ミスターパーフェクトは恋に無力
第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第3章 シークレットオーダー
4.結婚は本物だった
千雪と一緒にいたことに、瑠依は何を云って、建留はなんと応えるだろう。
帰る途中に寄ったパン屋さんでパンを選ぶにも、家に帰ってぶかぶかのルーズなチュニックとスキニーパンツに着替えるときも、夕食の用意をするときもそわそわした気分は続く。建留が来るからというよりも、本当に来るのか、そんな疑問のせいだ。
どんなに無下にしても、瑠依はあっさり引くときと喰いさがるときがある。大きなことで云えば、結婚のときは黙認しても、ロンドンには強引に行った。瑠依は結果を見据えて動いているような気がする。今日はどっちだろう。
気もそぞろに作った料理が美味しいのかどうか、建留は八時すぎにやってきた。
千雪と別れてから一時間半というのを考えると、瑠依は簡単に引きさがったのかもしれない。ドアを開けて首をかしげると、無言の問いに気づいたらしく。
「リサーチだと云ってすぐ追い払った」
建留は肩をそびやかした。
必要以上に安堵してしまうのは、キャンセルされるのを怖がっていたからだろう。小さくうなずいて、千雪はキッチンに戻った。
胡麻を散らしたワカメとレタスのスープ、ハンバーグはトマトを添えておろしドレッシングをかけてカウンターに置く。
「これだけなんだけど。ごはん、少ししかなくてパン買ってきたの。いい?」
「メープルシロップかけたスコーンにアッサムティーだけでも文句云ったことないと思うけどな」
「それはブランチ。いまはディナー」
「だから、全然かまわない。千雪を見習って遠回しに云ってみた」
皮肉ではなかったが、千雪はかすかにくちびるを尖らせる。
「あとで機嫌直ししたほうがいいみたいだな。アラブのお土産だ」
建留はにやりとして、どう見ても日本のショップっぽい、リボンのついた紙袋をかかげると、ダイニングテーブルに置いた。
キッチンカウンターにつけたダイニングテーブルに手分けして料理を並べると、ふたりは向かい合って座った。
「開けていい?」
食べるまえに紙袋を指差すと。
「もう千雪のだ」
と、建留は肩をすくめた。
どこのだろうと紙袋を見ると、“endorphin(エンドルフィン)”という見憶えのある名前が入っている。半年まえ、一度だけ行ったことのあるアロマショップだった。
本社への出向にあたり、見学がてら栞里と業平不動産プロデュースの複合施設を訪れたのだが、そのとき、沙弓からあらかじめ勧められて立ち寄った店の一つだ。
「この店、リヤドにもあるの?」
「じゃなくて、香油の調合を頼んだ。輸入規制とか薬事法とか、いろいろ引っかかることあるし、伝手を頼ってこの店にたどり着いた。リヤドの売人を仲介してもらったんだ。今日、沙弓と栞里ちゃんには香りが違うやつをそのまま渡したけど、その店、行ったことあるらしいな」
「うん。アロマテラピーもやってたからオイルマッサージしてもらったの。高くて、それ以来、行ってないけど」
「高い?」
「普通の末端OLには高すぎるの」
「いくら?」
「全身一回二万円」
建留は、たったそれだけかという雰囲気で呆れたようにため息をつく。それからふと考えこんだかと思うと――
「まさか慰謝料はそのまま?」
答えはすでに予測している訊き方で、建留は信じられないとばかりに首を振った。
「せめて毎月のぶんくらい使うといいんだ。日本経済を潤滑させるべきだ」
千雪は紙袋から瓶を取りだす手を止めた。
「……毎月のぶん、て?」
建留は目を細めた。そして、くちびるを歪めて笑った。
「離婚協議書、よく読んでないみたいだ。おまけに常井(つねい)の説明も聞いてない。毎月、おれの口座から三十万振込されてるはずだ」
結婚していたとき、建留の給料がいくらなのか気にしたこともなかったけれど、それだけ千雪に渡しても痛くも痒くもないほど収入があるのだ。千雪の給料より高く、唖然とした。
「……わたしはいらない。もう止めてて。働いてることがばかみたいに思えちゃうから」
「証書に明記されてるから、その要求は呑めない。せっかく業平があるんだ。不動産投資すればいい。出た利益は千雪が使わないまでも寄付すれば有効活用になる」
最初にもらった慰謝料は、いっそのこと、と、どこかの団体に投棄しようかと思ったことはある。けれど、千雪のためにと渡したものに違いないから、そうしたら建留の厚意を無下にすることになって傷つける気がしていた。
「考えてみる」
千雪は曖昧にうなずいて、紙袋から中身を散りだした。香水、バスオイル、ルームスプレー、そしてボディオイルとそれぞれ記された瓶が出てきた。並べると、建留が手を伸ばしてボディオイルを取った。ふたを開けて手のひらに一滴落とす。
「手、貸して」
千雪が右手を差しだすと、建留は手を取って手首の内側にオイルを伸ばす。熱を感じるのは摩擦のせいだろうか。いまだに触れられるとどきどきしてしまう。千雪は、脈が速くなったのを悟られないようにと願った。
建留が手を放すと、嗅(か)ぐまでもなくわずかな気流に乗って薔薇が薫ってくる。
「ありがとう。いい匂い」
様子を見守っていた建留は笑った。どこか含んだ笑い方に見える。
「何?」
「いや。相変わらず、反応薄いなと思っただけだ。栞里ちゃんはともかく沙弓のほうがはしゃいでた感じだ」
千雪はむっとして目を伏せた。
「がっかりしたんじゃない。むしろ、感動してるかもな」
笑みの滲(にじ)んだ声が発した表現はちぐはぐに聞こえた。
どういう意味なのか、顔を上げかけて口を開いた矢先、千雪の携帯電話からメールを知らせる音が鳴った。
キッチンカウンターの上に手を伸ばして携帯電話を取った。見ると、メールは栞里からだった。
いま同僚たちと女子会中だという報告から始まって、『お土産』という文字が見えたからそれが用件かと思えばそれだけではなく、『いま建留さんと一緒?』と疑問を向けられ、どうしてわかるのだろうと千雪もまた疑問に思いながら目を通した。
長ったらしくメール文は続き、読むにつれ千雪の眉間にしわが寄っていく。
ひとまず、建留がいることと明日電話することだけ書きこんで返信した。
「どうしたんだ」
携帯電話をもとに戻しながらため息をつくと、建留が待っていたように声をかけた。千雪は顎を上げて軽く睨む。
「建留のメッセージ、塚田さんに見られてた。旭人くんがいなくて、三沢補佐が建留とわたしがどういう関係かって訊いてきて、結婚相手がだれだったのかって話になって、ギャラリーに来た人は外人ぽいって、それで、目はカラコンだよねって話になって、塚田さん、栞里にわざわざ付き合ってるのって訊きにいったって」
千雪にしてはめずらしく、のべつ幕無しに連ねる。建留には支離滅裂に聞こえるだろう。明らかに興じた眼差しが向かってきた。
「それで、『待ってない!』か」
「全然可笑しくない」
ぴしゃりと云い返すと、建留は薄く笑って、それからため息をつくと真剣な面持ちになった。
「隠れてこそこそするような関係でいようとは思っていない。愛人なんて以(もっ)ての外だ」
最後に、とそう望んだことは叶ったのに、少しも踏ん切りがついていなくて、それどころか千雪は建留の言葉に縋(すが)りたがる。それを振りきるように千雪は首を振った。
「加納家の人間ってことでかまえられるのが嫌だから内緒にしたかったのに……もう従兄妹同士だってことだけ云う」
「千雪。続きということがどういう意味かわかってるのか? おれは、離婚を承知したけど、認めてはいない。千雪に信じてもらいたい、それ一つで承知した」
「何を信じてほしいの?」
「遺産なんて……結婚に付き纏った条件なんて、おれたちには一切関係ないってことだ。結婚は本物だった」
ほんのわずかな意思で懸命に一歩を踏みとどまっているのに、千雪は挫(くじ)けそうになる。
「どうしてそういうこと云うの?」
それが――
「おれたちには、同じだけの気持ちがあるからだ」
と、建留が応じるまで声になっていたとは思わなかった。
建留はじっと千雪を見据えて続けた。
「どうしようもないことがある。けど、これからはふたりでどうとでもできる。帰ってくるまでは、千雪の気持ちを取り戻せるまで……もしくは解けるまでもっと時間かかるだろうと思ってた。千雪のことだ、待っていても埒(らち)が明かない。だから、まっすぐここに帰ったんだ。『最後に』。そう千雪が云わなければ、もう少し節制できただろうけど」
最後に――その言葉の何が建留の琴線(きんせん)に触れたのか。建留は薄く自嘲するように笑った。
「それとも。おれがストーカーみたいにひどい勘違いしてるんなら云ってくれ」
「……勘違いだって云ったら、誤解されるようなことを控えてくれるの?」
「いや。勘違いじゃなくなるように努力する」
建留は不埒なほど自信たっぷりで我を張る。
千雪は、笑い飛ばすような手法は持たず、素っ気なく退けるにはとっさに期待を捨てきることができない。きっと建留は千雪の期待を見抜いている。役に立たない抵抗だろうが、心底が赤裸になりそうで目を伏せた。
「瑠依さんとの話は――」
「話はない」
建留は千雪をさえぎり、すっぱりと切った。
「おれ自身は、向こうから具体的な申し出を聞いてもいない。じいさんがまずうんと云うことはないし、父さんにもそんな話を進める気はない。だから、話はおれまでまわってこないんだ。あくまでばあさんの戯言(ざれごと)で、瑠依が勝手に本気にしてる。それだけのことだ」
「でも噂はどうするの? 瑠依さん、恥を掻くことにならない?」
「だから、いまが既成事実をつくるチャンスなんだ。おれと千雪の噂が流れてるんだろう? すり替わればそれですむ。瑠依のことはただの噂話になるだけのことだ」
「瑠依さん自身が流してても? 小泉さんが、瑠依さんに早くあきらめさせたほうがいいって」
建留は眉をひそめ、怪訝そうにした。
「小泉? 小泉史也のことか?」
千雪がうなずくと、建留は何か切り替えるようにつと目を逸らし、戻した。
「旭人くんは小泉さんのこと、気をつけろって云うの。瑠依さんと仲がいいから」
「千雪はどう思ってる?」
「普通に見えるけど。旭人くんと同じで、頭が切れる感じ」
「気をつけるべきだな」
建留は素早く口を挟み――
「千雪がやすやすと男を近づけるとは思ってないけど、旭人はおれがいない間に例外になったみたいだし」
と、皮肉っぽく笑う。
「なんのこと?」
「旭人が触ろうとしても触っても、千雪は逃げない」
素っ気ないほど淡々と言葉を発したくちびるは、おもしろくなさそうな笑みを形づくった。そんなことが気に喰わないなんて、まるで独占欲だ。
千雪が目を見開くと、建留は体裁が悪いかのようにそっぽを向いて、それからため息をついてまた千雪に向き直った。
「会社じゃ、何があったんだ」
建留は気分を切り替えたようにいつもの口調に戻っている。
「なんのこと?」
千雪が問い返すと、建留は度しがたいといった面持ちになった。
「もう忘れてる? 階段から飛びだしてきた。小泉と何かあったんだろう?」
「あ……いま云ったこと――瑠依さんのことを忠告されただけ」
「逃げてきた」
「肩のうっ血した痕のせい。披露宴のとき見られたみたい。確かめられそうになったから逃げだしたの」
いつ見られたのか、それは、よろけた千雪を支えようとつかまれてへんに萎縮したときだろう。
顔を伏せがちにしてしばらく考えこんだ建留も思い当たったようで、しかめ面を上げた。
「小泉史也は簡単に手を出してくるのか」
「どういう意味? 単純に気さくだと思う。条件反射だって……」
「気さくだからといって、“確かめる”ことは、支えるのに腕をつかむ行為とはわけが違う」
建留の不機嫌がまたぶり返している。
千雪は息をついた。確かに、支えるのが目的ではないまでも手を握ることと、何が目的であれ胸もとに触れようとすることは度合いが違う。
「わかってる。独りで対処できなくて情けないだけ。無駄に心配してほしくないから」
「気にかけるのは無駄とかじゃない」
千雪は肩をすくめてわずかに目を伏せた。
「旭人くん、建留に似てきた。だから、旭人くんは平気なんだと思う。小泉さんは、建留と旭人くん、コピーみたいに似てるって云ってた」
建留はわかっているのかどうなのか首をひねった。
「建留と旭人くんて兄弟仲いいよね」
「ああ。そう思ってる」
「でも、あの日はちょっと違ってた気がする」
「あの日?」
「離婚した日。……それと、披露宴の日も旭人くん、ちょっと突っかかってた感じがするけど」
建留は問うように傾けていた首を起こし、それから答えるまで、少し時間を要した。
「旭人はおれに失望してるんだろう」
「失望? どうして?」
「千雪を守れなかったからだ。おれと旭人は兄弟であり、いちばんの親友だ。離婚は旭人にとって最悪の結末だった」
建留の口調は言葉を選ぶようだった。
どういう意味だろう。『おれの何を犠牲にしても』と、そんな旭人の言葉を思いだしながら考えてみても理解するには程遠い。
「おれにとっても最悪のことだった。千雪が強行したんだ」
信じられないことに、建留は千雪に離婚の罪責を押しつけてなじった。
「わたしのせいじゃない!」
たまらず無罪を主張すると、建留はしてやったりといったふうに、片方だけ口角を上げた笑い方をする。
「千雪のせいでもなく、おれも望んではなかった。なら、やっぱり別れる必要はなかったんだ。そうだろう?」
厳密にいえば、千雪にとって、離婚しなければならなかった要因に瑠依は関係ない。建留の云うとおり、瑠依のことはどうとでもできるのかもしれない。けれど、瑠依が原因であるほうが事は簡単だったような気がする。他人には無情になれても、家族にはそうはいかない。およその人がそうであるように、建留もそうだ。
おばあちゃんの気持ちは解決できるの?
のどもとまで込みあげた質問は呑みこんだ。
人の気持ちが簡単に変わらないことは知っている。現に建留への千雪の気持ちは十八歳のときから変わっていなくて、いや、それどころか密度は増していて、そうなるのは好きな気持ちばかりではないはずだ。
「冷めちゃうから」
千雪はお箸を取って露骨に話を中断すると、建留に食べるよう促す。長くも短くもない吐息が聞こえた。目を伏せていたから、ため息なのか呆れたのか笑ったのか、それは判別がつかなかった。
けれど。
「ばあさんのことは」
建留は千雪のためらいの最大の要因を当然ながら察していた。
「方(かた)を付けなければならないと思ってる。何十年も引きずるようなことじゃなかったんだ。おれは、そういう誤解で千雪との間をだめにはしたくない」
誤解――その言葉は意味不明だったが、千雪が拒む理由はすべて取りあげられた。
建留は千雪が答えられないと見越しているのだろう、返事を待つことなく、千雪がお箸を止めるのと逆行してハンバーグを取りわけ始めた。
千雪が気を取り直すまで時間を要したが、その後のディナータイムは、会社でのそれぞれの人間関係が話題になった。話を振ってくるのは建留のほうが多く、専(もっぱ)ら、千雪のほうが聞きだされた気がする。
建留は千雪より早く食べ終わり、おもむろに席を立ってリビングを出ていく。浴室モニターから湯はりのメッセージが流れて、建留はキッチンの裏側にある浴室に行ったのだとわかる。
戻ってきた建留に目を向けると無言の問いを悟ったらしく、薄く笑いながら「帰ってほしい?」と、ずるさを発揮して千雪に選択をゆだねた。即答できなかった千雪の迷いはあからさまなのだろう。返事をしなくても建留は追及もしない。
千雪の食事が終わるのを待っていた建留は、片づけは自分がやると云い張って、千雪は浴室に追いやられた。