ミスターパーフェクトは恋に無力

第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第1章 Be One Again

4.最後の意味

 空気の流れがぴたりと止まったように静まり返り、かと思うと、テレビから流れてくるCMの乗りに任せた会話が、この有様(ありさま)をどこか滑稽(こっけい)にした。
 じっと見つめる建留の眼差しは無遠慮に千雪のなかを覗きこむようだ。けれど、目を逸(そ)らすに逸らせない。
 居たたまれなくなるほど建留が口を開くまでに時間が要った。
「最後?」
 慎重な声が発せられる。
 千雪はうなずいた。建留にわがままを伝えるのは、最初で最後。それほど千雪にとっては覚悟した願いだ。
「その意味をわかってるのか?」
「わかってる」
「わかった」
 説得する勇気まではなかったけれど、拍子抜けするほどあっさり建留は受け入れた。うれしいよりはほっとしたものの、それもつかの間、承諾したのは空耳だったのかと思うくらい、建留は動かない。
「……建留」
 所在なく突っ立ったままの沈黙がたまらず、千雪は呼びかけた。
「生理は?」
 即座に応じた建留が訊ねたことはまったく頭に入ってこない。
「え?」
「避妊。しないといけないだろう。千雪が持ってるとか、避妊薬飲んでるとかなら心配いらないけど」
「……持ってないし、薬も飲んでない。でも……」
 千雪は壁にあるカレンダーを見て計算した。頭がうまくまわらないなか、どうにか見いだす。
「三日くらいしたらあると思うから、気をつけてくれれば大丈夫」
 そう答えても建留はしばらく立ったままでいた。
 一方で、千雪は建留が冷静なことに気づいて、自分がひどく愚かしい気がしていた。逃げたい気持ちが湧く。その気持ちのまま個室に目が向いた。とたん。
「付け込むようなことはしたくない。けど……」
 そう云いながら建留は千雪の躰をすくった。バランスが崩れて建留にしがみつく。
「付け込まれたのはおれだ。だろう?」
 表情は見えなかったが、そのくぐもった声には、返事など期待していない、含み笑うようなトーンが潜んでいた。
 建留に抱きつくのは三年半ぶりで、そんなブランクがあるせいでそう思うか、つかまった躰は以前よりも頑丈になっている気がした。建留は千雪を抱いたまま、テーブルに置いたリモコンを取ってテレビを消す。そんな動作の間も腕は揺るぐことがない。
 千雪の住み処にある唯一の個室に入ると、シングルよりも少しワイドなベッドの中央に、座った恰好でおろされた。建留もそうして、ふたりはベッドの上で向き合う。
 千雪は戸惑いを覚えつつもどうにかそれを隠して建留を見上げた。
 セックスはいつも千雪の意向は無視されて――もしかしたらと心得てはいるものの、ささやかな蜜月のときを除けば、合意のもとという尊重はなくて強引に始まっていた。だから、いまみたいに改まったように始まることには慣れていなくて、自分の望みがはしたなくクローズアップして、羞恥心(しゅうちしん)さえ湧いてくる。

「建留……してほしいことある?」
 おさまりの悪さを解消しようと口にしたことは、結婚してうまくいっていた間ずっと思っていながら、千雪がついに口に出せなかったことだ。されるがままではなく、抱いてほしいという気持ちと同等に建留の理性を全部奪ってみたいという欲求がある。
 建留は首をひねって、皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「ないとは云わない。けど、いまは余裕がない」
 いまは――何気ない建留の言葉は苦しい。いましかないのに。
「ドールが襲ってきたらホラーだろう」
 続けて揶揄した建留はやっぱり理性的だ。
 けれど、直後にワンピースのルームウェアを千雪から取り去り、わきを支えて膝立ちさせてからショーツを奪ったときは、何かに煽(あお)られたようにせっかちに感じた。あひる座りをした千雪の裸体を這う建留の眼差しは、どこから喰いつこうか、そんな意が潜んで見えた。
「してほしいことよりは、ドールにエロティックな魂を吹きこんでいくほうが好きだ」
 建留はからかったが、千雪はその言葉から、建留がまったく自分本位で抱いた“最後の夜”のことを思いだした。それは顔に出ていたのだろうか、建留は笑みを引っこめた。
「あれは……千雪を傷つけようとして傷つけるために云ったんじゃない。自分を守るためだった」
 建留の声から後悔が聞きとれる。これから抱くことをためらったようにも見えて、千雪は建留のTシャツに手を伸ばす。
 確かにあの瞬間は傷ついた。千雪は建留がかまうからこそ存在価値のあるドールでしかない。当の本人から引導を渡された挙げ句、ふたりの間の隔たりは一気に大きくなった。加納家のなかに自分の居場所は探せなくなって、離婚するまでずっと建留の言葉を引きずっていた。
 けれど。
 最後にキスを。そう要求されたとき、意味がないことはない、そんな建留の言葉を思いだした。それからは、いつも配慮を欠かさない建留だからこそ、手荒な振る舞いをすることで千雪にはじめて本音をぶつけたんじゃないかと思うようになった。
 自分を守らなければならないという建留の本音がなんだったのか、いまもわかることはない。

「建留も脱いで」
 千雪は膝立ちして建留のTシャツを裾から持ちあげた。抵抗に合うことなく頭から抜き去る。万歳する恰好になっていた建留の手がおりかける。すると、建留の躰を眺める間もなく千雪は膝立ちしたまま頬を捕らえられた。建留は千雪の顔をうつむけさせ、引き寄せる。
 くちびるが触れ合った。しっとりとして温かいキスは、くちびるの端にぺたりと吸着したかと思うと離れる、ということを繰り返す。飼い主に甘えてくる動物の戯(たわむ)れに似ていた。
 最初はそれだけでも充分と思っていたのに物足りなくなってくる。
「建……っ」
 吸着キスの合間に呼びかけると、催促するまでもなく、その隙を縫って舌が侵入してきた。
 ぐるりと口のなかを這いずられて息があがっていく。ふたりの間に熱がこもって、仰向いた建留の口のなかで蜜が生成される。建留の口の端から溢れた。こぼれないようにと無意識にくちびるで追いかけた矢先、建留が顔を離したかと思うと、すっと千雪の顎からのどもとを伝いおりた。頬から離れた手は千雪の背中を支え、もう片方の手は腰を抱いた。おなかから引き寄せられて背中が反ったとたん、胸先が咥(くわ)えられる。
 んっ。
 胸先が火傷しそうな高熱に覆われたように感じて、全身がわなないた。躰が不安定で建留の肩につかまると、背中に添えていた右手が離れ、そして、前触れもなく千雪の躰の中心に触れる。
 ぅんっ。
 腰が跳ねるようにふるえた。
 キスの作用は躰の奥まで及んでいて、体内への入り口を探る建留の指はなめらかにうごめく。千雪の蜜液を指に塗(まぶ)し、すっと這いのぼると、すでに充血した突起に絡みついた。
「あっ」
 躰が否応なくびくついて堪えきれずに短い悲鳴が飛びだす。
 種の保存という本能とは関係のない場所なのに、繊細な神経が集まっている。なんのためにこんな弱点を持っているのだろう。そんな理性的なことを思ったのは一瞬で、やがて千雪の思考は快楽に侵食されていった。
 ただ撫でられているだけなのに、感度はどんどん上昇していく。快楽から遠ざかっていた時間は長く、千雪が忘れていた果てに到達するまでそう時間はかからなかった。
「建留っ」
「まずは千雪だ」
 いったん胸から離れた建留は反対側の先端を口に含んだ。甘咬みしながら吸引される。身ぶるいしたと同時に、脚の間の指先は突起を揺さぶった。
 だめっ。
 内心で叫び声をあげ、躰はこわばる。直後。
 あ、あ、あっぅ――。
 脳内が独特の感覚に侵された。建留の腕が支えていなければくずおれそうなくらい、躰が跳ねる。
 それがおさまらないうちに、建留は突起から離れて、次には躰のなかへと指を忍ばせた。息をつく間もなく、奥をまさぐられる。
「あ、待って!」
「望んだのは千雪だ。だろう?」
 建留は無理強いを正当化すると、わざと千雪の躰から水音を引きだした。
 んくっ。
「千雪、ふたりしかいないんだ。声、出せばいい。聞かせてくれ」
「だ、め」
 千雪は喘ぐようにしながら拒絶した。痙攣(けいれん)は持続していて、またすぐにでもさらわれそうだった。建留はそれを承知で体内の弱点を探りだし、千雪を追いつめる。出入りしながらの、そこを引っ掻くような動きに耐えられなかった。
 天井を仰いで、息を詰めたあと、千雪は激しく躰をふるわせながら快楽にさらわれた。
「もう一回だ」
 地底から轟(とどろ)き、闇へといざなうような声だ。
 頂上からおりてきた躰はぐったりと力尽き、建留がベッドに横たえる。
「建留……ちゃんと、抱いて」
「おれは千雪が力尽きたくらいでちょうどいい。いまの千雪を見てると独りでもイケそうだから」
 建留はなだめるように千雪の躰に手を這わせる。ぴくっとする不可抗力の反応はひと時もやむことがなく、そんな千雪を眺めて建留は含み笑う。
「建留……も、一回は無理。意識、なくなっちゃいそ……。それじゃ……最後、の……意味、ない、の」
 千雪は再度、荒い息の合間に訴えた。
 真上に顔を持ってきた建留がじっと見下ろす。目が潤んでいて、建留の輪郭すらぼやけているから表情はなおさら読みとれない。
 建留は汗ばんだ千雪のこめかみから髪を払う。
「わかった」
 ごく生真面目な声が応じる。
 膝の裏が抱えあげられて、濡れそぼつ場所に呼吸が触れた。
 うくっ。
 キスは一瞬で、建留はボクサーパンツを脱ぎ捨てると、千雪の中心に慾を当てた。指とは遥かに違う質量が千雪の入り口を開く。
 んふっ。
 建留しか知らない場所は、その建留がずっと不在だったのだから、どんなに濡れそぼっていてもきつく感じる。段階を踏んで建留の慾が抉(こ)じ開けるように沈んでくる間、千雪は息を詰めていた。
 そして、最奥をつつかれた瞬間、陶酔感に支配されて、そこからつま先までふるえが駆け抜ける。千雪の口から悲鳴じみた息が漏れた。
「大丈夫か」
 そう訊ねる建留の声も少し苦しそうに聞こえた。
「ん。やっぱり……どうにか、なりそ……」
「どうにでもなればいい。夜は長い」

 それでも、これからの時間に比べたらほんの一瞬だ。
 ゆっくりと建留が動きだす。
 快楽と、至福と。そんな嗚咽(おえつ)に紛らせて哀哭(あいこく)を乗せた。
 意識が朦朧としたなか、肩へのキスがずきんと響いて千雪はにわかに覚醒した。

 ――We should be one again.

 そんな囁き声が聞こえた。

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