ミスターパーフェクトは恋に無力

第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第2章 従兄妹以上恋人未満

2.親の独り言

 遠慮する人のいない独り暮らしは気がらくで慣れていたはずが、たったひと晩いただけの建留が帰ったとたん、家のなかはあるべきものがすべて欠けてしまったようにがらんどうになった。
 独りで食べたフレンチトーストは、手作りだからその時々で甘さが違うのはあたりまえだが、材料は一緒なのに建留は千雪が出すことのできない味で仕上げる。同じように淹れているはずのコーヒーも。
 これからさき、建留が千雪じゃないだれかのために同じメニューを作ることがあるのだ――という考えは急いで振り払った。もうどうにもならない。
 建留がいた余韻に浸かってうだうだするよりは、きっぱりと離れたほうがいい。
 そうしてスノーフィルに着いたのは予定より早く、九時まえに着いた。
 麻耶は千雪のために貸し切りにしてくれていて、開店時間を遅らせたから石田はまだ来ていない。
 ドレッシングルームに入って、千雪はパーティドレスに着替えた。
 ワンピースの胸の部分は薄花桜色のレーシーなカシュクールタイプ、スカート部分はハイウエストの切り替えがあり、シャンパンゴールドのサテン生地で、丈は膝上五センチと控えめな短さだ。胸が強調されるデザインで、ふわりとふくらんだスカートから伸びる脚は長く見える。全体的な印象は、オフショルダーゆえに普段よりよけいに華奢な印象を醸しだしている。
 千雪は壁に貼りつけられた鏡に近寄った。剥きだしになった首回りをチェックすると、首と肩の境目辺りに、昨日の今日で消えるわけのない痕がくっきり見える。
 近づかないと気づかれないだろうし、これを見てキスマークだと思う人がどれだけいるかという話だが。ローズのモチーフで縁取りされたシフォンのボレロを羽織るから、きっと大丈夫だ。
 問題はいま――麻耶(まや)かもしれない。とりあえずファンデーションでごまかして、ボレロを羽織るときに、汚れないように拭き取ればいい。


「建留が帰ってきたの」
 メイクを終え、髪のセットが始まると、千雪は唐突に口火を切った。鏡越しに、驚いた麻耶の目と合う。
「いつ? おととい電話したときは云ってなかったわよね」
「昨日だから。今日の披露宴に出るって。このまま本社に戻るみたい」
 マネキンのように不自然な状態で手を止めていた麻耶は気を取り直し、何も云うことのないまま千雪の髪からカーラーを外していく。
 離婚のことでは麻耶に心配をかけた。自分の子供のことだから、何かがあるにしろないにしろ、麻耶が千雪に対する心配を免(まぬか)れることはないだろう。
 滋にも建留にも口止めしたから、麻耶は離婚の真相を知らず、千雪は、うまくいかなくなった、と、そんなひと言だけですませている。千雪が口を噤んでいることで触れてほしくないと心得たのか、麻耶が追究してくることはなかった。
 そして離婚後、千雪が須藤家に戻らず、独り暮らしを始めたことにもおそらく麻耶は心を痛めている。千雪が帰らないことの理由に芳明(よしあき)が強く係わっていると思っているのだ。
 否定はしない。どんなに善人だろうが苦手な人は苦手で、芳明は千雪にはそういう存在だ。
 須藤家に帰ることを微塵(みじん)も考えなかったというわけではない。ただ、もう自分のいるべきところではない気がした。
 建留と家族としてやってきて、千雪にとってそれに代わるものはなく、家族という単位はすでに須藤家を離れている。それが結婚ということなのだと離婚してからはじめて身に沁みた。
「直接、建留さんから連絡があったの?」
 話の続きにしては不必要に長い時間が空いてから麻耶は訊ねた。
「うん」
 連絡どころか、建留は連絡もなしにやってきて、そのすえ、泊まったのだということは云わないでおいた。麻耶を期待させてしまう。
 案の定、頭上から、どうにかならないのかしら、というつぶやきが聞こえた。
「あ、親の独り言だから聞き流してちょうだい」
 麻耶は急いで付け加えたが、最初のひと言が本心には違いない。
「おばあさまとはやっぱりうまくいかなかったの?」
 続いた麻耶の質問はひどく唐突に聞こえた。『やっぱり』という言葉の底に、麻耶は、千雪がうまくいかなくなった相手は建留ではなく茅乃ではないか、とそう量っているのが感じとれた。
「……いろんなことの積み重ねだから。どうしてそんなこと思うの?」
 それにも麻耶が答えるまでは不自然に時間がかかった。
「お母さんはいつもおばあちゃんを不機嫌にさせてたから。もういいだろうって思ってたんだけど」
「もういい、って?」
 訊き返すと、麻耶はやるせなさが潜んでいるような微笑みを見せた。
「お母さんは加納家にふさわしい子じゃなかったのよ」
 親子して似たようなことを感じている、と千雪は思う。
「……どういうこと?」
「おばあさまは公家華族の出身なのよ。聞いてない?」
「ううん」
「そう? 本家は途切れてしまったから話すことももうないのかしら」
「途切れたって?」
「おばあさまの旧姓は仁條(にじょう)っていうの。平安時代の藤原家は知ってるわよね。その末裔(まつえい)の一つ。おばあさまの代は、おばあさまとおばあさまの双子のお姉さんだけで、お姉さんの結婚相手が婿養子になったんだけど、次の代もまた女の子一人しか恵まれなかったの」
「その人はお母さんのいとこになるよね?」
 麻耶はふと考えこんだようにしてから「そうね」と相づちを打った。ためらったように見えて、なんだろうと思っていると。
「亡くなったのよ。二十三年まえになるわね。ご主人と一緒に車の事故で」
 麻耶はその人のことを思いだしているのか、慮(おもんぱか)ったような様でため息をついた。
「だから、仁條家の本家はおばあさまだけ?」
「そうよ。いまの時代、華族なんて地位は関係ないけど、おばあさまには幼かった頃の記憶が根強く残っているんじゃないかしら。だから、いろんなことに厳しいの。もしかしたら自分に対してもね」
「プライド、ってこと?」
「だから、千雪には素直になってほしいと思ってるの」
 話は繋がっているのか、麻耶の口調は、この話は終わりだと云わんばかりにきっぱりと締め括(くく)るようだった。
 せっかくの機会だったのに、麻耶と茅乃の間に何があったのか聞きそびれてしまった。

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