことをほのめかしたに違いなかった。
「……社長から瑠依さんのことを……?」
 建留は固く口を結んだ様で、曖昧に訊ねた千雪を見下ろした。直後、背後から人声がしだして、はっきりした答えは聞かずじまいに終わった。

 エレベーターが着いて建留に促されながらいちばんに乗ると、数人同じように乗りこんできた。なかはすかすかだが、まるで見てはいけないものがあるように、彼らは奥にいる千雪たちに背を向けている。
 そうされることがどういうことか――彼らもまた噂を知っていることを千雪はわかっているつもりだ。ただ、自分の心底にある、譲れない欲求に突き動かされた。
 ぶつかっていけばいい――旭人の言葉そのまま、千雪は躰の向きを変えて、建留の左腕にしがみつくと、わきに額を寄せた。
 いつか、ということがいよいよと建留自身から知らされて、きっと動揺している。ただ、突飛な行動かもしれないけれど、いまは間違っているとは思わなかった。
 すっと息を呑む音と同時に建留の躰はぴくりと反応する。その一拍あと、建留は千雪の左肩をつかんで引き離す。場をわきまえない行為だとはわかっていても、拒絶するしぐさに少なからず焦って慌てふためく。
 そんなパニックを知られたくなくて顔を背けようとした刹那。
 千雪の左頬を大きな手がくるんで阻止した。
 思わず目を上向けた瞬間、くちびるが触れ合った。それは一瞬でも、吸着するようなキスは、離れるのを惜しんでいるかのように思わせる。
 覗きこむように上体をかがめている建留は、頬を支えた手の親指で千雪のくちびるを撫でた。間近でくちびるが薄く開く。
「・・・ ・・」
 あのときと同じ言葉は、囁くようでも、躰の奥がせん動するほど重篤(じゅうとく)に響いた。

 エレベーター内の静けさが異様に感じるのは、品行方正から外れたことをしたせいだろう。建留の囁き声が聞こえたのか、建留が顔を離しかけていると、まえに立つ人がわずかに身じろぎする。離れてしまうまでに間に合わないと思っていると、だれかから着信音が鳴りだして、乗り合わせた人たちの神経はそっちに移った。
 千雪が小さく息をつくと、建留からも吐息がこぼれる。見上げたら、千雪の安堵と違って興じているようだ。目が合うと、建留は薄く笑みを浮かべてその雰囲気を裏づけた。
 形振(なりふ)りかまわなかったのは千雪がさきだったから文句は云えない。あらためてその行為を振り返ると、千雪は恥ずかしくてたまらなくなった。躰中が火照った気がして、せめて建留が気づかないようにと願う。

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