ミスターパーフェクトは恋に無力
第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第3章 シークレットオーダー
2.加納家の男たちのさだめ
一年半ぶりに入った加納家の応接間は、めったに使われることがないにもかかわらず、いつも優雅に整えられている。その景観とは裏腹に慶事には無縁で重苦しいことばかりだ。
仲村家の結婚披露から帰って十時をすぎ、孝志に続いて滋が入ってくると、建留は姿勢を正した。
「お疲れのところすみません。報告会議があるまでに一考してもらいたいことがあります」
ふたりが腰をおろして落ち着いたのを見計らって切りだした。
「なんだ」
「業平不動産の一大事業として、イラクのバグダード都市開発プロジェクトを立ちあげたいと思っています」
「イラク……」
滋は気難しい面持ちでつぶやいた。孝志も重々しくうなずいて口を開く。
「治安はまだ不安定だろう」
「そこは否定しませんが、投資ビジネスとしては絶好の国です。イラクと日本の関係はけっして悪くはない。業平商事は現在、来年末の油田の開発権を巡って動いている。商事と共同で参入できればベストです。都市開発を働きかけることで、開発権の落札に向けて優勢に持っていける可能性もあります」
「商事とか」
「はい。貴大とはこの件について昨日会ったときに話しました。貴大はインフラ、上戸は金属、金城は機械、それぞれに有益性はあります。三人ともためらいなく応じてます。いま業平がやらなくても、いずれはどこかの企業が、あるいはどこかの国が参入します。二番手では意味がない。すでに都市化はしていますが、目指したいのは第二のドバイではなく、第一のバグダードです」
「大きな賭(かけ)になるぞ。万が一、また戦場にでもなれば……」
「そういう考えに走らないよう、イラク人が誇れる都市開発を手掛ければいい。あくまで、業平はアドバイザーです。主導ではなく、誘導すればいいんです」
建留が云い終わると、応接間はうっとうしい気配で沈黙したが、やがて滋がため息をついてそれを払った。
「考えてみよう」
「お願いします。時間取らせました」
滋が立ちあがり、続いて孝志も腰を上げた。
「父さん、ふたりで話したいことがあります」
建留がすぐさま呼びとめると、孝志は浮かせた腰をもとに戻した。滋はちらりとこっちを向いたが、そのまま出ていった。
「なんだ」
扉が閉まると、孝志が促した。
建留は一つ深く息をついて、これまで抱いてきた、知りたくても触れてはいけないこと、そんな沈黙を破棄した。
「父さんと、千雪のお母さんとの間に何があったんです?」
率直な問いかけを受け、孝志は建留の真意を探るように凝視した。
息を呑み静止したような間が空く。すぐに答えのないことが、茅乃の邪推を裏づけているように思う。
「何も、なかった」
言葉を句切るような云い方は、自分にけじめをつけているかのようだ。
そんな返事があったにもかかわらず、建留はあえて口を開かずに待った。すると、建留の強い意志を感じたのか、孝志は観念したように首を振りつつ深く息をついた。
「おまえと同じだよ」
「同じ?」
「麻耶は突然、加納家にやってきた。麻耶が十四歳、私が十七歳のときだ。妹だと云われて、すぐに納得できるか、という話だろう。ましてや、腹違いと聞かされた。母のほうが到底納得できなかったのは云うまでもない。そういった状況で、どう接すればいいんだ」
最後のつぶやきは、十七歳の少年の戸惑いそのままだった。複雑な心境はいまでも鮮明に思いだせるのか、孝志はそこに映像があるかのように宙を見つめている。
「おれは、おばあさんの一方的な話しか知らない。おばあさんは、おじいさんに囲ってる女性がいることは知っていた。子供がいることも。本当のところ、おじいさんとおばあさんには何があったんです? 女性はおじいさんの部下だったと聞いてる」
「私も知らない。ただ、物心がついたときにはもうふたりともぎくしゃくしていた。直接訊ねたこともあったが、麻耶に罪はないという、その一点張りで、父が云い訳することはなかった」
「そうすることに女性への償いだけではなく、気持ちがあるとしたら、おばあさんが苦汁をなめた気にさせられるのも無理はない」
「ああ。母には同情するべきなんだろうな。息子としても人としても」
その云い分に、建留は首をひねった。まるで、そうできなかったと云いたげだ。
孝志はやりきれないといった様で、建留の無言の質問に口を開いた。
「父と部下だったという女性は罪から逃れることはできない。だが、麻耶に罪はない。私がそう思うようになったことは、母にとっては裏切りと映っただろう」
「なぜ、そう思うようになったんです?」
「妹であることを呑みこめなかったからだろうな」
「どういうことです?」
「例えば、華世が妹としてやってきたのなら、それを受け入れられたかもしれない。何が違うと思う?」
「見た目、ですか」
「そうだ。明らかに麻耶はほかのだれとも違っていた。一時期、私はおかしな気を起こしていた。あくまで私の心中のことであって何か行動に移したわけじゃない。それでも麻耶は気づいていた。母も、だ。麻耶が高校を卒業すると同時に出ていったのは、母の迫害もあっただろうが、私のせいでもあるだろう」
「おばあさんは、そのことがあって父さんにも風当たりが強いんですか」
「ああ。麻耶が来るまでは、父とはぎすぎすしていても私にはやさしかった。もう――」
「もう、復讐劇は終わりにしてもいい」
「そのとおりだ。母は素直に現状を受け入れるべきだと思っている。だれも浮かばれる者がいない。母さえも、だ」
孝志は慮った面持ちで息をついた。そして、また口を開く。
「いまとなっては、若気の至りという言葉ですませられるくらい、何もない。……いや、疾(やま)しさは残っているんだろう。千雪が来たとき、複雑な気分にさせられた。千雪を見るたびに罪悪感を押しつけられている気になって……おまえたちが離婚したときはほっとした面もあったんだ。いまは、麻耶にそうできなかったぶん、せめて千雪は母からかばってやるべきだったと思う」
「それなら、今度こそ、千雪の御方になってもらえませんか」
孝志はわずかに目を見開いて建留を見つめ返す。
「よりを戻す気か」
「おれは、欲しいものを望んではいけませんか」
「そんなことはない。むしろ、そうしないことを心配してきた。おまえは何も要求しない子供だった。不自然だろう」
「おれは……旭人から、独占的に甘えられる唯一の場所を奪いたくなかったんです」
「……だれも彼も、代償が大きいな」
孝志は顎をさすりながら嘆息した。
「千雪はただでさえためらっている。おばあさんが実の祖母ではないことを知らせたくはない」
「千雪のことは、本社に呼んだときから気にかけているつもりだ。旭人を――加納家の人間を傍に置けば昔の噂がだれかの口に上ることはないだろう」
「千雪を呼んだのは父さんの提案ですか?」
「いや、旭人だ。私の耳には入らんが、社内ではありもしない話がのさばっているらしい。グループ全体に伝わるのも時間の問題だと云っていた。おまえがいま云ったことと同じだろう。千雪に聞かせたくなかったのかもしれない」
「瑠依の吹聴はともかく、ありもしない話ではないんでしょう、少なくともおばあさんにとっては」
「私は自分がそう貫けなかったぶん、おまえと旭人の意思は尊重したいと思っている。いま、はじめておまえから当てにされたんだ。協力は惜しまない」
建留は気取られないくらい程度に息をついた。
「不動産でもそう願います。おれがそうなるまえに、父さんに小泉家から不動産を奪還してもらいたいと思っているので」
「だから、博打(ばくち)じみたことをするのか」
「博打ではありません。なんのために一年余り奔走してきたと思ってるんです? それなりに人脈は築いてきたつもりです。見通しがきいていなければ口にしませんよ。業平ののれんに泥を塗るのは、おれがいちばんやってはいけないことですから」
「そう気負うな」
孝志の言葉に一瞬、気が抜けたかもしれない。
「おれは、……。千雪からすれば、みすみすおばあさんの策略に乗ったのと同じだ。おばあさんからすれば、千雪に誑(たぶら)かされて裏切ったことになる。父さんも母さんも旭人も、おれは傷つけることしかできていない」
「だからといって、おまえが無傷だということにはならない。そうだろう?」
なぐさめてもらうために云ったわけではなく、そんな言葉が返ってくるとは些細(ささい)も思っていなかったが。建留は薄く笑った。やはり弱音だったのだろう。
「……いま、はじめて父さんの子供になった気分です」
孝志の笑い声は、建留を阻(はば)んでいる壁を一つ壊したように感じた。
*
色に惑わされるのは、加納家の男たちのさだめなのか、それとも、いまは亡き、淡彩を纏った女が心底に秘めていた悲願なのか。
滋によれば、その女性、一之瀬葵唯(いちのせあおい)は千雪とそっくりだったらしい。遙か昔に、もしかしたら異国の血を引き継いだのかもしれないが、葵唯の母親もまた同じ様だったと聞く。
いまは色が違っても世間に紛れていられるが、昔はそうもいかなかっただろう。髪の色はともかく、目は隠しようがない。
特に戦時中、また戦後もしばらくは生きにくかったのではないか。葵唯の父親は戦地で病を患(わずら)い、家に戻ってきて間もなく亡くなったすえ、母親は葵唯とともに、世間の目を気にした夫の実家から縁を切られた。そのことが彼女たち代々の苦辛を裏づけている。
葵唯の母親は、葵唯が業平不動産に入社して二年めに亡くなっている。ほかに身寄りのなかった葵唯に親身になったのだろう滋の気持ちは、理解できなくはない。
かくいう建留もまた、かばいたい気持ち、そこから始まっている。
麻耶が三歳のとき、葵唯は麻耶を連れてひっそりと滋のまえから消息を絶ち、病床に就くまで居場所がわからなかったという。亡くなる直前に連絡してきたのは、葵唯ではなく麻耶だった。
葵唯から何を聞き、何を思ったのか。会社のまえで滋が出てくるのを待っていた麻耶は、そうしていれば必ず父親が自分を見つけてくれる、そんなふうに思っていたようだ。滋が訪ねたときはもう葵唯は意識もなく、看取るだけだった。
加納家に引きとられた麻耶は結局、出ていった。一度だけ加納家に訪ねてきた日、建留には茅乃が同席していた記憶がない。麻耶は、本来なら茅乃に、結婚したこと、そして千雪の存在を知らせたかったのではないか。当然のことでも、孝志とは何もないという潔白を証明するために。孝志の話を聞いたいま、建留はそんなことを思う。
そして麻耶は、今度は自分の病によって滋を頼ってきた。自分を母親と重ね、千雪のゆくすえを案じたに違いなく。
建留は腕時計を見て時間を確認すると、一つ息をついた。
通勤時の駅の構内は人だらけだが、しばらく電車通勤から遠ざかっていた建留にとっては息苦しさではなく新鮮にさえ感じる。いや、新鮮というには微妙に違っていて、それよりは、独りという安心感だろう。この一年半、社内やホテルを一歩出れば絶えずだれかが付き添い、それはやむを得ないことだったが、逆に、内心の懸念を煽っていたかもしれない。中東にも慣れてあたりまえになっていたはずが、帰国してみて自分がいかに気を張っていたかというのを自覚した。
千雪の『最後』という言葉に付け込んだのは、心底も躰も、安穏(あんのん)とした休息を実感したがったからだ。無謀なことをそうは思わずに千雪が口にしたあと、建留はうなずいたものの、しばらく、獣のように理性をすべて放棄しそうな自分と闘わなければならなかったが。
――と、そこまで考えると、自ずとその直後の時間が甦る。いまはそんな時間でも状況でも、ましてや雰囲気もないのに躰が疼くのは、千雪だからこそ、なのか。
建留はよぎった記憶を振り払うように首を振った。
ちょうど通路に人が溢れてきて、それに気を取られると、夏でもないのにうだるような気分も少しは紛れた。
そしてまもなく、探すともなく見つかる。
惹きつけれた要因は、幼かったときも、あのなんともいえない日も、確かに見た目だったかもしれない。だが、瞳の色などわからないこの距離で、似た色に紛れたその姿を、長い時間離れていたにもかかわらず簡単に捉えられること――それが、もうだれにもかえられないことを自分に突きつける。
一点のみを追っていると、ふとその顔が何かに引っ張られるかのように方向を変え、建留へと向いた。ふたりの視線がぶつかると同時に建留は人の波に逆行した。
遠目でも千雪が驚いたことは見て取れ、雑踏のなか、惰性で歩いていた彼女は驚きがやっと脚に伝わったのか、いきなり立ち止まった。
後続の男が完全にはよけきれず、ビジネスバッグだろうか、千雪は何かに突かれたようによろける。失敬な男ではないらしく、この急ぐ時間帯にもかまわず何かつぶやきながら立ち止まった。
男の手が千雪を支えようと触れる寸前、建留は彼女の腕を取った。
「急に止まったこっちが悪いんです。すみません。ありがとうございます」
男は目を見開いて、突然現れた建留を仰ぐと、いや、と軽く手を上げて立ち去った。
「建留」
千雪もまたびっくり眼で建留を見上げた。その様子からして男の手には気づかなかったようだ。
「遅刻するまえに行こう」
建留はつかんだ腕を引いて歩き始めた。千雪はのめるように一歩を踏みだしてついてくる。
「ここで何してるの?」
「云わなくてもわかるだろう。会社に向かう途中だ」
「じゃあ、なんのためにいるの? 朝はおじいちゃんたちと一緒に車に乗ってくのに」
「たぶん、千雪がちゃんと独りでやれてるってことを実感したいんだろうな」
「腕、放して」
思ったとおり、自立心旺盛の主張が返ってきた。見下ろすと、抗議を宿した瞳とかち合う。建留は口を歪めて見やり、千雪を半歩さきに通して連れ立った。
千雪の定位置だろう、階段をのぼりきると、すぐそこの列ではなくちょっと奥へと移動する。列に並んだところで話す間もなく電車が入ってきた。
身動きが取れないほど混雑するなか、千雪の腰を抱くと即座にシャンパンゴールドの瞳が間近で向かってくる。ここでも建留が思ったとおり、千雪が抵抗することも文句を口にすることもない。ただ無言で、おそらくは、どういうつもり? と問いかけてくる。
建留はわずかに身をかがめた。
「続き、だ」
千雪はすぐさま目を逸らして顔まで伏せてしまう。
表情は読みとれなくても、そうすることで気持ちをあらわにしているということに千雪は気づいているのか。それとも、建留が渇望するあまりに思いすごしてしまうだけなのか。
ただ、視界から瞳が消えたことで、また疼き始めていた躰の熱はわずかにおさまり、救いにはなった。