ミスターパーフェクトは恋に無力

第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第3章 シークレットオーダー

1.薫り

 建留の口から場所をわきまえない宣言が放たれたのは、名を呼ばれて千雪が振り向いたとたんのことだった。
 ひと言め――やり直す気はない、と云われるのは二度めでも免疫はなく、傷の上塗りをされたみたいに感じて、そしてふた言め――。
 忘れようとしていた結婚という時間は、そうするのではなく、いつも引きだせるようにずっと大事にしまっておこう、と気持ちが変化して、けれど、引きだす必要もなく常にと云っていいくらいに浮上してくる。苦しくて抱きしめたくなる、そんな感情のなかで、もしも――と考えないことはない。
 ふた言めは、いま建留が千雪に向けるには卑怯(ひきょう)すぎた。
 周りの音は、薄い膜に覆われているように不明瞭に変わった。このテーブルの場所だけ、遠く無重力空間に飛ばされたようにしんと静まっている。
 何も答えられない。口を開いたら、考えていることとは違う言葉が飛びだしそうな気がした。
 居心地が悪い以前に、何か口走ってしまうことが怖くて千雪は席を立った。
「千雪ちゃ――」
「いい。あとでおれが行く」
「……バカね。呆れちゃうわ。こんなところで」
「バカにならないと進めないことがある。そう知っただけマシだろう」
 背中の向こうから届いていた建留と沙弓の会話はそれを最後に、お喋りが飛び交うにぎやかさに紛れて聞こえなくなった。
 会場を出て扉が閉まると、何人か人はいるが、時間を飛び越えたように一気に静かになる。
 独りになりたくても、いまは人目のある場所にいるほうがいいとわかっている。抑制がきかなくて、戻れなくなるかもしれない。
 建留はそれを知っているから、千雪が独りになる時間を与えたのかもしれない。
 ソファでくつろぐ人がいるなか空席はいくつもあるが、千雪は窓際の隅っこに行って、少しでも目立たないよう、背の高い観葉植物ウンベラータの横に立った。鮮やかな緑色とハートの形をした葉に、落ち着かない気持ちが少しだけなだめられた。
 窓の外を眺めれば、十月の快晴は清々(すがすが)しく遥か向こうまで見渡せる絶景があるのに、千雪の感性に感動を呼ぶには程遠い。思考はうまく働かず空回りばかりしている。
 続き。けっしてゼロにはしたくない時間。
 建留は千雪と同等にある心底を訴えた。
 欲しかった言葉であることは否定しない。けれど。何をためらっているのだろう。切望はしていても、実際に聞けば、手が届きそうな未来を信じたくなって意思が弱った気がする。
 信じてほしいことがある――信じる材料は同じ気持ちだけ。それで充分なはずなのに、どこかすれ違っている気がして、だから終わりにしなければならなかった――そのことが不安とためらいを生む。
 どれくらいたったのだろう、ふと、傍に人影を感じた。見なくても建留だと察する。沙弓との会話があったし、昨日から部屋に残る幽香(ゆうこう)と同じものが千雪の嗅覚をくすぐる。
「怒ってる?」
 第一声の質問は的外れなようでいて的を射ている。
「なんの薫り?」
 外の風景から目を離すことなく千雪が訊ねると、建留はなんの話か察せずに窮したのだろう、すぐには答えが返らない。やがて、ふっという、ため息なのか笑みなのか、吐息を聞きとった。
 壁一面という窓の傍に立つと、ともすれば地上に吸いこまれそうな怖さを感じるが、横に通されたバーが安心感を与える。建留は千雪の両脇から腕を伸ばしてバーをつかんだ。背中に建留が密着して、頭の上に顎がのると薫りが一気に濃くなる。
「サウジアラビアの香油だ。香油をつけるのは向こうでは身だしなみみたいなものだった。やっと癖づいてバンコクでも続けてたけど、日本じゃ香水は敬遠されがちだし、癖も切り替えないとな。千雪にはローズがベースの香油を買ってる。リザーブしてたのをリヤドの知り合いに送ってもらったからもうすぐ届く」
「わたしは嫌いじゃない。好き。……薫り、きつくないし」
 建留はしばらく黙りこんでから、また吐息を漏らした。今度はきっと笑っている。
「簡単だとは云わない。きつくないことはない。けど、決着はつける」
「建留は信じてほしいことがある、って……わたしにじゃなくても、お母さんに関することで、内緒にしてることを話してくれたら信じる」
 いくら待っても、建留は答えなかった。

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