ミスターパーフェクトは恋に無力
第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第3章 シークレットオーダー
3.どういう関係?
電話をしたり、書類を仕上げたり、そのときは集中していても、千雪は一つ区切りがつくたびに落ち着かなくなってため息をつく。それを繰り返すこと何度めか、ふと隣から手が伸びてきたかと思うと、パソコンの縁に付箋(ふせん)が貼りつけられた。
『ため息×5回。不快指数100%につき、これより罰金の刑執行。ため息1回1000円』
ぱっと旭人のほうを向くと、流し目で注意、あるいは叱咤(しった)を示してくる。それでまたため息をつきそうになった千雪は、慌てて姿勢を正し、息を呑みこんだ。
旭人が午後になって外出するまでは神経を尖(とが)らせていたが、いなくなると気が緩(ゆる)んでしまい、ハッとしたときは息を吐ききったあとという始末だ。
この五日間、ずっとそわそわしていたように思う。
いつもと変わらない一週間のはずが、ただ上の階に建留がいると思うだけで息苦しくなる。終始、纏わりつかれているような気がするのは、毎日、混雑する朝の電車のなかで建留の腕が腰に巻きついていて、きっとそのときに生じる移り香のせいだ。
日曜日、貴大の結婚披露から帰りついたときは、家がやたらと広く感じた。千雪独りの住み処であるはずが、あまつさえ建留が実質滞在したのは二十四時間にも満たなかったのに、肝心なものが欠けていると訴えかけているようだった。
薄れていく残り香に千雪の感覚がさみしがっていたのかもしれない。そう考えれば、電車内での移り香が纏わりついているのではなく、もしかすると嗅覚(きゅうかく)がそれだけを利き分けて千雪の感覚に閉じこめている。
終業時刻の十八時を五分すぎて旭人に連絡してみると、帰りは遅くなるらしく、千雪の都合で帰っていいと告げられて電話は終わった。
ひとまず急ぎの仕事は終わっていて、いつでも切りあげられる。今週は効率が悪い。帰ることにして、足もとにある棚からバッグを取ってデスクの上を片づけ始めると――
「須藤さん」
旭人の営業補佐をやっている三沢亜優(みさわあゆ)が斜め前の席から呼びかけてきた。
「はい。何かすることありますか」
「そうじゃなくて」
その砕けた感じからすると仕事の話ではないらしく、三沢は可笑しそうに千雪の早とちりを改めた。
彼女は瑠依と同い年で二十八歳になるが、童顔で、どうかすると年相応の千雪よりも若く見える。新入社員から同期と間違われてため口を叩かれ、先輩だと判明したとたん平謝りされることを嘆いていた。若く見られることを喜ぶというのは彼女には当てはまらないようだ。
「訊いていい?」
「なんでしょうか?」
焦点が曖昧なまま問いかけられたが、先輩を無視するわけにはいかないし、何かと問い返すしかない。
「須藤さんと加納代理ってどういう関係?」
それは、かまえる暇もない、直球の質問だった。
「……え?」
「あ、三沢補佐。その話、乗っかります!」
と、千雪より三つ向こうの席から、一つ上で同じ営業事務をやっている塚田千絵(つかだちえ)が手を上げて口を挟んだ。おまけに――
「おれも興味あるな」
正面に座った史也は、どういうつもりなのか白々しく加勢した。見ると、まったくおもしろがった表情に出会った。
「でしょう。番犬がいないいまがチャンス。相手が忠犬加納主任ならまだわかるんだけど、飛び越えて、本社復帰したばかりの加納代理じゃない?」
だから何が云いたいのか。何もなければ、そう云い返せるのに。
「……何もありませんけど」
「――っていう話はナシね。目撃者多数」
「わたしも目撃者の一人」
塚田は三沢を補足するような発言をしながら千雪の隣にやってきて、主人が不在中の椅子に座った。
「ほら。塚田さんだけじゃないのよ。堂々と一緒に出社してるんだから」
「……乗り換えで電車が一緒になるだけです。塚田さんとも会いますよね?」
「そうだけど、同じ会社に勤めてるだけっていうよりは、すごく親しそうに見えるよ。わたしだったら、加納代理と一緒になったとしても緊張しすぎて、話すどころか遠ざかっちゃいそう」
「そうよね。わたしにとっても遠い存在だし。須藤さん、どこで知り合ったの?」
「……あ、の……加納主任が大学の先輩だってことは知ってますよね。そのときに会ったことがあるんです」
急いで考え巡ったすえ、痞(つか)えながらもうまく繋ぐことができて千雪は内心で安堵する。
「じゃあ、須藤さんてよっぽど気に入られたのね」
「ですね。ただの知り合いってだけにしては、披露宴では千雪ちゃんのボディガードみたいにしてたから」
またもや、何も知らないふりをして史也が口を添えた。
「そうなの?」
「露骨にそう見えましたよ」
「そういえば、出勤中もそんな感じですよ。あ、でも」
塚田は考えこむように宙を見つめている。
「何、塚田さん?」
「須藤さんの大学時代っていえば、加納代理って結婚されてましたよね?」
「そうね。須藤さんが――あ、小泉くんもね。ふたりが入社してくる直前に離婚しちゃったんだわ。須藤さん、お相手の方、もしかして知ってる?」
話がこんなふうに発展するとは思わなかった。千雪は思わず史也を見てしまうが、これまでの発言からすると救う気はないだろうし、救いを求めるのも間違っている。興味深げに、どうする? と問うような雰囲気だけ感じた。
「あ、待ってください」
塚田は千雪が答えるまえに割りこむと、史也を見つめた。
「須藤さんよりも、小泉くんのほうが知ってるんじゃない? 社長の親戚でしょ」
瑠依が建留の結婚相手を曝さないのだから、史也がばらすとは思えない。千雪から史也へと質問が移ったことは助かったが、この半年、平穏だったのに、思いのほか、建留が帰ってきたことで建留への関心が増している。
このフロアで千雪たちの話が届く範囲内にいる人たちの耳は、おそらくこれまでにない集中力で声を聞き分けているのではないだろうか。それくらい、しんとしているように感じた。
「僕は知りませんよ。加納家に行ったことはないので。知っているとしても立場上、加納家に逆らう気にはなれませんね」
史也は無難に否定した。かわしてくれるだろうとは思っていたけれど、そう見込んでいたとおりになって、あらためて千雪は安堵した。
「そうよね。いまさらだけど、どうして相手のこと内緒だったのかしら。ギャラリーの子から聞いた話、すごくラヴな感じだったっていうけど」
「ギャラリー?」
「マンションギャラリーよ。ふたりで来たんだって」
「それで? どんな人って云われてたんですか?」
塚田は人のデスクに身を乗りだして三沢に迫った。
「髪がブロンド系、目も同じ色で人形みたいな感じって」
「外人?」
「顔は日本人だし、日本語も普通に喋ってたらしいの。まあ、何色だとしてもめずらしくはないけど」
三沢が云うと、塚田はがっかりしたように息をついた。
「ですよね」
当面、現時点の千雪からは話題が逸れているものの、過去のこととはいえ千雪の話であることには違いない。それを目のまえでなされると、他人事のようでいて、反対に、心底を無理やりぐちゃぐちゃに掻きまわされているような苦しさに襲われる。
対処しきれず、気を紛らそうと千雪はデスクの上に転がったペンを片づけた。
「三沢補佐、わたし、用事があるので帰ります。加納主任から待たなくていいと云われたので」
「いいわよ。引きとめちゃったわね。また今度」
三沢は目をくるりとさせて滑稽にしながらも、この話は終わらせるつもりがないと示唆した。
「須藤さんもカラコンしてるよね。すごくきれいだっていつも思ってるけど」
やはり不意打ちだった。
塚田は頭がまわる人のようだ。そうでなければ業平には採用されないだろうが。
傍で顔を傾けながらまじまじと見られる。コンタクトじゃないことがばれるかもしれない。そんな不安を抱いたとき、デスクに置いた携帯電話が光った。目を逸らす機会ができてほっとしたかと思うと、それは建留からの連絡だった。
手に取った携帯電話の画面にメッセージが浮かぶのが見えて、千雪はとっさにバッグにしまった。
塚田に見られていないことを願いつつ、千雪は席を立った。
「おさきに失礼します」
お疲れさまでした、と応じる声もろくに聞こえず、千雪は内心で建留を責めながらオフィスをあとにした。
千雪は自分の席に近いドアから出ると、左手にある喫茶コーナーをすぎ、その向こうの階段スペースに入りこんだ。
バッグから携帯電話を取りだして、さっきちらりと見ただけの建留からのメッセージを確かめた。
『もうすぐおりる。待っててくれ』
こっちの都合おかまいなしで、おまけにタイミングがいいのか悪いのかわからない。
『待ってない!』
癪に障った気分のまま送り返す。
やっぱり一緒なんて無理だ。
ふとしたときにぼろが出そうで、そうなったとき、お喋りが得意じゃない千雪が果たして釈明できるのか。できたとしても憶測や尾ひれがつく。噂とはそういうもので、問題だらけだ。
出向は長くて二年と聞いているが、すぐにサービスに返してと要求したくなる。
建留がいつか帰ってくるのはわかりきったことでも、千雪がいるうちは帰ってこないと自分に納得させてうなずいたのだ。
それがたった半年でこうなるなんて、ロンドンに行ったときのように、建留は予定より早く成果を出して帰ってきたのだろうか。
いや、疑問に思うまでもなくそうなのだ。その証拠として、建留は業平不動産だけではなく不動産グループ全体に係わる営業総括推進室に異動して、室長代理というポストに就いた。
千雪がいてもいなくても確実にまえに進んでいる建留に比べて、自分は後退しているばかりのような気がする。
千雪はため息をついて、携帯電話をバッグにしまった。
すると、足音がふと耳に留まる。この時間は帰社する人と退社する人が入り混じり、人の行き来はめずらしくないが、一つだけ足音の方向が違う気がした。その直感どおり、靴が見えた。男物だ、と判断したとたん、千雪は後ずさった。背中はすぐ壁に当たって行き止まる。
「驚かせちゃったかな」
大きく開いた目に入ったのは史也だった。
「大、丈夫」
本当はほかにだれもいないところで男性と二人きり――いや、男性しかいない空間に自分独りというのは嵌まりたくない構図だ。
仕事中の会議などは、壁越しにだれかいるわけだし、女性が自分一人でもなんとかしのいでいるが、注意力は散漫になっているかもしれない。
その理由は、いまではあの日のせいだと確信しているけれど、起因がはっきりしたところで直るわけではない。
いまは密室でもなければ、だれかがすぐそこを通っているのだから、怖がる必要はない。千雪は自分に云い聞かせた。
「上……行くの?」
「いや。どうなのかと思ってさ」
「……なんのこと?」
史也は鼻先で笑う。ばかにしているふうではなく、屈託のない感じだ。史也は童顔を瀬戸際で喰いとめたような顔立ちで、話し方も表情もいまみたいにいつも温和だから、瑠依のように異性から可愛がられている。
「加納代理とのことだよ」
「建……加納代理が何?」
「離婚したとは思えない雰囲気だった。聞いてた感じと違ってて、けっこう驚いてる」
史也は肩を右側だけひょいと上げた。彼の情報源は一つしかない。
「人からどう見えるかなんてわからないから。従兄妹同士だし……知らないふりしているほうがおかしいでしょ?」
「従兄妹同士っていう雰囲気でもなかったけどね。復活するんだったら早くそうしたほうがいいよ」
「……どういうこと?」
「瑠依ちゃんを早くあきらめさせたほうがいいってこと。二十八になるし、独りっ子だし、小泉家の存続を考えたら早いほうがいいだろ? まあ、小泉社長は成り上がりだし、加納家みたいに由緒たる血筋があるわけでもないけどね」
悪い人ではないと思うけれど、史也もよくわからない人だ。気さくでいて、いまの云い方からすると、現実を斜めから見ているような皮肉っぽさも持っている。
もっとも、人は見せかけと内面が違うこと多々で、わかるといえるほどだれしも単純なことはない。
いま、史也は千雪が思っていたこととかけ離れた発言をしたから意外に感じるのだ。
「小泉さんは瑠依さんに協力するんじゃないの?」
「へぇ。加納主任からそういうふうに入れ知恵されてるんだ」
千雪はよけいなことを云ったようだ。史也は口を歪めて笑う。
「加納主任、やたらおれを牽制(けんせい)してるのは、千雪ちゃんを守るためだと思ってたけど。どうやらそんな単純なことじゃないみたいだ」
「どういうこと?」
「麗(うるわ)しき兄弟愛だな、と思ってさ」
心得顔の史也はまた鼻先で笑った。建留の皮肉っぽい笑い方が悪意のない癖であるように、史也もポーズなのだろう。不快さは感じない。
「仲は悪くないと思うけど」
「悪くないどころじゃない感じだよ。加納代理とはこのまえの日曜、はじめて会ったわけだけど、どっちがどっちを真似てるんだか、コピーだよ。顔立ちは違うけどね。遠目だと間違うかもしれない」
真似ているのは旭人のほうで、史也もそう思うということは、千雪の勘違いではなかったのだ。
「はっきりケンカすることはないけど、ぶつかってることはあるし、普通だと思う」
「まあね、おれは男兄弟いないし、よくわからないとこじゃあるな。けど、ふたりが秘密を守ろうって結託してることは間違いない」
「秘密?」
「気をつけたほうがいい。千雪ちゃんは知らないみたいだから」
自分に関してなんらかの秘密があることはわかっている。それと史也が云った秘密は同じことだろうか。
「なんに気をつけるの?」
「あれ、まだ残ってる?」
千雪の質問は無視されて、逆に質問が返ってきた。なんのことか見当もつかない。
「あんなとこに痣(あざ)あったかなーって思ってさ」
「……え?」
顔をしかめた千雪に対して、史也はからかった笑みを向ける。「それとも」といったん言葉を溜めこむようにしたあと。
「キスマーク?」
史也は同時に千雪へと手を伸ばしてきた。こういう状況は得てしてスローモーション化する。だから、逃げる隙はあるのかもしれないが、避けたくても躰全体がすくんでしまう。そのとき――
「加納代理! 今日は早いんですね」
廊下から響いてきた、その驚いたような男性の声と同時に、ブラウスの襟(えり)もとまできた史也の手が止まった。
「ああ。たまにはいいだろう」
「商事の結婚式とか、帰国されてからまだバタバタですよね。週末はごゆっくり。お疲れさまでした」
「ありがとう。おさき」
だれかとの会話を聞き遂(と)げたとたん、千雪は史也を避けながら階段の踊り場を飛びだした。
千雪が廊下に出ると、カーペットに吸いこまれながらも駆ける足音に気づいたのか、建留がちょっとさきで立ち止まる。振り向いた建留と目が合った。
「須藤……」
怪訝そうに呼びかけたかと思うと口を噤み、建留は千雪からその背後へと目をやった。
その間に、以前、旭人から逃げだしたときのように体当たりのごとく飛びこむことはしなかったものの、千雪は建留のテリトリー下に入った。少しでも身を隠すべく顔を伏せると、建留が一歩踏みだして、千雪を自分の陰に隠した。
「何をやってる?」
「怖がらせるつもりはなかったんです。けど、そうしてしまったみたいです。すみません」
直後、足音がしたから史也は立ち去ったのだろう。
「千雪」
「なんでもない。条件反射だから」
抑制した呼びかけにうつむいたまま囁くように答えると、頭上でため息が漏れる。
「帰ろう。あとで聞く」
背中に当てた手に促されて反対方向を向くと、千雪はこの期(ご)に及んで廊下にいるのがふたりきりではないと知る。いくつかの目がさり気なさを装って逸れた。
「どうした? 行こう」
歩こうとしない千雪に建留がまた声をかける。
「さきに行って。わたしはあとからおりるから」
「なんでそんな面倒なことしなきゃいけないんだ」
「わからないの?」
「わかるけどわからない。ここで押し問答してるほうが注意を引く。どうする?」
建留はあくまで自分の主張を譲らない。
推進室に異動して、室長代理として各部署に挨拶回りをしたとき、住宅事業部に来た建留は千雪の姿を認めても、言葉にならない言葉が向かってくる、そんなアイコンタクトのような視線をちらりと交わしただけで、顔見知りという最低限の片鱗(へんりん)さえ覗かせなかった。
けれど、出社時間、いつまでそうしたら千雪の独り立ちを実感できるのか、困ると訴えても我を通しているように、公的な位置を離れてしまうと建留は強引で頑固で、とても千雪の手には負えない。
旭人が不在を狙って三沢がすかさず問いつめてきたこと、それに塚田が乗ってきたこと、それらを考えると、隠そうとすることはもう手遅れで無駄足にすぎないのだろうが。
千雪はぷいと歩きだして、せめてと背中にある手から逃れた。
かまえてエレベーターホールまで行くとだれもいなかった。社内には、もう一カ所に不動産直通のエレベーターが二基あるが、ここだけでもエレベーターは六基あって、出社時はともかく帰りは余裕でおりられる。ひとまず、ふたりで仲良く退社という噂の種を提供する破目に陥(おちい)ることはなく、千雪はほっと息をついた。
次に来たエレベーターは空っぽで、乗るのもふたりだけだったが、建留と距離を置くと、可笑しそうな眼差しが向かってくる。建留が無理やり近寄ることはなく、千雪の意思を尊重したのか、単におもしろがっているのか。おそらく後者だ。
「寄り道する」
建留は唐突に云いだして、千雪はメッセージのことを思いだした。
「待ってない」
メッセージと同じくつっけんどんな返事をすると、建留はシニカルに笑う。ちゃんと読んでいるらしい。直通のエレベーターで地上におりるのではなく、わざわざ一つ下のフロアまでやってきたことを考えれば、建留に何やら計画実行の意思があるのは歴然だ。
「それでもいい。おれはあとから行く」
「どこに?」
「わかってるだろう。おれが休息を取れる場所は一つしかない。今日の会議のために今週はずっとデスクワークだったし、煮詰まった感ある。息抜きさせてくれ」
頼み事を通り越して自己主張だ。ましてや、息抜きなんて都合のいい女みたいな云い方に聞こえる。
「愛人になる気はないから」
つんと顎を浮かして云ったとたん、からかわれるかと思ったのに、建留は逆に顔をひどくしかめた。
「そういう扱いをおれがすると思ってるのか」
建留は吐き捨て、図らずも不機嫌そうに雰囲気を変えた。
「そういう云い方をしたのは建留」
云い返すと、建留はめずらしく言葉に窮したように黙りこむ気配を見せた。
結局はその気配どおり、下におりても業平ビルを出ても建留は無言でいた。何が癇に触ったのだろう。口を開いたのは乗り換えの駅に着いてからだった。
「寄り道、一緒に来るだろう?」
「見られてるから」
千雪の言葉を受けて、建留は辺りを見渡した。見上げていると、その視線の移動がつと止まる。なんだろう、と千雪が振り向きかけると――
「だめだ」
建留が制した。
得てしてそんな命令は良くも悪くも好奇心を刺激する。
つい、振り向いてしまったそのさきに、見間違いようもなく瑠依を確認した。見られているというのは事実に基づいたことでも、千雪が云ったのは不特定の人であって瑠依のことではなかった。驚くと同時に、立ち止まっていた彼女が歩きだし、こっちへ向かってくる。
「さきに帰ってていい」
建留は前言を撤回した。それから半ば窺うように「あとで」とつぶやく。
「……週末で冷蔵庫のなか空っぽだし、作り置きの冷凍ハンバーグしかないけど」
ためらったのち、千雪が遠回しの返事をすると、建留はため息をつくように笑った。
「ニンジン、ピーマン、シイタケ入り?」
「一度にいろんなもの取れるし、美味しいと思うけど」
「充分だ。行って」
千雪はためらった気持ちのまま少し留まって、それから瑠依のほうを向いて会釈だけすると、建留を置いてその場を去った。
建留に流されるのに任せて、ずるずると切れないでいるのがいいことだとは思っていない。帰国から一週間たっても瑠依との話が進んだ様子はなく、けれど、立ち消えたわけでもないというのも知っている。
ただ、いざとなると、わがままが出てしまう。瑠依に建留の時間を明け渡したくなかった。