ミスターパーフェクトは恋に無力

第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第3章 シークレットオーダー

5.セクステラピー

 建留のペースに嵌められて翻弄(ほんろう)されている。服を脱いでしまってからお土産のバスオイルがあったことを思いだす始末だ。
 躰を洗う間も浴槽に入っても、選択の行方は不透明だ。いや、出すべき結論は決まっているのに、そんな簡単な選択もできないで、千雪はぐだぐだとため息をこぼす。
 だから気がつかなかった。
 二枚折りのドアが開く音がした。髪を洗おうとシャワーに切り替えかけた手を止め、千雪は反射的に振り向いた。とたん、建留が手にしたタオルの陰からちらりと慾が覗いて、千雪はぱっと目を背けた。バスチェアに座った状態で建留が立っていれば何が真っ先に視野に入るか、ということを忘れていた。浴室が忍び笑いに満ちる。
「恥ずかしいとかいう段階はとっくに超えてるはずだけどな。それとも、隠せないおれは恥ずべき?」
「わたしが出てから入ればいいのに!」
 建留をなじって困惑をごまかした。
「続けて。気にしないといい」
 建留はわかっているのかいないのか、笑みの滲んだ声で無理難題を押しつける。
 浴室はふたりでも充分に広いが、窮屈に感じるほど建留は身体的にも、千雪にとっては存在的にもパワフルすぎる。
 いまさら追い返せるわけもなく、千雪は正面に向き直る。洗髪の続きをしながらも建留が気になってしかたがない。
 鏡に映る建留の背中は、腹筋と同じででこぼこしている。建留が腕を動かすたびに波打つような流線がきれいだ。下に行くにつれて絞られていくラインは、ヒップのところでちょうど千雪自身の頭が妨害して見えない。背中を追いかけるのは嫌いだけれど、裸だとしがみついてみたい気になる。と、そこまで考えて千雪は鏡から目を逸らし、急いで誘惑を振り払った。
 操られている感はやはりあって、そうならないようにと千雪は自分に云い聞かせる。すると、真後ろの壁にあるシャワーの音がふとやんだ。気づくと、頭を洗っていた手を取られていた。

「建留!」
「洗ってやる」
 すぐ背後に立った建留の指先が、泡立った髪のなかに潜る。
「懐かしいな。いい記憶じゃないけど、あの頃、千雪が抵抗しないでくれる唯一の時間だった」
 憶えてるか? そう訊ねるように鏡のなかの建留は、いつもと反対側に首をひねった。
 つらさに慣れるまえの、いちばん千雪を苦しくさせた時期のことだ。忘れるわけがない。肩を痛めて、しばらく腕を動かせないという状況下、退院した日、今日みたいに建留はいきなり千雪のバスタイムに侵入してきた。出ていって、という拒絶も聞かず、建留は千雪の髪を洗い始めたのだ。
 それを、懐かしい、と素直に云うには痛みが邪魔をする。
「抵抗して痛いのがぶり返したらって怖かっただけ」
 すると、建留はいまにも呻きそうに口もとを歪めた。
「帰ってからはまだ見ないけど、日本を出てた間、時々あのときの夢を見た。決まって千雪は階段の下で息絶えてる。まるで壊れたドールみたいで千雪の目はだれも見てない」
 淡々として、いまは建留のほうがドールみたいに表情をなくしている。
「建留? わたしはちゃんと生きてるから」
 そう云わないといけない気がして口にしてみると、建留は首を振りながら薄く笑んだ。
「ああ。素直じゃなくても、息してるほうがずっといい」
 からかった口調とは裏腹に、建留は吹っきるように息をついた。
 それからシャンプーを洗い流すまで、どちらからも喋ることはなかった。
「洗ってもらうのは好きだろ」
 建留は千雪にタオルを渡した。
 自分で洗うのは面倒だと思わなくもないし、逆に洗ってもらうと終わるのが残念に感じるくらい、建留が心地よくさせてくれるのは事実だ。
「建留が洗うのが好きなの!」
「そのとおりかもな。色、戻せよ」
 云い返すと千雪と違って建留はあっさり認め、また一週間まえに要求したことを繰り返した。
「ギャラリーの人、本社に異動してきてたらばれるかもしれない。業平にはそこまで明るくしてる人は少ないから目立つし」
「ばれてもかまわないし、ばれなくてもかまわない。千雪が知られたくないんなら、結婚していたことを云う必要もない。他人にとっては“これから”があるだけの話だろう。ただし、“これまで”を千雪が否定することは許さない。どうする?」
 建留は二つめの選択を迫った。けれど、またもや急かして追ってくることはせず、頭にタオルを巻くのを待ってから「立って」と千雪の腕を取った。
 バスチェアを隅っこにどかすと、建留は自分が持ってきたバスタオルを床に敷く。浴室の床材はクッション性があって水はけはいいが。
「建留、濡れちゃう!」
 何をするつもりなのか、千雪は不意打ちで左手を引っ張られてよろける。床に膝をついてバランスを保ったが、次の瞬間にはバスタオルの上に仰向けに寝かされていた。

「建留!」
 叫ぶと、建留は瓶を掲げた。ボディオイルだ。
「奉仕タイムだ。機嫌直ししておかないと」
 そう云いつつ、建留自身が悦楽タイムを堪能しようとしていることは、その眼差しから明白に見えた。
「床暖房つけてるし、寒くないだろう?」
 建留は含み笑う声で云い、千雪が起きあがろうとすれば膝裏からすくって阻止した。千雪の脚を広げて間におさまり、建留はぴたりと躰の中心を重ねる。
 繊細な場所が建留のこわばった慾に擦れてうまく下半身に力が入らない。頭は壁打ちしていて、千雪は逃げられなくさせられた。
「生理、終わった?」
 訊ねながら建留は千雪の右手を取った。
「知らない!」
「アレルギー出てないな」
 千雪の返事を歯牙にもかけず、手首を見てそう云った建留はオイル瓶を手に取ってふたを開ける。
 食事まえにもかかわらず、香りを散らしたのはそれを確かめるのにやったことなのか。薔薇の薫りが広がっていくなか、疑(うたぐ)り深い目を向けると、しゃあしゃあとした眼差しと合った。
「リサーチは必須だ。特に千雪に限っては。リラックスするといいんだ。眠ってもいい。ちゃんと運んでやるから。プラスアルファで同化するか。それは千雪次第だ」
 口を歪めた建留はオイルを手にたらす。ふくらみの狭間に粘液が落ちた。ひんやりして千雪が首をすくめた直後に、建留の手が鼓動に触れた。そこから中央を滑り、おへそを通りすぎて下腹部へとおりる。おなかの奥がきゅっと収縮した気がした。
 漏れそうになった悲鳴はくちびるを咬んで抑えたが、再度、オイルを手に取った建留がみぞおちに触れ、それから両手で胸に這いのぼってくると堪えきれなかった。胸先が親指で弾(はじ)かれる。
 ん、ふっ。
 手はすぐに胸もとを離れて腕から指先へと這い、戻ってくる途中で腋窩(えきか)に潜り、躰の脇に沿っておりていく。下腹部に上がってみぞおちに戻ったかと思うと、そこに溜まったオイルをすくい、脚が片方ずつ持ちあげられて足の指の間まで万遍(まんべん)なく塗りこめられる。その間、千雪の躰は絶えず緩やかに波打ち、バスルームは薔薇の薫りに満ちた。

「ヒリヒリしたりはない?」
 千雪は首を振るだけで答えなかった。建留はどっちともつかない返事に笑う。
「ヒーリングタイムだ。気持ちよくなればいい」
 右手を取った建留は指からマッサージを始めた。
 ただ、指を一本一本揉(も)みこまれていくだけのことが心地よい。人を形成する小さな細胞が隅々まで活(い)きていく感触がした。指から手のひらへ、手の甲へ、それから腕を伝って肩にのぼる。左側に移り、それから首もとに纏わりついたあとは足先へと飛ぶ。
 どれくらい建留がそうしているのか、千雪は微睡(まどろ)んでいたようだ。ふいにこれまでと違った刺激にびくっと躰を揺らしながら覚醒した。反動で、胸先がぬるぬるした指からすり抜ける。
 あ、んっ。
 衝撃に背中が反れ、そのしぐさで密着した躰の中心が擦れ合う。建留の呻き声が耳に届いた。
「動かないほうがいい。おれを刺激したくないんなら」
「だったら、触らないで!」
「無理だ」
 一笑に付されたが腹が立たないのは、自分が口にしたことを自分が望んでいるわけではないからかもしれない。
「いまからセックステラピータイムだ。淫靡(いんび)に気持ちよくなればいい」
 すでに建留自身の声には色欲が滲んでいるように思えた。

 建留は下からすくうようにして胸をくるむと、やわらかく絞りあげる。手のひらのなかで胸先が擦れると、オイルの効果だろう、痛み寸前の心地よさに襲われる。自然反応で胸が反りあがると腰までうねりが波及して、建留の慾に自分をすりつけてしまう。
「建留、だめっ」
「こういうときだけは素直だったはずだけどな。恥ずかしいなんて気持ちはいらない。おれも一緒だから。経験なんて、千雪と大して変わらない。そう云っただろう」
 建留は不規則な息づかいで囁いた。
 また同じ過程が胸を襲う。千雪の躰がうねり、ふたりの接点で快楽が生まれ、千雪が喘いで建留が呻く。その繰り返しのなか、感覚が上昇し始めた。
「建留、も……ぅ」
「止めるな。そのまま、だ」
 くぐもった声が果てにいざなった。
 あっ、ん、く――ぅっ。
 千雪の躰が上下に跳ねて、建留の慾を煽る。直後、千雪のあとを追って建留が爆(は)ぜた。薔薇の薫りに、ふたりの放った薫りが加わって、バスルームに甘ったるく濃厚な芳香が広がった。
 ぐったりと床に躰を預けていると、呼吸が荒いのにもかまわず建留は千雪をひっくり返してうつぶせにする。
「建留……」
「背中もだ」
 腰がつかまれたかと思うと、お尻が建留の下腹部に触れるまで引き寄せられた。建留は爪先立ちした踵(かかと)の上にお尻をのせていて、必然的に千雪のお尻が高くなり背中がしなう。
「こんな、恰好……っ」
「やりやすいんだ」
 建留は千雪の抗議を一蹴した。次には背中にひんやりした粘液がのり、建留の手のひらが薫りを広げていく。
 しばらく背中を流れるように動いていたが、つとわき腹におりたと思ったとたん、這いあがってきて、胸のふくらみがそれぞれに包まれた。手のひらでこねるようにして、それから硬く尖った胸先をしごくように指が摘む。その繰り返しという単調さはマッサージといえるのかもしれないが、あまりにも嫌らしい感覚を生みだす。
 あ、あっ……。
 背中からまた建留が呻き声を発した。ついさっき果てを見たのに、千雪と同じでまた欲情をあらわにした建留のモノが下腹部に当たっている。腰がひどくふるえた。さっきとは体勢が違うだけで、ふたりともまた自分で自分を追いつめている。
 千雪は羞恥心を覚えながらも、ほかのことはどうでもよくなって建留と同化したくなる。
 覚悟を置き去りにして浅ましい。そんな気持ちと素直になりたいという欲求がせめぎ合う。それを見透かしたように。
「どうする?」
 建留がくぐもった声で誘惑を吐く。
「だめ」
 未来の自分を見越して、本能的に拒絶したのかもしれない。
 けれど、這いあがって逃れようとした矢先、胸先を集中してこねられた。
「やっ……あ、あぅっ」
 今度は逆方向に躰を引いてしまい、ちょうど躰の中心が建留の慾に触れる。先端が濡れそぼつ躰のなかへとくぐった。
「いい感じだ」
 笑みと苦しさの入り混じった声が降りかかると、建留の腕がおなかと肩を支え、千雪の躰を抱えあげる。
「建留っ。あ、あ、ああっ」
 浴室に一際甲高く、千雪の悲鳴が響く。建留はあぐらを掻いて、自分の腕のなかにおさまった千雪を背後から抱きしめる。躰の奥深くに建留の慾が達して千雪は息苦しく喘いだ。
「ゆっくりだ」
 なだめるように云って建留が躰を揺らし始めた。

 んっ、はぅっ、はっ、あっ……。
 互いの顔が見えないセックスの形ははじめてだ。けれど、さみしいという感覚はなくて、逆に背中に感じる体温と、きつく抱きしめる腕が独りじゃないと力づけてくれるように感じた。
 建留のしぐさは、凪(な)いだ海で舟の上に乗っているみたいな気分にさせる。緩やかに撹拌(かくはん)され、千雪のなかから流れ立つ水の音がよけいにそう思わせる。
 迸(ほとばし)るほどの快楽はなくても千雪は何度も軽く弾けてしまう。小さく痙攣し続けて、意識がぼんやりとしていくなか。

「・・・ ・・」

 聞き慣れないトーンが千雪の心底に溶けこんでいった。

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