ミスターパーフェクトは恋に無力
終章 ベターハーフ
六月二十日。梅雨空が続くなか、少しだけ晴れ間が見える。
からからに晴れるとできすぎだから今日くらいの天気でちょうどいい。そう思うのは、きっとまだ幸せ慣れをしていないからだろう。
洗面台の棚を覗き、もう一度確かめると、千雪のくちびるが緩む。
「千雪、そろそろ出ないと」
足音を伴って声が近づいてくると、千雪は建留が入ってくるまえにパウダールームを出た。
鳶(とび)色のスーツにベスト、そんな建留のちょっとした正装に胸の奥が痛いほど疼く。一方で、レースをふんだんに使った、ラッパ袖の白い膝丈ワンピースという千雪をひととおり眺め、最後に、ふわりとカールした髪に目を留めて建留は首を傾ける。トップをひねり片側の耳上でピンを留めただけという髪は肩下まで伸びた。無意識に、とそんなふうに建留の手が伸びてきて髪に触れる。
「おかしい?」
「訊かないでくれ。いちいち感想を云ってたら出かけられなくなる」
どういう意味だろう、と首をかしげると――
「白は穢したくなる色だ。引き裂かれたすえ、遅刻したくないだろう」
建留は冗談と片づけられない気配でほのめかす。
最初に結婚した日、グレイシャスホテルでウエディングドレスを脱がせたときの建留を思いだした。あのときの気持ちが健在なら、たったいまみたいにただ立っている姿とか、ふとしたしぐさにときめいてしまう千雪とお相子だ。
「したくないっていうより、しちゃいけないと思うけど。牧師さんじゃなくておばあちゃんのお説教が始まりそう」
「それなら早く行くべきだろう」
「うん」
リビングに行くと、ソファの上に置いたバッグを取った。南東に面したリビングは広々として明るい。東側にちょっとした庭があるという、メゾネットタイプのマンションの一階は戸建て住宅のような様だ。
三カ月まえ――三月の末に引っ越してきたのは、千雪が直感していたとおり、ホーリーガーデンの一室だった。ホーリーガーデン一体は加納家の土地で、このマンションは加納家の援助のもと仁條家があった場所だという。千雪が直感したのは、この土地を訪れたときの建留が懐かしさとかさみしさとか、そんなものを発していたからかもしれない。
千雪は結婚するまで待つつもりだったのに、忌(い)まわしい日のままにしたくはないからと離婚をした日に引っ越して、婚姻届は千雪が強い希望を譲ることなく通して、後回しのままふたりの生活をスタートした。
続きだ――そう云った建留のなかにはどれくらいの傷みが潜んでいたのだろうと思ってしまう。
建留の誕生日は明日だが、月曜日ゆえに披露宴は一日前倒しになった。婚姻届は明日出すことになっていて、ふたりにとってはいろんなアニバーサリーが増えている。
マンションが予約完売した時期を考えると、建留は離婚した当時、すでに加納家を出ると決めていたことになる。離婚の日のプロポーズといい、建留はわずかもあきらめていなかった。
建留に訊ねてみると、千雪と結婚していなければ、家主がいなくとも仁條家を手放す気にはなれなかっただろうと云う。あの結婚の土台が崩れた日、慌てて住み処を探す以前から建留はふたりで暮らすということを考えていた。
そういう建留の気持ちは、千雪にはちょっとしたプレッシャーになっている。
どんなふうにどんなことを返せばいいのかわからない。
千雪がいなければ。その言葉が唯一、プレッシャーを和らげる。一緒にいることでなんらかの力にはなれている気がしたから。
家を出て建留の車でまず向かったのは、あのローズガーデンのある教会だ。
二月にした結婚のときとは比べものにならないくらい薔薇たちが咲き誇っている。千雪たちを最初に出迎えてくれたのはその香りだった。ちょっとした緊張をほどいて、リラックスさせてくれた。
ここで式を終えたあとは、グレイシャスホテルでの披露宴が待っている。そうそうたる招待客のことを思うと、足がふるえるくらいおののく。あえて考えないように、という努力も虚しく落ち着かない。もっとも、千雪の見た目はいつもと変化がないみたいで、周囲は勝手に感心している。
プライベートはこの五カ月で思いきり環境が変わったが、会社のほうは変わらないことも変わったこともある。千雪の出向は継続されて、しばらくゴシップをやりすごすのがたいへんだった。いまは一段落したというところだ。孝志は社長に就任して、五日後に株主総会を控えているが抜かりなく見える。
驚いたのは――というより唖然としたといったほうが合っていると思うが、それは、瑠依が器用にプライドを保っていることだろうか。じれったいからわざと邪魔してくっつけてあげたのよ、とそう吹聴しているらしい。瑠依の初恋に同情は必要なかったみたいだ。
「やっとここまで来た」
薔薇が絡まったロートアイアンのアーチを眺めながら、建留は感慨深い様でつぶやいた。
「うん」
「それだけ?」
建留はからかった声でありつつも不満をほのめかす。
「建留も欲張りになってる。それ以上、云ったら引き裂かれそうだから」
「だな」
建留がシニカルに笑うと、千雪は抱きつきたくなってしまう。目を背けるように伏せて、どうにか衝動は堪えた。幸せ慣れをしていないぶん、どきどきするくらい好きという気持ちはやまない。それを見透かしているかのような含み笑いが千雪の前髪を揺らした。
そしてまもなく、滋と茅乃がやってきた。
滋は正装に身を包み、茅乃も淡いラベンダー色のドレススーツで、ふたりともいつものごとく申し分のない装いだ。
建留の将来を見据えれば、千雪も茅乃のようにいつも堂々としていなければならないのだろうけれど、不安だらけでそんな自分は想像できない。好きな人と結婚して、それでめでたしめでたしとは終われないのが現実だった。
今日は、建留の妻として振る舞わなければならない、その第一歩だろう。
「おじいちゃん、おばあちゃん、来てくれてありがとう」
「式はふたりで挙げると云うから、どんなこだわりがあるのかしらと思っていたけど」
茅乃は云いながらゆっくり敷地内を見渡したあと。
「こぢんまりはしてるけど、ローズガーデンは気に入ったわ。千雪さん、わざわざ呼びつけてくれてありがとう」
と、自分の感想を述べた。
わざわざ呼びつけるという言葉がなんとも複雑に響いたが、悪意ではなく、つんと意地っ張りな感じで、茅乃らしい千雪への接し方なのだ。滋と茅乃が自分たちの結婚式に立ち会う気で来たことを考えると、もうそれだけで充分だった。
千雪の頭上で建留は吐息を漏らす。こっそりそうしたはずが、茅乃は目ざとく気づいたのか、「建留」とたしなめるような口調で呼んだ。
「はい」
「跡継ぎのこと、ちゃんと考えてるんでしょうね。旭人にはああ云ったけど、さっぱりで当てにならないわ。かと云って、あなたたちはまだできたふうでもない。ひ孫の顔を見るまでは死にきれないわ」
茅乃は建留に訴えたあと、千雪に目を留める。茅乃は見透かしているような気がして、千雪はひやりとした。
「おばあさま、そういうプレッシャーはかけないでください。ストレスがあるとできにくくなるって云いますよ」
「ストレス? 容認できない濡れ衣ね」
「そこは天命を待つしかないだろう。さあ行こう。時間は待ってくれないぞ」
親子げんかならぬ、祖母と孫の攻防戦が繰り広げられそうな気配に、滋は口を挟んでいなした。
建留は反省しているのかため息をついて、「そうですね」とうなずくと、千雪の背中に手を添えて歩きだす。
ふたりで暮らし始めてからは避妊しているわけではないけれど、セックスレスでもないのに――むしろその逆のことを悩みそうなくらいなのに、妊娠とまではいかなかった。希望が一カ月さきへと延びること二回、その都度がっかりする千雪を見てきたから、建留は我慢できずにさっきの発言に至ったのだ。
そう思うと、不要なけんかを自分が引き起こしている気になって、千雪は後ろめたく、そっとため息をついた。
教会の外で待機していたアテンダントはなかに案内すると、どうぞ、と手で奥を示して促した。建留は立ち止まって滋たちを振り向く。
「おじいさん、おばあさま、どうぞ」
建留もまた奥へと手で招くと、ふたりとも虚をつかれたような顔で建留を見つめる。さすがに戸惑っているようで、はじめて目にする、隙だらけの表情だ。
「おじいちゃんとおばあちゃんに、ちゃんとした気持ちで結婚してほしいと思って。わたしと建留は、ちょっと回り道しただけで、六年まえにそうしてるから二度めはいらないの」
「どうされます? これから新婚気分ですごすのも悪くないと思いますよ」
滋は建留の言葉に我に返ったようで、驚きから冷めやらずも茶目っ気が覗くような面持ちになった。
「茅乃、行くぞ」
「え、ええ」
果たして茅乃の返事は同意だったのか、滋に手を取られて牧師のところへと進んでいく。その後ろ姿が、可愛いと云ったら失礼だろうか。
「建留」
「何?」
「あんなふうになりたい」
「……ああ」
建留は千雪の視線を追い、それから、一緒に未来を語れる貴重さを刻みながら同調した。
いざ始まった式は、六年まえのときと同じ宣誓が繰り返されていく。
牧師は建留と千雪を憶えていて、なお且つ、ふたりの六年間、そして滋と茅乃の大まかな経緯は伝えていたから、宣誓が終わると、二度めだからこその知恵を無駄にしないこと、そんなお説教をもらった。
「千雪さん、建留、ありがとう。でも、このことは内緒にしてちょうだい。いい年して、なんて思われたくないから。あなたも、よ」
茅乃は滋に釘を刺した。滋は肩をすくめてかわしている。
せっかくのお礼もあとの言葉で挫けた気がするけれど、ポラロイド写真を渡されたあと、それを見た茅乃の微笑みは本当にやさしかった。
「建留、緊張しない?」
披露宴が始まる間際、千雪はそわそわしながら隣に立つ建留に問いかけた。
すぐそこにあるドア越しに、会場がざわついているのがかすかに伝わってくる。
さっきまではホワイトタイガーを思わせるドレッシーな建留の姿にうっとりしていたものの、アテンダントからまもなく始まることを告げられるとそれどころではなくなった。
「してないわけがないだろう。千雪のほうが緊張してなさそうだけどな。ドールは得だ」
建留にはまったく動揺しているようには見えないのだろうか。鼓動は全然リズムが取れていなくて、ドレスを踏んで転ぶんじゃないかと不安なのに。
建留はにやりとして、まったく神色自若(しんしょくじじゃく)といった様だ。人まえに出ると建留はパーフェクターに戻る。加えて、教会で云った『やっと』という言葉が表すように、一気に落ち着いたのかもしれない。
癪に障る。千雪が無謀なことに挑んだのはそんな気持ちがあったからだろうか。
「建留、誕生日、明日はおめでとう」
「それっていま云うのか?」
建留は吹きだしそうに笑った。やっぱり余裕だ。
「プレゼントがあるの」
「何?」
千雪が伸びあがると、建留は条件反射で身をかがめてくる。
「赤ちゃん、いるの。いま、おなかのなか」
耳もとに囁くと、建留は呼吸を止め、それからかがめた上体をゆっくりと起こしていく。喰い入るような眼差しが千雪を見下ろす。
「ほんとに?」
「うん、検査薬、ちゃんと使ったから」
驚きにこわばっていた顔が、くしゃりと歪む。照れたような気が抜けたような、そんな笑みが広がった。
「いま、段取りが全部吹っ飛んだ。どうする?」
「スタッフがいるし」
千雪の無謀ぶりに建留は呆れ返ったように首を振る。
「この借りは返すからな」
打ち明けたらとんでもないことになりそうで、だから話すときは、ふたりきりの家ではなく、建留の動揺を緩和するための時間がつくれるときにしよう、そう考えていたのだが、自分でもまったくタイミングが悪いと思う。けれど、こうなればもうついでだ。この機会を逃したら、自分の性格を考えると素直に伝えるきっかけをつかめない。
やはり、千雪は平静な心境ではなかった。このときの思いこみから誘発したことが、のちのちまで業平不動産の語り種(ぐさ)となることなど知る由(よし)もなく。
「ドアが開きます」
そんな言葉は千雪の耳に届いたのか否か。
「建留」
千雪は再び伸びあがった。建留の顔が近づくと、目を伏せて、今度はくちびるに囁く。
・・・ ・・。
まぶたを上げるのと同時に千雪の口もとで呻き声が発せられ――とたん。
建留がきついくらいに千雪を抱きしめた。
盛大な拍手が聞こえたかと思うと一瞬しんとやんで、直後、はやし立てる歓声に変わる。
慌ててドアは閉じられた。
− The Conclusion. − Many thanks for reading.
あとがき
2013.9.30.【ミスターパーフェクトは恋に無力】完結/推敲校正済
家庭内が複雑なセレブという昼ドラ風を目指しました。
いわゆるイイ子ではない等身大の子を描いてみたく、千雪は素直じゃないツン溺女子に。
建留については傷を抱えた、表面上は完全無欠の人。
脇役たちにもそれぞれの事情を感じながら、楽しんでいただけたのなら幸です。
奏井れゆな 深謝