ミスターパーフェクトは恋に無力

第2部 Mr.パーフェクトは恋に無力
第1章 Be One Again

2.会いたいけれど会いたくない

「建留……」
 それは発音できたのかどうかはわからない。そんなかすかな声のはずが。
「千雪」
 建留は応じた。
 離婚すると決めてからそうするまでの二年間、ほんの近くにいても聞くことのできなかった――低くてどこか潤(うる)んで感じる――ずっと聴かせてほしいと思っていたそんな声が、ドア越しなのに千雪を取り巻く空気を震動させる。いや、建留に反応してしまう、千雪の心底がふるえているのかもしれない。
 記憶のなかの建留が、急激に現実味を帯びたのは昨日のことだ。
 名残(なごり)で夢を見ているにすぎない。そう理解しても目覚めることができない――そんな苦痛に襲われる。
 不在のふりをしようにも、ドアスコープを覗くときに音を立ててしまっている。モニターで確認すればよかったと後悔しても遅い。手遅れでも、千雪は逃れるように一歩退いた。
 すると、まるで見えているかのように、「千雪」と建留は再び呼びかける。
「管理人さんについてきてもらってる。不審者扱いされそうだ。おれは警察に行くべきなのか?」
 からかう声音に戻っていたものの、建留は窮地(きゅうち)を訴えた。深刻には聞こえなかったが、千雪にドアを開けざるを得なくする。
 ため息をつき、次には息を呑み、千雪はドアを開錠してハンドルを押した。
 建留の全身が見えるだろうところまで開けてしまうと、千雪は伏せがちにした目を上向けていく。
 チョコレート色のオックスフォードシューズから、同色系でストレートっぽいチノパンツを穿(は)いた長い脚をたどり、オリーブグリーンの短めのシャツへとのぼっていく。
 恰好はまったく違うが、はじめて会った日もこんなふうに建留は千雪の視界に入ってきたことを思いだす。
 シャツのボタンは二つ外れていて、胸もとから鎖骨が覗く。そこでためらったのはつかの間。
「千雪、ただいま」
 その声に反応して、千雪はぱっと顎を上げた。
 そうするのを待っていたかのように、建留の目は千雪の目を捕らえた。が、目が合ったのも一瞬で、その表情を読みとれないうちに建留の目は千雪の躰をおりていった。
 ドルマンスリーブのチュニックにカルソンパンツというルームウェアを伝い、ミュールを引っかけた足もとまで行ったあと、建留は一気に視線を上げて、千雪の髪にとどめた。それから再び目が合う。
「おかえり……なさい」
「ああ」
「……いつ、帰ったの?」
「たったいまだ。羽田から直行してきた」
 建留が腕を動かし、その動作に釣られて見ると、すっと長い人差し指のさきに大きなスーツケースとボストンバッグがある。それが目に入らなかったのもさることながら、千雪には建留しか見えていなくて、管理人の佐伯(さえき)が一歩を踏みだすまで、けっして小さくはない彼までが視野に入っていなかった。
「おはようございます、加納さま」
「佐伯さん、おはようございます」
「お客さまをお連れいたしました。では、頼まれていた宅配物が来ましたらお届けしますね」
「いえ、荷物は大丈夫です」
 千雪が答えると、佐伯はふっと肩の力を抜く。五十代の佐伯は、マンションの管理人というにはそぐわないほど屈強に見えるが、争いを好んでいるわけではなさそうだ。
「承知しました。では、失礼いたします」
 佐伯が立ち去るのをちょっとだけ見守ったあと、建留に向き直ると、建留もまた佐伯を追っていた目を千雪へと戻した。
「入れてくれる?」
 それまでの愛想のよさは鳴りを潜め、建留はごく真剣な声で問う。
 千雪はためらう。何をしに来たのか、ふたりきりになることは危険に思えた。そう感じるのは建留のことではない。整理をつけてもつけても綻(ほころ)びが出てくる自分の意志のことだ。千雪の頼りない意志は、すぐ出かけることを思いだし、ちょっとだけ、と自分を納得させた。
 荷物をなかに入れやすいよう、千雪はドアを全開にして返事に変えた。

「九時半くらいには出かけるの」
 建留は肩をすくめ、荷物を家のなかに運びこむ。靴を脱ぐと、スーツケースは玄関口の隅に置き、ボストンバッグはリビングまで持っていった。
 あとを追って入り口でその姿を眺めていると、建留はしばらく部屋を見渡していた。躰ごと方向転換しながら何を探しているのか、その様子はまるで我が物顔に見える。
 引っ越して間もなく建留は海外に発ち、千雪の部屋を訪れるのは今日で二回めだ。変化を探しているのなら、むしろ、テレビの置き場所とか変わっていないところを探すほうが早いだろう。それくらい、小さな絵とかカラフルな造花とか、アンティークなジュエリーのショーケースとか、細々したものが増えていて、最初の日の殺風景さはない。
 気がすんだのか、かすかに吐息が聞こえたかと思うと、おもむろにテレビの正面に据えたソファに座った。居座る気が満々に見える。
「建留、出かける――」
「宅配ってなんだ?」
 建留は聞く耳を持たないとばかりにさえぎった。建留は千雪の用事を無下(むげ)にして単に自分に合わせろと都合を押しつけているのか、それとも“宅配”という言葉の裏に隠ぺいされた会話に耳ざとく気づいたのか。
「なんでもない。合言葉」
 怪訝(けげん)そうに眉をひそめた建留を見て、打ち明けても問題ないだろと千雪は説明を続けた。
「例えば、建留がストーカーみたいな迷惑客だったら“はい、お願いします”って答えるの。助けてってこと」
「なるほど。おれは助かったらしいな」
 安堵した様子でもなく、建留はおざなりの言葉のように平坦につぶやく。千雪は首をかしげた。
「そのまえに、管理人さんが電話もしないで通すことはないんだけど」
「社員証出して、パスポート見せて、サプライズだって説得した。そうしなきゃ千雪は門前払いするだろう?」

 建留は気まずくなるくらい、立ち尽くす千雪をじっと見上げてくる。その瞳に千雪はどう映っているだろう。建留をまえにして自分が平然としているのか不安になる。
 隠すことは自分を守る術(すべ)として沁みついているはずが、いまは苦痛で、入れるべきではなかったと千雪は後悔する。
 会いたくて声が聞きたくてたまらなかった。そんなことを口走りそうな衝動が気道をふさぐ。
 抱きしめてほしい。抱きしめられた最後の夜は、無理やりに始まったのにそんなことを思う。
 その夜を境に触れ合うことはなくなって、普段、顔を合わせるのも、建留が律儀に『行ってくる』と『ただいま』とわざわざ云いにくるときくらいになっていった。
 それでも、建留が傍(そば)にいるのといないのでは全然違った。
 千雪に知らせることなく、中東に発ったとわかったとき、それまでになくショックを受けた。決別、そんな言葉を突きつけられたようで、その感覚はいまでも千雪に付き纏(まと)っている。
 別れたのだから、千雪に知らせる義務など建留にはない。ましてや、どんな理由であれ建留が離婚をしたがらなかったことは事実で、それを蹴ったのは千雪だから、ショックを受けるのはお門違いだろう。
 云い訳をするなら、好きだから偽りはいらないと思った。
 同じ家にいて距離が隔たっていった間も、すぐには会えない距離にいる間も、忘れることはなくて、嫌いにはけっしてなれない。

「何か用があるなら早くしてほしいん……だけど」
 千雪が喋るさなか、建留は異論がありそうに首をひねる。どうにか最後まで云いきると、建留は立ちあがり、そして、なぜか追いつめるような様で千雪に近づいてきた。
 建留は、仰向かないと顔が見えないくらい、ほんの近くに来て立ち止まった。ひとまわり大きな手が視界に入ったかと思うと、千雪の首もとで髪をつかんだ。
「なんで髪、染めたんだ」
 しかめた顔と連動して、建留は焦げ茶色にした千雪の髪を気に喰わなさそうに引っ張った。
「どこの美容院かとか、訊かれるのが面倒だから」
「スノーフィルだって云えばいい話だ。もとに戻せよ。似合わない」
「わたしは気に入ってる。そういうこと云いたいだけなら――」
「千雪に用なんてない。用事がなければおれはここに来ちゃいけないのか」
 建留はわずかに刺々しく、どう受けとってどう答えていいのか、千雪が戸惑うような疑問を投げかける。
 だったら、何をしにやってきたの? それとも、用事がなくても気軽に立ち寄れるような関係なの?
 建留への返答は思い浮かばず、そんな疑問しか出てこない。
「……だから、出かけるの。準備しなくちゃいけないし」
 返事にならない返事をすると。
「すればいい。おれのことはほっといてかまわない」
 建留がそう云ったにもかかわらず、千雪は微動だにしなかった。
「……だったら、髪を放して」
 動けなかったのは足よりもきっと心のほうなのだ。認めていながら、千雪は建留のせいにした。
 もしかしたら建留もわかっているのかもしれない。ふっとシニカルに笑った。その笑い方は数えきれないほど見てきたのに、見飽きることはなくて、それどころか千雪の躰の奥を疼(うず)かせる。
「そのまえに」
 建留は口を歪(ゆが)めたまま云い、つかんだ髪を後ろに引っ張って、仰向いた千雪の顔をもっと上げさせた。建留のくちびるが間近に迫って止まった。

 建留の眼差しが至近距離で千雪を射止める。飢餓感に満ちた獣が餌を捕獲したかのようだ。もっといえば、例えばろうそくの外炎のように蒼白くて目には見えなくても、黄色く可視化した炎よりも高熱を秘めている、そんなふうに感じて千雪はなんとなく身がすくむ。火傷しないうちに、と思っても目が離せない。
 建留は、離婚を決めてからの二年間のように、海外にいる間にまた変わった気がする。このたった十分の間にも、やっぱり建留はころころと態度を変える。
 記憶にあるよりさらにタフになったと感じるのは、以前より日焼けをしているせいだろうか。雰囲気も、ノーブルな様よりも野良猫のように隔意を纏った気質のほうが突出している。
 およそ一年半、日本よりもずっと危険に晒される地にいたのだから、人間の理性よりも動物の本能のほうが有効的だったかもしれない。
 建留がおそらくは気が抜けなかった日の連続だったように、千雪の不安も絶えた日はなかった。
 いまのようにグループ本社にいると、旭人も傍にいて建留の友人たちも傍にいて、建留の情報を時折耳にするが、末端のサービスにいた頃は、そう流れてくるものではなかった。
 仕事のことではなく、建留がどうしているか、聞きたい気持ちも訊ねたい気持ちもあった。けれど、千雪に気を遣ってだろう、建留のプライヴェートを知っている人に限って話してくれないし、千雪から訊ねるにしろ、仕事をしているということは元気でいること、じゃあほかに何を知りたいのか、自分でもよくわかっていなかった。
 便りがないのは無事な証拠、そんな言葉を当てにしながら、離婚した日が最後にならないように、とただ祈ることしかできていない。
 その祈りが、自分でも矛盾していることはわかっている。離婚は“最後”を覚悟して決めたことだから。
 結局、“会いたい”も“会いたくない”も、千雪にとっては建留に関するかぎり同義語でしかない。

「千雪」
 そう呼んで、何か云いかけた建留だったが口にすることはなく、千雪の髪を放した。
 そして、キスを交わしたのはくちびるではなく右の頬同士だった。
 ゆっくり離れてまた左側で繰り返されると、千雪はこれが、長く建留が居たリヤドの挨拶の仕方だと思いだした。握手よりも親しい人同士がするやり方で、ただし、向こうでは女性にするのはタブーのはず。それを除外しても、ここは日本であり、そのうえ、ふたりの関係を考えればこんなしぐさは似つかわしくない。
 ただ、抵抗する気にはなれなかった。チークキスに伴うハグは少しきつくて、建留の体温が心地よくて、ちょっとだけ、と千雪は自分を甘やかすことを優先した。
 驚いて、誘惑に負けて、それから抱きしめられていることをへんに意識してしまうほど長いと感じ始めた頃、建留の右手が左の首筋に沿う。襟もとからチュニックの下に入りこんだ瞬間、千雪が躰を離そうとすると、腰を抱く建留の左手が引きとめた。
「建留!」
 抗議を込めて名を呼んだものの建留は頓着せず、千雪の右肩をはだけた。逆らう間もないうちに、建留は肩にくちびるをつけた。痛みはなく、疼く程度の力で吸引される。そして、建留は躰ごと千雪を解放した。
「ちょっとした挨拶だ。実感してる」
 何を実感したかったのか、建留は云い訳をしながらふてぶてしく肩をすかした。その目が露出した肩に留まったの気づいて、千雪は肩から落ちたチュニックを引きあげた。
「もういい?」
 落ち着きのない内心をごまかすのに、千雪はつっけんどんになってしまう。
「ああ。準備すればいい。おれは休む」
 帰る、じゃなくて、休む? ……って?
 建留は壁に掛かった時計を見るというしぐさで千雪の気を引き、浮かんだ疑問を中断させた。
「あと十五分だな。けど、お茶淹(い)れてくれたら気分的に生き返りそうだ」
 建留は首をひねって要求した。いや、強要だ。
 すぐに応じる気にはなれなくて睨み合いのような気配が続いたが、その時間も無駄だと気づくと、千雪はあからさまにため息をついてキッチンに向かった。
「朝ごはんは?」
「空港で摘(つま)んできた」
 千雪は答えを聞きながらバナナを二本もいで、一本は建留に渡した。
 それから、お湯を沸かしている間に着替えて、お茶を建留に出した。合間合間にバナナを口に放りこみながら、メークまできっちりする時間はないからリキッドファンデーションとリップを軽くのせる程度ですませる。
 キャンバストートを持って奥にある個室からリビングに出ると、建留はソファに寝そべって携帯電話を弄(いじ)っていた。ソファは長さが足りなくて脚が飛びだしている。顔の真上から離れていく携帯電話はおなかにおりて、建留とまともに目が合う。
「どこに行く? 何時に帰る?」
 建留は起きる気配もなく矢継ぎ早に訊ねた。
「文教(ぶんきょう)システムっていう資格学校。管理業務主任者の資格取ろうかと思って。帰るのは二時くらいだと思う」
 何気なく応えているうちに、帰る気になったのか建留は躰を起こした。
「合鍵を貸してくれ。コンビニで昼の弁当買ってくるから。ちょっと眠って、昼、食べてから挨拶まわりに出る」
 建留は有無を云わせない口調で、千雪が思っていたこととは真逆に居座るつもりでいることをほのめかした。
 迷っている暇も追いだす暇もないほど時間に切羽つまっていることを知っているのなら、建留はやはり策略家だ。
「帰るときは、管理人さんに預けるか、そこに置いててくれたらいいから」
 ソファのまえのテーブルを指差しながら取ってきた鍵を渡すと――
「“いってきます”は?」
 玄関に向かいかけたとたん、建留が咎める。
 はじめて会った日も、父に対して云わないでいいのかと建留が問いかけたことを思いだす。
 それは、いまの千雪にはひどく身勝手な云い分に聞こえた。
「建留は云ってない」
「なんのことだ」
「建留が海外に行くこと、わたしは知らなかった」
 怒り任せに云ってしまってから千雪は自分の気持ちを曝していることに気づく。
 ただ建留は、ほくそ笑むでもなくおもしろがるでもなく、しばらく黙りこんだ。やがて。
「おれは云った。千雪に、いちばんに」
 当の千雪がまったく身に憶(おぼ)えのないことをすまして建留は云ってのけた。
 そして、千雪はむっつりしたまま、時間だろう、という言葉に無理やり家の外へと追われた。

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