ミスターパーフェクトは恋に無力

第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第1章 Be One Again

3.いま望むこと

 昼食の調達に出るついでだと、建留は駅まで千雪に付き合った。
 ふたりの間で会話が成り立つパターンは相変わらずで、建留のほうが話しかけてきて主導権を握る。
 そうでなくてもいまは、千雪は多少混乱していて話題が探せない。
 さっきまでは、予期しない出来事のせいで複雑に感情が絡んではいても、外出の準備が気を紛らわせていたのだろう。いざ歩くだけという単純な生活行動になると、急に脳内ががら空きになって考える余地が増えすぎている。もしくは、知りたいことが溢(あふ)れてすぎてかえって探しだせない。
 結局は、仕事のこと中心に千雪の近況を提供しただけで、建留からは海外でどうだったか――危険な目には遭わなかったのかということさえ聞きだせていない。
 独りになってから、戻ってきたのか一時帰国なのか、そんな重大事も思い浮かばなかったと気づいて情けなくなる。
 離婚して建留が海外に行ったと知るまで、千雪の時間は空っぽ同然だった。業平不動産サービスに入社するまでは引っ越しの片づけさえろくにできなくて、振り返るべきじゃない時間ばかり追っていた。
 勤め始めると仕事を憶えることに忙しくなって、日中は気分的にずっとましになったけれど、夜になると立ちすくむ。
 そういうなかで、会おうとしても簡単には会えない距離ができた。建留が黙って発ってしまったことにショックを受けた反面、建留が千雪からだけでなく日本から遠ざかったことで落ち着いた面もある。
 何が千雪の気力を奪っていたのかがはっきりした。
 いつ聞かされるのだろう、建留の結婚話を――そんなことに怯(おび)えていた。
 少なくとも、瑠依本人がほのめかしているとおり相手が彼女ならば、海外在住の間は結婚はないと思えた。明日の貴大の結婚披露がそうであるように、ただ千雪のときみたいに入籍するというだけではすまない。瑠依の性格を考えても、見せびらかしたいはずだ。
 建留の海外出張の期間は猶予(ゆうよ)にすぎなくて、早く帰ってきてほしくて、そうしてほしくないという、やはり相反した気持ちが同居していた。
 戻ってきても一時帰国でも、種類は違っても不安は消えない。建留は三十歳になって、瑠依が二十八歳ということを考えると、帰国後待ったなしで決まりそうな気がする。
 明日は貴大の結婚披露があって、建留がそれに合わせて帰ってきたのは間違いない。今日でなくても明日には、建留は瑠依と会う。挨拶まわりをすると云っていたから、小泉社長とも会うだろうし、もしかしたらいま頃は瑠依とも――。
 そこまで思い至ると、胸の奥が締めつけられたみたいに疼く。建留がいなくなってから泣かないようにしてきて、もう大丈夫と思っていたのに、いま、受講中でなかったら泣きだしてしまったかもしれない。
 ともすれば、建留の自由は今日限りなのだ。
 それなら。
 建留が加納家に帰るまえにわがままをぶつけておけばよかった。


 週一で受けるせっかくの講座は耳に残らず、時間を無駄にして終わった。
 昨日、貴大がドタキャンなしだと念を押した理由がいまになってわかる。
 ただでさえ気が重いのに、建留がいるとなれば千雪はそれ以上に動揺する。すでに対面をすませていることは救いだ。
 外で食べるには気分的に頼りなく、マンションの近くにあるカレー専門店で魚介カレーをテイクアウトして帰った。
 玄関を開けると、スーツケースはなくなっていた。当然わかっていることではあったけれど、千雪のなかに後悔が満ちた。
 建留がいいかげんじゃないことは知っている。だから今日しかなかったのに。
 後悔すること以外に考えられなくて、千雪はしばらく立ち尽くした。
 やがて吐きだした息はふるえていた。
 こんなふうじゃ、本社ではまともに働けない。高校生でも大学生でもないんだからちゃんとしなくちゃ。
 弱気な自分を叱責しながら、靴を脱ぐと左へと廊下を進んでリビングに入った。
 ソファにバッグを放って、カレーをテーブルに置こうとわずかに躰の向きを変えたとたん、ないはずのスーツケースが目の端に入る。ぱっと部屋の隅を見ると、ボストンバッグもそのまま一緒に添えて置いてあった。
 ほっとした気持ちがいっぱいになって千雪はその場にへたりこんだ。建留のまえで泣くわけにはいかないから。自分にそんな云い訳をして、込みあげてくるままに任せた。


 昂(たかぶ)った感情も少しおさまって、温め直したカレーをようやく食べだした頃、建留から連絡が入った。
 建留が行き付けにしているメンズショップから、明日用の服が届くという。そして、夕食は居酒屋のIOMAから宅配してもらうと一方的に報告された。
 千雪の都合も聞かず、けれど、怒る気にはなれなかった。ただ、夜も一緒にいられるとわかって、うれしさとへんに張りつめた気分が交差して、じっとしていられなくなる。
 毎日の掃除に加えて、一週間分のプチ大掃除をして、余った時間は勉強に取りかかった。
 業平不動産グループに就職するとなった時点で、大学に通う間に宅地建物取引主任者の資格試験は合格して主任者証も持っているが、いざサービスに入ってみると、不動産に関連した、千雪でも取れそうな資格がもう二つあった。オフは出かけることもあまりなく、どうせならと思い立って勉強を始めた。
 仕事に有利だからとか必要だからとか、それは建て前で、やはり時間を持て余して、建留のことをあまり考えないようにしたいからだった。そういう意味で、いまも役に立っている。
 夜の七時近くになって、IOMAから夕食が届けられた。ほぼ同時に建留からメールが入って、帰りは七時半になるとあった。すでに待ちくたびれながら、少しでも長く、そしてゆっくりすごせたら、とそんな気持ちが湧いて千雪は入浴をすませておくことにした。
 浴室は、リビングからすると玄関を通りすぎて行き止まりにある。だから気づけなかったのだろう、入浴を終えてLDKの部屋に戻ったときは建留がいて、千雪は悲鳴をあげそうになった。部屋に男の人がいるということがないからよけいに驚いた。
「千雪、おれだ」
 何を感じとったのか、とっさに建留が声をかけた。
 心臓が止まったと感じたのは錯覚にすぎないが、動きだした鼓動に急かされるように千雪はうなずいた。
 ダイニングのテーブルに夕食を広げていた建留は、ゆったりと歩いてくる。
「大丈夫だ」
 なんのことか、建留は警戒したような、どこかこわばった面持ちで首を傾ける。千雪の頬に手が伸びてくる。触れる寸前で止まり、窺(うかが)うような眼差しが注がれると、千雪もまた首をかしげた。
 ふっと建留の様子がやわらいだ。千雪の頬に手のひらが触れたかと思うと離れていく。
「遅くなった。ちょっと冷めたな」
 建留は踵(きびす)を返してテーブルのほうに戻っていった。
「どこに行ってたの?」
「だから、挨拶まわりだ。帰国は内緒にしてたし、明日、大騒ぎになって主役の座を奪うわけにはいかないだろう。上司や金城たちと会ってきた」
「加納の家も知らなかったの? 旭人くん、何も云ってなかった」
「必要最低限しか知られていない。おれが要望した。“帰国が今日”というのは貴大しか知らない。じいさんと小泉社長以下、明日、披露宴に出席することを知ってる上司たちは当日帰ると思ってる」
 そこまで秘密にしたかった理由はわからないが、一つはたぶん確かになった。
「また向こうに戻るんじゃなくて、本社に帰ったの?」
「そう逃げてもいられない。限界だろう?」
 千雪は、建留が「ラップ取って」と差しだした、サラダの入ったボールを反射的に受けとる。
「……建留、何を云ってるの?」
 建留は肩をすくめると。
「夕食、食べるだろう? ラップ取らないと」
 あからさまに話をすり替えた。
「加納の家も知らなかったの?」
 もう一度同じことを訊くと、建留はため息をついた。
「じいさんと父さんと旭人は、帰国すること自体は知っている」
「おばあちゃんは? 明日、会うことになるし……今日、帰ってから?」
「帰らない」
 建留は素っ気なくあしらった。
「……帰らないって……でも……」
 千雪は独り言みたいにつぶやく。
 建留は自嘲した笑みをかすかに交えながら深く息をついた。
「眠る場所はソファでも床でもかまわない。ずっと気を張ってなきゃならなかった。今日くらい、のんびりさせてくれてもいいだろう。加納の家がそういう場所じゃないことは知ってるはずだ」
 建留の云うとおりだ。
 建留といられた結婚するまでの十カ月と結婚してから単身赴任までの一年、仮初(かりそ)めにしろ拒絶されない時間があっただけで、加納家はただいまと云って帰る場所ではあっても安堵する場所ではなかった。
 けれどそれは、千雪が感じるにはおかしくないことでも、ずっとそこで暮らしてきた建留が感じることではない。
 すぐには応えられないでいると、建留ははぐらかすなとばかりにしっかりと千雪の瞳を捕まえた。
「ホテルでものんびりはできるだろう。けど、ずっとホテル暮らししてるようなものだったんだ。正直、日本の雰囲気に飢えてる。日本語で喋る相手がほしい。気取らなくてすむ従妹を当てにして、バンコクから五千キロ近く飛んできた」
 建留が傍にいることを意識せずにはいられなくて、千雪のどきどきがおさまることはないのに、建留が気取らないでいられるというのは少し不公平な気がした。
 ただ、帰ってきてすぐ、建留がぴりっとした、どこか神経質な様を見せていたことは千雪も気づいていて、疲れていることもわかっている。こんなふうに訴えられたら、無理やり帰れとは云えない。
 ずるずると一緒にいるぶんだけ離れるのがつらくなるのは承知だ。それでも。
「わたしは話し相手になれるほどお喋りじゃないけど」
 後先を考えない欲求に負けると、建留は遠回しの言葉でも正確に、あるいは都合よく受けとったようで、おかしそうに口を歪めた。
「“お喋りじゃない”どころじゃなく喋らないだろう」
 そして、真顔に戻って「それでもいい」と建留はつぶやくように口にした。
 いずれにしろ、今夜が最後だと思うこと自体がもう傷口を抉(えぐ)られているような痛みを伴っている。それなら延命措置にすぎなくても、せめて与えられた時間を素直に受けとろう。千雪は自分にわがままを許した。
 夕食の間、建留は余暇のことも仕事のことも話してくれた。
 砂漠でテント宿泊したこと、中東一のメトロポリスを誇るドバイの視察調査では、中東における都市化や観光など、業平不動産の進出の可能性が広がったこと、それらを聞くうちに、ふたりの間の空白が埋まっていくような気がした。


「ビール、飲む?」
 浴室から出てきた建留に問うと、「もういい」と答え――
「明日は十時くらいに出る?」
 建留は窺うように首を傾けた。
「ううん。お母さんのところで髪をセットしてもらうから、八時には出るつもり」
 建留は考えこむようにわずかに眉間にしわを寄せた。
「それなら、おれは家に顔を出してくる。何時に終わる? 迎えにいくから――」
「建留。わたしは独りで行ける。ほんとは出席すること、気が進まないんだってわかるよね?」
 建留は少し顔をうつむけ、嫌気がさしたような気配で首をひねった。
「近づきたくないのはわかる。けど、赤の他人ならまだしも、千雪は加納家の人間だ。加納家に怯えることも気兼ねすることもない」
「加納の家が怖いとか、そんな大げさなことじゃない。ただ……会いたくないだけ」
 おばあちゃんに、とそこまで云うのはやめた。
 建留と千雪がそろって現れたところに茅乃が遭遇したとき、どんな感情をぶつけられるのか、それを考えただけで逃げだしたくなる。
 建留は引き下がってくれたのだろう、吐息を漏らしてソファに向かった。
「建留」
 背中を見たとたん、発作的に呼びとめた。何気なく振り向いた建留を見て、千雪は緊張のあまり息を呑む。
 何を伝えたいのか――いや、望むのか、それは自覚している。
 建留がいまここにいることで期待はしているけれど、さっき千雪を従妹と呼ぶことで距離を置かれた気もしていて、云いだすのが怖い。
「何?」
 しばらく続きを待っていた建留は痺(しび)れを切らしたのか、千雪のためらいを感じとったのか、さきを促した。
 千雪は一つ息を呑む。
「建留。抱いてほしいの。最後でいいから」

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