ミスターパーフェクトは恋に無力

第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第3章 シークレットオーダー

6.招かれざる客

 聞き慣れたアラーム音が遠くから耳に届いてくる。無意識でベッド脇のチェストに手を伸ばしたが、いつもの場所に音源はなかった。夢うつつの意識下、状況を考え始めてまもなく千雪ははっと目が覚めた。
 ぱっちりと目を開け、枕から頭を上げ、ほぼうつぶせになった上体を起こすと壁にかかった時計を確認した。八時だ。
 起きあがると、裸のままで眠っていたと気づく。
 建留。
 くちびるは動いたものの声にまではならない。たぶん、いないとわかっているからだ。
 一週間まえにはベッドにはいなくてもちゃんと傍にいる気配を感じて、そのとおりリビングにいたけれど、今日は大きめの枕が窪(くぼ)んでいなければ、シーツにも痕跡がない。
 薔薇の薫りにくるまれて心地よかった眠りが色褪(いろあ)せていく。
 帰ってほしい? その答えは必要ないと思っていたのに。
 しばらく放心して、千雪はベッドの上に座りこんだままでいた。
 リビングのほうから聞こえるアラーム音が途切れ、いきなり違う曲になり、それが電話の呼びだし音だとわかってようやく動こうという気になる。
 ベッドをおりて裸のままリビングに向かった。躰には気だるさがあって、脚の間には濡れた感触を感じる。そんな名残はよけいに千雪を虚(むな)しくさせた。
 ダイニングテーブルに置きっぱなしだった携帯電話を取ると、発信元は建留だった。みぞおちがきりきりするくらい鼓動がせわしくなる。空虚さとうれしさという、感情の落差のせいだろうが、こんなふうにどきどきしてしまうなら着信音を建留とわかるように変えておくべきだった。そうしても、着信音が鳴った時点で同じことになるのだろうが。
 結婚して四年間――少なくとも二年間はずっと親密な関係でいたのにこんなふうにどきどきするなんてどうかしている。
 千雪は一度、深呼吸をしてから通話マークを押した。

「はい」
『おはよう。起きてなかった?』
 至っていつもと変わらない、からかった声だ。まるで、昨日の説得も重要なことじゃなかったように平然として聞こえ、千雪は拗(す)ねた気分になる。
「おはよ。目覚まし鳴ったし、だから起きてた」
『確かに寝ぼけた声じゃないな。土曜日は学校だろうと思って電話してみた』
 建留に云われて、出かけなくちゃならないことを思いだす。建留は『行くんだろう?』と答えを必要としているような云い方をする。
「うん」
『おれも、さっき連絡が入って今日明日は打ち合わせになった』
「……うん」
 建留の知らせに気落ちする。
 そのことが、さっきの質問で、学校から帰宅した頃に来るつもりなのかと期待したことを千雪に気づかせ、いちいち建留の発言に左右される自分に心もとなくなった。
『がっかり? 来てほしいって云うんなら意地でも行くけど』
 千雪に返事を求めることはせず、建留はふっと小さく笑みを漏らしたあと、『気をつけて行けよ』という言葉を残して電話を切った。
 千雪はぷるっと身ぶるいをする。裸でいるせいだけでなく、いつの日か、素直に応じられない千雪に建留が背中を向けてしまうんじゃないかという怖さを感じたせいだ。
 時間を置いてアラーム音が鳴るまで、再び千雪は動けなかった。
 コーヒーを淹れる間に服を身に着け、トースターで温めたパンをダイニングテーブルに置いたそのとき、ドアホンが鳴った。エントランスからの呼びだし音だ。
 モニターに近づくと、まるで予想しなかった訪問者が画面越しに見えた。一瞬、建留かとやはり期待を抱いてしまったことすら吹き飛ぶほど千雪は驚く。

「はい」
『わたしよ、瑠依。ちょっといいかしら?』
 瑠依は挨拶言葉もなく、ただ押しつけがましい。
 八時半といえば、平日の通勤時間からすると“朝早く”には当たらないのかもしれないが、だれかの家を不意打ちで訪ねるには常識から外れている気がする。
 瑠依ははじめての訪問で、つまり、なんらかの意図があって来たのに違いなかった。呼びだしに出てしまってから、だめだとは云えない。高飛車な物言いからすると、出かけるといっても通じないだろう。
「学校行かなくちゃいけなくて、あまり時間はありませんけど、どうぞ」
 エントランスのロックを開錠した。
 モニター越しでもメイクが完璧に見えた瑠依と違って、千雪はまだ化粧もしていない。張り合おうとしても所詮敵わないのだから、と自分をなぐさめて、瑠依が来るまで、せめてスムーズに出かけられるようバッグの中身だけ整えた。
 再びドアホンが鳴って玄関に出ると、瑠依は千雪越しに家のなかを窺い、玄関先ではすまないような雰囲気でわずかに首をかしげた。
「コーヒー、淹れたばかりですけど飲みますか」
 瑠依をなかに通すと千雪はソファを示した。
「急ぐんでしょ? べつにいいわ」
 千雪は内心でため息をつきながら、ソファに座って瑠依と相対した。
 じろじろといった眼差しが千雪のほうを向いた。すると、視線は一点に注がれる。
 その原因を察すると、千雪は隠したいという自分の衝動と闘わなければならなかった。休日だったから油断した。レースのタンクトップは着ているが、オフショルダーのブラウスでは肩が剥きだしになって痣が見えるかもしれない。いや、そこで視線が留まっているということは確実に見えている。もう薄くなっているけれど、史也のようにあのとき目にしていればいまでも間近では見えてしまうだろう。
「建留は?」
 瑠依の口から建留の名がこぼれると、不快になると同時にどうしてもかまえてしまう。
「建留?」
「ここにいないの?」
「……いません。家にいるんじゃ――」
「帰ってないっていうから千雪ちゃんのところじゃないかと思って来たの」
 千雪が目を見開くと、瑠依はひと時じっと見つめ、それからにっこりした。
「なぁんだ。じゃあ、ホントに会社に泊まりなのね」
 千雪はさらに驚かされた。一週間ずっと出向関連のデスクワークだったと聞いたが、まだ片づいたわけじゃないらしい。
「ずっと忙しいとは云ってたけど、会社に泊まるのは聞いてないので知りません」
 千雪はそう自然と口にできて、云ってくれなかったことはかえって助かっている。建留が帰ったこともよかったのだろう。
「わたしもはっきりは聞いてないけど、新しいプロジェクトがあるんじゃない? 建留、午後からうちに来るのよ」
 そう云って瑠依は含み笑う。
「え?」
「父と話すみたいだから。プロジェクトプランがあっても、父のブレーンを含めてゴーサインがなければ動かないじゃない。大きければ大きいほどね」
 建留との電話が甦った。打ち合わせは小泉社長からの要請だったのだ。休日も惜しむほどそうするということは、瑠依がほのめかしたように、会社にとって枢要(すうよう)なプロジェクトになるのだろう。
「でも」と瑠依は続け、何か孕(はら)んだようにそこで溜めた。
 千雪は無意識に身がまえる。
 それを見通しているかのように瑠依はふふっと笑みを漏らした。
「仕事の話ばかりじゃないと思うわ。やっと帰ってきたんだから」
 そうして瑠依はすっくと立ちあがった。
「それ、見られないように気をつけたほうがいいと思うけど。同伴出勤から波及して、千雪ちゃんと建留の関係が怪しいって噂は知ってるわ。間違ってるってみんなに知られたら惨めな立場に置かれるのは千雪ちゃん。千雪ちゃんと建留は一緒にいられるわけないんだから。誤解される証拠はしまったほうがいいわ。そしたら、ただの噂だってことにできるじゃない?」
 長々とした捨てゼリフを残して瑠依は帰った。

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