ミスターパーフェクトは恋に無力

第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第2章 従兄妹以上恋人未満

1.マーキング

 朝になって目が覚めたとき、千雪をひと晩中くるんでいた温かさはなくなっていた。
 昨日のことは夢だったのかと疑った。けれど、身じろぎしたとたんのいつにない気だるさと裸であること、そして脚の間の濡れている感触、すべてが非日常だ。建留と一つになれた場所は一夜を超えても乾く間がないほどの名残があって、それが現実なのだと確実に示している。そうわかって千雪が覚えたのは、安堵なのか歓喜なのか、ひるがえって憂慮なのか失望なのか、区別がつかない。
 耳を澄ますと壁の向こうに人の気配は感じられて、まだ建留はいるのだと、覚悟した気持ちとは別次元で何よりもまず千雪をうれしくさせた。
 時計を見ると七時を指している。パーティドレスを着るのもメイクも、スノーフィルでやるから時間的には余裕があるが、千雪は焦ったように急いで、ベッドの上に置いてあった下着とルームウェアを身に着けた。
 個室を出ると、リビングは甘さとバジルの香りが立ちこめていた。
 昨日と似たような普段着でいる建留が、お皿を持ってキッチンから出てくる。
「勝手に使った。コーヒーとフレンチトースト、炒めたトマトとベーコン」
 建留は、文句ないだろう? といったふうに首を傾ける。
 食をそそる匂いを感知した瞬間から、千雪は、時間をずっと遡(さかのぼ)ってふたりはロンドンにいるのだと錯覚しそうになっている。
「建留はそれしかできないってわかってる」
 未練だらけの自分に反抗する気持ちは、建留のせっかくの努力を切り捨てるような云い方になってしまう。
 建留は大げさなくらい、深く息をついた。
「それでも、千雪が好きだって云うから作ってたんだけどな」
「そうだけど、それってなんとかの一つ覚えって云わない?」
 建留は、上から下までひととおり千雪を眺めたあと、くちびるを歪めて首をひねった。
「早く食べたほうがいい」
「さきに顔、洗ってくる」
 建留が今日と同じメニューを出してくれたのは、はじめてロンドンに行った日、時差ぼけの睡眠から目覚めたときだった。それまで建留が料理するのは見たことがなかったし、ふたりきりという自由を実感した瞬間でもあった。
 だから、素直に美味しいと伝えられた。
 そして、ロンドンにいる間、パンと卵とトマトとベーコン、それらが冷蔵庫から絶えることはなく、千雪からの暗の催促に、建留は呆れ半分おもしろがっていた。
 独り暮らしをするようになって――正確には建留が日本を離れたと知ったとき、そのことを思いだして、それ以来、ロンドンでの習慣が戻って根づいた。
 感傷だったり、冷蔵庫を覗いて脱力感に襲われることがあったりと、愚かなことをしている。ただ、ふたりの関係が壊れたからといってすべてを消去なんてしたくないと、その気持ちがいちばんにある。
 パウダールームで顔を洗って歯を磨いて、後ろに一つ結びした髪をほどくさなか、千雪はふと手を止めた。
 鏡のなか、部屋着がずれて覗いた右肩に、何か付着しているのが見えた。払っても取れず、自力では見えない部分で、手鏡を使ってみた。
 鏡にそこが映ったとたん、昨夜の記憶が甦(よみがえ)る。取れないはずで、赤くうっ血した痣はキスマークにほかならない。
「建留!」
 千雪はリビングに戻ってつかつかと建留に詰め寄った。
 建留は手にしていたボストンバッグを床に落とした。
 もう出ていくの?
 気が抜けそうになったのもつかの間――
「どうした?」
 ゆったりした動作といい、首をひねるしぐさといい、明らかに千雪は文句たらたらなのに、建留はぬらりくらりとした様だ。千雪がなぜ怒っているのか、理由も抗議してくるだろうこともすっかり承知していて、建留が故意にやったことは確かになった。
 いまの建留は、千雪から見れば、上品で善人の皮を被った、いかにも名うての悪たれ者といったふうだ。
 一緒に朝食が食べられないとがっかりしたものの、千雪だけが振りまわされているみたいで割に合わないという苛立ちが巻き返した。
「今日、何があるかわかってるのに!」
「しるしだ」
 建留は謝罪の意は少しも見せず、それどころか肩をそびやかすしぐさはふざけて見えた。
「わたしは、もう建留のドールじゃない」
「確かに、いまの千雪はドールじゃない」
「そうやってはぐらかすの、大っ嫌い」
「いつもはぐらかされてるのはおれのほうだ」
 建留のやり返しに追いつけないで、普段からトークスキル欠乏症ゆえ、千雪の口上はすぐに尽きる。しばらくの間、見つめ合うというよりは千雪が一方的に睨(ね)めつけていた。
「もういい。訊かれたら建留のせいって云うから!」
 捨て鉢になって宣告すると千雪は個室に向かった。
「千雪。それは、おれのドールだっていうしるしじゃない」
 何が云いたいのか、千雪は建留を振り返った。
「なんのしるしだろうと、建留が肝心なところで無神経だってことはかわらない」
「千雪」
 建留はおもむろに近づいてきた。千雪の正面に来て立ち止まった建留は、呼びかけた声と同じくらい真剣に見えた。
「ずっとまえ――あの日、やり直したいとおれは云った。撤回する。おれは、千雪とやり直すことはない」
 建留には瑠依がいる。わかっていることとはいえ、覚悟していることとはいえ、こうも建留の口からはっきり告げられることがつらいとは思わなかった。ショック以外のなんでもない。思考回路が遮断されたみたいに、とっさにはなんの言葉も浮かんでこなかった。
「……だから、昨日、最後だって――」
「それを」
 千雪の精いっぱいの強がりは、建留の静かな声がさえぎった。
「どう受けとるかは千雪次第だ」
 続けて投げかけられた言葉はまるで意味がわからない。
 射貫(いぬ)くような眼差しで千雪の目を捕らえたあと、「さきに出る」と建留が背中を向ける。
 背中は大嫌い。
 内心でつぶやいた。

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