ミスターパーフェクトは恋に無力

第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第2章 従兄妹以上恋人未満

3.変わらない脅威

 一時間後、千雪はタクシーで会場に向かった。会場は業平不動産のグループ会社が経営するグレイシャスホテルだ。貴大の披露宴だから、ここであってもおかしくない。それどころか当然だろう。
 タクシーを降りると、ホテルマンが促すのもかまわず、千雪はそこでしばらく立ち尽くした。
 千雪と建留の結婚生活はこの場所から始まった。終わりがくるなんて脳裡をかすめることもなく、一緒にいられることをただうれしいと思っていた。
 二重にドアがあるエントランスの向こうは、あの日と同じように人が行き交い、ホテルマンが優雅なしぐさで案内している。
「千雪」
 動けないでいるところへなだめるような声が届く。どこから来たのか、エントランスとは違う、脇のほうから建留は現れた。
 フォーマルな装いは今朝の建留よりも遠い存在に感じさせる。
 建留はホテルマンを下がらせると、数歩距離を置いたまま、千雪をやはりひととおり眺めた。
「髪の色だけ不合格だな」
 千雪は、やり返そうと建留の“不合格”を探そうとしたものの見つからない。
「“わたし”だってわからないほうが面倒じゃなくて、建留にも都合がいいと思うけど」
「千雪のためにはそうであったほうがいいとは思うけど、人がどう捉えようとおれには関係ない」
 微力ながらも切り返したつもりが、建留の返事は千雪を不安にさせた。今日の主賓クラスの出席者は、加納家のパーティで面識のある人が多く、ふたりが結婚していたことを知っている。
「……“わたし”だって気づかれる?」
「顔を伏せることはない。そういう結婚じゃなかった。おれが保証しても千雪の力にはなれないかもしれないけど」
 建留は息をつきながら皮肉っぽく笑った。
 千雪は気分そのままにうつむいて、それからすぐ顔を上げた。
 どのみち、業平に勤めているのだからのっぴきならない。
 入社まえ、滋と一緒に業平不動産サービスの社長と会ったとき困惑させてしまったが、同じように千雪もおさまりの悪い思いをした。いずれどこかで会うという確率は高いのだから、そんな気まずさも一度にすませておいたほうがいいのかもしれない。
「挨拶にまわるときは従妹って云っていい?」
 建留は気に喰わなさそうに顔をしかめた。
「何をかまう必要があるんだ。おれが――」
「エスコートは旭人くんに頼むから」
 千雪がさえぎると、建留は口を噤み――
「そのほうがいいんだろうな」
 と千雪をじっと見据えて薄く嗤(わら)った。
 何かを振り払うように首を一度だけ振ると、建留は千雪の背中に手を添えた。
「行こう」
「さきに、おばあちゃんたちに挨拶すませてたいんだけど、でも」
「おれが付き添っていないほうがいい――か?」
 建留は淡々と千雪のあとを続けた。
「揉(も)め事を……お祝いの日だから、わたしのせいで周りの人を戸惑わせるようなことしたくないの」
「わかった」
 素っ気ないほど口早に答えが返ってきた。

 建留を見上げかけたとき、もう一つ見慣れた影を目の隅に捉えた。旭人だ、と千雪は半ば直感的に判断する。
 千雪の目が悪ければ、そして、建留と一緒でなければ、たぶん最初は建留だと思ってしまうかもしれない。
「兄さん、捜索願いが出てるけど」
 お互いに歩み寄った位置で立ち止まると、旭人は首をくいっと傾けて揶揄した。出したのがだれかというのは云わずもがなで、右隣から吐息が漏れる。
「旭人、千雪を控え室に連れていってくれ」
「独りで――」
「じゃないほうがいい。挨拶したところで引き際が難しいだろう? おれが連れだしてやるよ。なぜか加納家の控え室に他人が居座ってるし」
 旭人の云う『他人』がだれを指すのかは歴然だ。旭人は千雪から建留へと目を転じた。
「兄さんは貴大さんのところに行ってアリバイ工作してくればいい。千雪とはそこで会ったことにしておく?」
「それでいい」
「オーケー。千雪、行こう」
 今度は旭人の手が背中に添えられて一歩を踏みだすと、かわりに建留の手が離れた。二歩め、左足が地から浮く刹那(せつな)。
「千雪」
 いままで耳にしたことのないトーンで建留が呼びとめる。虚をつかれたような、そして、何事かと振り向かせるような疑問、あるいは怪訝さも潜んでいた。
 振り返ると、どことなくこわばった雰囲気に面した。
 どうかした? と訊くよりさきに旭人の声が千雪のすぐ背後から発せられる。
「兄さん、不在の間に何も変わっていないと期待するのは間違いだ。変わってほしいところに限って少しも変わってないだろうけど」
 何が云いたいのか、旭人はまるで建留を挑発した云い方をした。
「どういうつもりだ」
 やはり問いつめるような声もこわばって聞こえた。
「兄さんに害を与えるつもりはないよ。むしろ、役に立ちたいって思ってる。おれたちは兄弟なんだ。わかってるだろう?」
 対峙(たいじ)したふたりの間には、離婚した日にあった気配が見え隠れする。敵対ではないと思うが、旭人の口調には煽るようなニュアンスがあった。
「わかってる。行けよ」
 しばらく黙りこんでやっと口を開いたかと思うと、自分が呼びとめたくせに、建留は追い払うように顎をしゃくった。
 千雪は旭人に促されて歩きだしたものの、背中を押す旭人の手の温度が、汗ばむように感じるほど上昇している気がした。実際は、旭人の手のひらではなく千雪の背中が勝手に熱を帯びている。きっと建留の視線のせいだと千雪は思う。
 建留が千雪を呼んだのは何が云いたかったからなのか、旭人はわかっているふうだが、千雪にはさっぱりわからない。なぜか責められているような感触だけ覚えている。

 エレベーターに乗ると、建留はそのまま残った。一つ遅れて上がるという。それは茅乃の不興を買わないための念を入れた結果なのか。千雪たちが乗りこんで扉が閉まるまでは一分もかからなかったはずが、建留の視線が千雪から逸れることはなく、時間の流れがスローテンポにシフトチェンジされたように感じた。
 そして、不可抗力の扉がふたりを遮断する。
 これが決まっていた運命とするなら、千雪と建留の結婚は奇蹟だったかもしれない。
「人目を気にしないとかさ、披露宴でそういうことするなよ」
 十八階でエレベーターを降りると、旭人は唐突に、なお且つ呆れたように忠言した。
「……なんのこと?」
「一階でエレベーターに乗り合わせた人たちはひそひそ話しそうな雰囲気だったけど、それがわからないくらい、千雪は兄さん以外だれも見えてない。元サヤのひと晩はどうだった?」
 旭人はいつも率直だが、いまはそれ以上に出過ぎだ。
「控え室はどっち? 嫌なことは早くすませたいの」
 千雪が答えを飛ばすと、旭人は口を歪めて「こっちだ」と先立って行く。
「どうにもなってない。建留がウチにいたこと知ってる人、ほかにいるの?」
 心配になって問いかけたとたん、千雪を振り向いた旭人は吹きだすように笑い声を漏らした。
「何?」
「兄さんは空港のホテルに泊まったって云ったんだ。鎌(かま)かけてみた」
「……ひどい」
 睨みつけると、旭人は片方だけ肩をそびやかし、それからおどけた気配を消した。
「だから。兄さんの嘘を見抜いている奴がいるかもしれないって話だ。気をつけろよ。まあ、千雪はお喋りじゃないから口を滑らすってことはめったにないだろうけど。おれに対するみたいに気を許してない奴が相手なら、な」
「旭人くんに気を許してるつもりないけど」
「やっぱり気づいてないのか? そういうつもりでいるなら、よけいに気をつけたほうがいい。つもり、だから」
「どういうこと?」
 千雪の問いかけに旭人はオーバーなくらい深くため息をついた。
「少なくとも、ウチに来たときからそうだったけど、千雪は男に触られるのが苦手か、もしくは嫌悪してる」
「それは……なんとなくわかってる」
「なんとなく、って自分のことだろ? 何が原因だ? お父さんか?」
 千雪はふと芳明を思い浮かべる。
「……お父さんのこと、苦手だけど……」
 考え考え云っていると――
「千雪ちゃん?」
 聞きたくない声に呼びかけられた。

 顔を上げると、ちょっとさきにあるドアの傍に瑠依がいた。
 二十八歳になっても、可愛さを備えた瑠依の際(きわ)やかな美人ぶりは健在だ。
 ずっと会うことはなかったが、サービスから業平不動産に移ると、フロアは違っても同じ社内にいるのだから無視するわけにもいかず、渋々と挨拶を交わしに訪ねて、それからはすれ違う程度で何度か顔を合わせている。
 瑠依は何事もなかったように振る舞う。おととい社員食堂で聞いたように、離婚したとか結婚するとか、触れまわることはあっても、幸いにして千雪の名を出すことはないようで、それだけはほっとしている。
「瑠依さん、こんにちは」
「建留が帰ってきてるんだけど、知ってる?」
 瑠依もまた率直だ。そうして千雪の反応を引きだそうとしているのか。
「……さっき、貴大さんのところで会いました」
 建留と旭人の会話を聞いていてよかったと思う。
 瑠依はつぶさに千雪の顔を見つめた次にはくすっと笑った。
「父ったらサプライズだって今朝まで建留が帰国したことを教えてくれなかったの。結婚式で会えば刺激になると思ったみたいだけど。そんな刺激は必要ないと思わない? うれしいとは思ってるけど。でも、千雪ちゃんて相変わらずクールね」
 瑠依は信じたのか否か、いずれにしろ、そんなことは問題じゃないと云わんばかりの余裕を見せつけた。その云い分からすると、もうなんらかの結論が出ているのかもしれない。余裕があるということは、結論は結婚しか考えられない。
「おばあちゃんは?」
「いらっしゃるわよ。どうぞ」
 瑠依は閉めたばかりのドアを開けて招く素振りをした。
 どちらが身内なのかわからないようなやりとりだ。もっとも、結論が出ているのなら、瑠依がそういう云い方をしても少しもおかしくない。
「千雪、とりあえずは兄さんの帰国熱が冷めるまで気をつけるべきだ」
 旭人が声を潜めて忠告する。
「わかってるから」
「千雪。千雪を守りたがってるのは兄さんだけじゃない。おれの何を犠牲にしても、おれは千雪を守ってやる。同じことは繰り返させない」
 それは千雪にとって突拍子もない発言で、旭人らしくないほど真剣で断固とした主張だった。
 千雪が呆気にとられて旭人をじっと見上げると、真剣さはすぐに消えて薄笑いが返ってきた。皮肉っぽく、それでいて興じている。真意は見えない。
「千雪がストレートに取りたいんだったらそうしてもかまわないけど」
 要するにストレートに受けとるべきではないということだ。
 人を愚弄しておもしろがるというのは、どんなに建留に似せようとしても旭人からはけっして消しきれない性(さが)だろう。いったん言葉を切った旭人はあとを次いだ。
「何よりもおれにとっての優先事項は、兄さんと千雪の御方(みかた)であることだ」
 御方――それは建留がかつて口にしたことと同じだった。建留も旭人も、何があってそんな言葉を口にするのだろうか。訊ねたかったが、すぐ歩くようせっつかれて訊かずじまいになった。

 旭人の発言に気を取られていたせいか、ドアを開けて待つ瑠依のところへ行くまでは憂うつも吹き飛んでいた。が、控え室内へと通されるなり、加納家の面々が一斉に目を向けてきて、躰がこわばると同時に千雪は身構えた。
 一斉にといっても四対の目しかないし、明確な敵対ということに絞れば一対に限られる。
 普段から目立つことを避けるべく心がけている千雪だが、通りすがりではなく千雪として見られるだけに脅威だった。他人の視線はやりすごせて、たとえ好奇心が向いたとしても無視することができるのに、身内を怖がるなんて自分でもどうかしていると思う。けれど、茅乃の瞳は品定めしているように見える。こんな毛嫌いした眼差しを簡単に受け流せる人がいるだろうか。
 加納家を出てから、茅乃と会うことはなかった。七十四歳になると思うが、その間に特別に変わった点は見受けられず、多く見積もっても六十代そこそこじゃないかという若さを保っている。
「こんにちは。ご無沙汰しています」
 だれにともなく一礼をすると、奇妙な沈黙がはびこる。おそらく茅乃の反応を待ちかまえているのだ。
「元気そうだわ。生活にはぐれたり古ぼけたり、そんなことにはなっていないみたいで安心したわ。お手当が役に立っていて何よりね」
 一拍置いて、茅乃がゆったりと声をかけた。『お手当』という言葉に侮蔑を感じたのは千雪だけなのか。気品という見かけに沿ってたおやかな口調だったが、刺(とげ)は隠されているようでいて、その実、剥きだしに感じた。昔の貧相だった日々をほのめかし、そのうえ、愛人に対するようで、結婚という真っ当だった関係を否定したがっている。
 マンションはともかく現金には一切、手をつけていない――と云い返したくなるのはまだ子供っぽいという証拠で、千雪は二重に嫌気がさす。一つ息を吸いこむのと一緒に癇癪(かんしゃく)を呑んだ。
「はい。いろいろ配慮していただいて助かっています」
 云いたいこととは違う、云うべきことをどうにか伝えると、つと茅乃の顔に何かがよぎった。なんだろうと目を凝(こ)らしても、そうしたときはとうに消えてなくなっていた。
 そして、千雪の返事は無難にできたということなのか、孝志(たかし)と華世(はなよ)が肩から力を抜いたように見えた。
「おばあさまもお元気そうです。おばさまも……おじいちゃんも」
 孝志は業平不動産の副社長だから、本社にいるいまは顔を合わせることがあり、それはだれもが承知だが、滋に関してはつい一カ月まえに会ったばかりでも、その定例的な食事会を茅乃が知っているとは思われず、千雪は急いで滋のことを付け加えた。
 滋は茅乃が口を開いた瞬間から小難しい顔をしていて、その面持ちのまま小さくうなずいた。
「千雪ちゃん、お仕事がんばってるそうね。環境が違っても尻込みしないで向かえるってすごいと思うわ。わたしにはできないことだから」
 茅乃が千雪を嫌っていようがかまわず、華世はにこやかに千雪を褒めたたえた。
 華世は控えめにしているわりに茅乃に怯えることはない。茅乃が仁條家という華族出身だったことは今日聞いたばかりだが、華世は、茅乃が生まれた本家から分かれた家の娘であることは聞いた憶えがある。血が繋がっていて、なお且つ千雪みたいに突然ではなく、物心がついたときはあたりまえに茅乃が存在していたから物怖(ものお)じすることもないのだろう。
「わたしは甘えているほうです。旭人くんの下に就かせてもらってますから」
 華世はのんびりとうなずいた。
「あなた、建留とは会ったのかしら」
 さりげなく茅乃は口を挟んだが、探られているのは間違いない。

 建留が帰ったことをはじめて知ったふりをするよりは、瑠依にしたようにでっちあげるほうがらくだ。けれど、それよりももっと自然でらくだったのは、本当に“たったいま知る”ことだったと思う。
 なぜ、千雪のところへやってきたのだろう。ちょっとだけ建留を恨めしく思う。
 ただ、来てくれてよかったと、その気持ちのほうが強い。離婚を決めてからそうするまでの二年、苦辛に紛れていった、それを幸せというのならその幸せを少しだけでも、わずかな時間であっても、取り戻して想い出として心ごと躰に刻んでおきたかった。素直になれなかった二年をずっと後悔してきたから。

 茅乃に答えて千雪が口を開きかけた刹那。
「おばあさま、千雪ちゃんはさっき貴大……」
 瑠依が千雪よりもさきに応じ始め、そしてまたそれを――
「貴大のところで会いましたよ」
 と、建留の声がさえぎった。
 ぱっと後ろを振り向くと、建留がドアのすぐ傍にいた。ドアの開いた音にも気づかなかった。てっきり、千雪が出たあとに帰ると思っていた。
「僕と千雪の結婚の破綻(はたん)は、おばあさまが気に病むことではありませんよ。うまくいきませんでしたが、それは結婚がそうであっただけで、憎み合うようなケンカに至ったわけでもなく、従兄妹同士ということにかわりはないんです。仕事でもこういった付き合いでも、それなりにやっていきますよ。気を遣わせてしまってすみません」
 その一言一句はすべて計算の上で発言がなされている。破綻の原因は茅乃にないと、事実とは真逆のことを云ってみんなのまえで茅乃の顔を立て、あまつさえ、従兄妹ということを盾にして、建留が千雪といようが文句を云われる筋合いはないと遠回しに茅乃の切っ先を封じた。
 果たして、茅乃は返事に窮(きゅう)したようだった。
 滋と華世は一様に胸を撫でおろした様子で、孝志はといえば息をつく。
「ともかく、円満にいくのならそれでいい」
 千雪はひとまず今日の苦境を切り抜けられたことにほっとした。
 穏便にすんだなか、ただ一人だけ、にこやかに微笑んでいる裏で、千雪という癪の種を排除したがっていた。

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