ONLY ONE〜できること〜

extra 心の置き場所

   

――いま幸せですか。

age 昂月 24才 高弥 28才

 クリスマスだった昨日から一転、街は浮かれた気分から(せわ)しい雰囲気へと様変わりした。
 月が変わるだけなのに加えて年も変わることで、今年のうちにという焦りみたいな空気が漂っている。新しい年に向ける期待の裏返しなのかもしれない。夕方とあって帰宅を急いでいるのか、歩道を歩く人は足早だ。
 歩道脇に並ぶお洒落な店を眺めながら、昂月は高弥に手を引かれて人の間を縫っていく。
 あっ。
 不意に後ろから肩を押されて昂月はちょっと前のめりになった。すかさず高弥は昂月を支え、その横をぶつかった人が、すみません、と謝りながら通り過ぎる。
「大丈夫か」
「うん」
「今日はやめたほうがよかったな。土曜日だし、人が多すぎる」
 高弥はため息をついて後悔した。
「もう年内は平日でも一緒じゃない? かえって人が多くて高弥もまぎれちゃうし、堂々とクリスマスデートできるってうれしい」
「一日遅れでも?」
 伊達眼鏡の奥の瞳が可笑しそうに昂月を見下ろす。
「充分だよ」

 クリスマスにデートできないのはいつものことだ。大抵ファン向けのライヴとテレビのクリスマスライヴ出演で、高弥は二十四日も二十五日も仕事でつぶれてしまう。
 もともとクリスチャンではないから一日遅れでも問題なくて、特別なデートという口実にすぎない。
 二年前、大学を卒業すると同時に結婚して毎日ふたりきりでいるわけで、デートというのも考えようによっては必要ないのだろうけれど。

「寒くないか?」
 強い風が通り抜けて思わず立ち止まると、また高弥が心配そうに声をかけた。
 普段であれば、冬が寒いのは当然であり、高弥がこれくらいのことで気にかけることはない。いま昂月は妊婦の身で、たぶんお得な特別期間なのだ。
 いつか、そう思っていたことは今年の春、FATEが活動全開してまもなく現実になった。出産は二月半ばの予定だ。
「平気。赤ちゃんがおなかにいるせいかな。暖かいんだよ。風邪もひかないし」
 昂月が答えると、高弥は何か物云いたげにした。
「高弥、だめ」
 昂月はとっさに制した。物云いたげではなく、高弥はおなかを触りたいんだろう。何を思っているのか、高弥はおなかを触るのが好きみたいだ。そういうのは昂月もうれしいが、家の中ならともかく、公人だけに人目につく場所では遠慮したい。
 高弥はごまかすように首をひねり、それを見て笑った昂月の手を引いて歩きだした。
 妊婦であることとウィンドウショッピングを兼ねたせいで、歩くのはゆったりだ。可愛いコーディネイトで服がディスプレイされていると、昂月はつい立ち止まって眺める。
「いまは着れないし、いざ産んだとしても入るかどうかが問題だな」

 高弥はいつまでも見入っている昂月に痺れを切らしてからかう。
 昂月はたまに自分の体形をすっかり忘れてしまう。はじめてのせいで自覚が足りない。
 例えば、通れると思って中途半端に開けたドアにおなかをぶつけることがある。そうすると、抗議するようにおなかの中からキックがくり出される。昂月はあわてておなかに向かって謝り、その場面に鉢合わせした高弥はおもしろがって笑うのだ。
 いまも高弥は笑いたそうで、昂月は口を尖らせた。

「酷い」
「冗談だ。もっと太ってもいい」
「もっとって、そんなに太ってない」
 そのとおり、おなか周りは大きくなっても、ほかはほとんど変わっていない。それは高弥もわかっていて、逆に、昂月が体質だと云っても案じている。
「そうだな。……昂月、好きでやってることだけど、たまに仕事を恨みたくなるときがある」
 高弥はためらいながら切りだし、昂月は驚いて見上げた。高弥は笑みを引っこめて真剣な顔つきだ。
「え?」
「アメリカ行き」
「……大丈夫」
「違う。不安だってことはわかってる。昂月が隠そうとするから……」
 おれも不安になる。そう続けようとして結局は云わずに高弥は言葉を濁した。
 昂月は高弥から視線を外してうつむき、伴ってふたりともしばらく黙りこんだ。

 バンドをまた本格始動させたいま、戒斗と唯子の目論見どおり、ファンの歓迎ぶりはびっくりするほどだ。FATEにとってずっとディレンマであった音楽の方向性を、ポップ寄りのロックからFATEらしい篤く斬新(ざんしん)なロックに修正したことがファン層を広げた。
 初夏から晩秋まで全国を回ったライヴツアーはどこも即完売だった。それでも浮かれることなく、FATEは冷静にさきを見ている。その証明が、最高峰を目指すミュージシャンならだれもが夢を持つアメリカ進出だ。第一弾の売りこみとして、一カ月の予定で来年の一月早々にアメリカへ渡る。
 出産予定日を考えると、おそらく高弥は立ち会えない。それが国内でも、例えばライヴツアー中であれば昂月に付き添うことは不可能になる。
 それが高弥の仕事だ。昂月はわかっているし、高弥に歌っていてほしいといつも願っている。
 不安なのは、出産のときに傍にいてくれるかどうかではなく、ただ、離れる時間が長いこと。
 結婚してからずっと一緒にいて、ライヴツアーでさえ唯子と約束したとおり、昂月の体調に問題がない限り同行している。本当はもう昂月がいなくても歌えるのだが、高弥は都合よく口実にしている。昂月も共犯者だ。
 そうやって一緒にいるのがあたりまえなだけに、離れることが余計に昂月を不安にさせるのだ。
 どんなに幸せでも怖さは消えない。いや、幸せであるからこそ怖いのかもしれない。
 いつか会えなくなる。それはわかっていても、いまは絶対にだめという、母と同じ過ちを犯すかもしれない自分の弱さ。あんなに酷く母を批難したのに。昂月はそんな自分と闘わなければならない。

「赤ちゃんがおなか減ってるって。もうすぐ予約時間じゃない?」
 昂月が露骨に話を逸らすと、高弥はため息をつくように笑った。
「いつでも聞くから云えるときに云って」
 高弥はそう云ってまた昂月の手を引いた。
 結婚したことが周知の事実とはいえ、昂月はやっぱり戸惑う。いくら人混みにまぎれても公人以前に目を惹くことにはかわりない。人目を(はばか)らない、高弥のこんなしぐさはずっと変わらず、いつも昂月のことを考えてくれるところも変わらない。一度は音楽さえも捨てようとした。
 でも違う。
「高弥、アメリカにはちゃんと行ってね」
 並んで歩きながら、やがて昂月は喋りだした。返事のかわりに高弥の手に力がこもった。

 どんなにふたりが互いを大事に想っても半分にできないことはある。高弥には音楽という仕事があって、昂月には出産という役目があって、それを入れ替えるのは不可能なように。同じ場所で並んでいられるのは、半分ではなくて共有したいという気持ちがあるからこそ。
 いまも高弥はそうしたいと示した。だったら昂月にできることは我慢することではなくて伝えることだ。

「本当を云うと離れるのがいやなの。子供ができてからお母さんのことを考えるようになって……祐真兄がいなくなってそのままになったことが重なってだんだん……いま、高弥と離れることが怖いかもしれない」
「昂月、一緒に闘ってやる、おれはそう云った」
 高弥の宣言じみた口調に、昂月は大事な言葉をもらっていたことを思いだした。
 そうなんだ。
 弱い自分と闘うのは独りじゃなくて、高弥もずっと昂月と闘ってくれている。
「昂月、おれが怖いのは昂月の心が離れることだ。おれはたとえいなくなっても、ふたりの気持ちまで昂月から取りあげるようなことはしない。少なくとも、おれの気持ちは昂月に置いていく」
「高弥……」
 ちょうど赤信号で立ち止まり、昂月は高弥を見上げた。
「泣きそうにしてる」
「どうしよう」
「こうするに限る」
 少年ぽい悪戯心を表情と声に宿して、高弥は昂月の頭を抱えこむように抱きしめた。昂月は手を上げてその高弥の腕をつかむ。いまは人目を気にするよりも触れていたい。
「わたし、闘うから」
「ああ」



 高弥に打ち明けて、少し気がらくになって年が明け、ふたりは遠く離れた。さみしくて不安で、それでも高弥から毎日ある電話が、高弥の中にいつも昂月がいることを教えてくれる。そのなぐさめが、昂月の中に覚悟を形成していく。
 やがて高弥のアメリカ滞在は一カ月を超えた。
 さっきニューヨークにいる高弥から電話が入った。予定どおりに三時間後の飛行機に乗り、明日の夕方には日本に帰ってくる。
 一方で、昂月の出産は予定の十五日を三日過ぎた。まるで高弥が帰るのを待っているみたいに気配がない。けれど、出産を案じる気持ちよりは、高弥がまにあうと思うとうれしくて安堵した。
 が、それもつかの間、昂月の躰に異変が表れた。明日会えることを赤ちゃんに報告して眠ろうとした矢先だった。鈍いながらもきりきりするようなおなかの痛み。赤ちゃんもパパを待ちわびて、早く会いたいらしい。
 分娩室に入ったのは夜を越えて朝の七時。繰り返す痛みの合間に、昂月はいろんなことを考えた。

 祐真がいなくなって逝ってしまった苦しいだけの時間、高弥に甘えただけで進めなかった時間、全部を壊そうとして足掻いた時間、それから高弥とふたりで重ねてきた時間。
 いつのまにか祐真と同じ年になって、そして越えた。
 わたしはやっぱり欲張りなんだろう。さみしい。祐真兄を置いてきぼりにしたみたいで。悲しい。
 昨日の電話でそう曝したら、高弥はしばらく黙った。
 祐真がいるから、おれたちはここに在るんだろ?
 昂月はここでも大事なことを忘れていて、また気づかされる。
 高弥が昂月のわがままをひっくるめて受け入れてくれていること。うしろめたささえ曝せる場所を高弥は与えてくれる。
 忘れても弱さに迷っても、口にして伝えれば、高弥は何度でも応えて気づかせてくれる。いつも昂月は高弥という陽に照らされ、行く先を守られている。
 だから闘っていける。たとえ独りになることがあっても高弥の心は信じていられるから。

「伊東さん、今度よ。頑張りましょう」
 助産婦の呼びかけに昂月はうなずいた。



 日本に到着して飛行機を降りたのは四時を過ぎた。
 アメリカでは前座という下積みから始めたわけだが、ちょっとした伝手もできて、それなりに充実した滞在だった。がむしゃらにスケジュールをこなしてきて、日本に立ったという安心からか、疲れを感じなくもない。
 飛行機の中という長時間の拘束から解放され、ロビーに出ると、高弥はメンバーと同じく深々とため息を吐いた。コートのポケットから携帯を取りだして電源を入れた直後、メールの着信音が鳴る。
『高弥、おかえり。今日、八時四十五分に生まれたよ。予定どおり女の子。わたしも赤ちゃんも元気。だから急がないで帰ってきてね』
 携帯を握る手に力が入る。
「高弥、どうした」
 戒斗が訊ね、刹那、高弥は言葉に詰まった。
「……生まれた、って」
 高弥はずっと案じていても(おもて)に出すことはなかったが、さすがに二月に入ると、仕事を離れたとたんに気も(そぞ)ろな様子だった。それを知っている戒斗が高弥の肩を抱えこむ。
「よかったな」
 高弥はうつむいて髪をかき上げると、声を漏らして短く笑った。
「なんだ?」
「子供、生まれたんだってさ」
 訊ねた航に戒斗が答えた次の瞬間、それでなくても目立つ集団が歓声に沸いた。



 昂月は知らぬ間にうとうとしていたらしく、ふと目が覚めた。
 時間を見ると高弥からメールが入って二時間。来てくれると云った時間から三〇分以上も遅れている。
 携帯を手に取りながら不安が甦る。
 昂月の不安が伝染したように赤ちゃんが泣いた。ベッドからおりて、ベビーケースを覗いてみた。体重は二六〇〇グラムとちょっと小さめだけれど、泣く力はどの赤ちゃんともかわらない。
 オムツ交換はボランティアでやってきた甲斐あって戸惑うこともなく、赤ちゃんのお尻をきれいにすると昂月はベッドに腰掛けた。母乳を与えるのはちょっと手間取ったが、ようやく赤ちゃんは食事にありつく。その一所懸命な姿は可愛い。
 生まれたのはほんの十時間前。その瞬間の誓いをいまの赤ちゃんの姿が思いださせてくれた。

 大丈夫。
 誓いに立ち会ってくれたこの子がいるなら。そこに高弥の心もあるから。

 昂月の顔に笑みが宿る。と同時に個室のドアが開いた。
 高弥の顔を認めると、昂月の顔はほっとして泣き笑いに変わった。
「昂月、おめでとう」
 高弥がすぐに近づいてきて、昂月の足もとに(ひざまず)き、涙を拭った。
「高弥もおめでとう」
 高弥は小さく笑って、赤ちゃんの顔を覗きこむ。
「遅くなって悪かった。空港でメール見て、生まれたって云ったら航たちが騒いだんだ。おかげでちょっとしたパニックになった。航が喋ったから明日には報道されるかもな」
「FATEっていつもすましてるのに、そういうときはみんな少年っぽいんだよね」
 昂月がおもしろがると、高弥は否定せずに肩をすくめた。
「連絡しようと思ったけど、寝てるかもしれないし、かえって電話入れたらびっくりさせる気がした」
 祐真のことがあって以来、昂月はいまでも電話のことを引きずっていて、聞き慣れない女性の声に限らず予定外の連絡を苦手としている。それを知っている高弥はちょっと首を傾けて弁解した。
「うん。大丈夫だよ」
 昂月の返事に何を聴き取ったのか、赤ちゃんを抱いているにもかかわらず高弥は昂月を抱いた。すぐに離れると、かわりに高弥の手が昂月の頬に触れる。
「上手に闘えてるらしいな?」
「たぶん」
 曖昧な返事にふたりは小さく笑う。
 赤ちゃんはそんなふたりにかまわず、ひたすら食事中だ。高弥は小さな握りこぶしをつかんだ。
「昂月に似てるみたいだ」
「そう? 名前考えてくれた?」
「ああ。向こう行ってる間にいろいろ考えた。おれはやっぱり昂月とこうしていられることに感謝してる。だから、祐真が引き合わせてくれた愛という意味で、祐愛(ゆめ)
 高弥の問うような眼差しが向けられると、返事のかわりに昂月の瞳が涙に滲んだ。

「高弥」
「何?」
「わたしも……高弥からわたしの心は取りあげない。たとえ高弥がいなくなるとしても、心はだれにも譲らない。預けない。高弥に置いておくから。ちゃんと持っていって」
 高弥の顔が笑みとも苦辛ともつかない複雑な表情に歪んだ。
「愛してる」
 高弥は抑えきれず、呻くように口走った。
 それはあの曲のレコーディングのときと同じで、ずっとある高弥の心。
 うなずいた昂月の顔に笑みが広がった。


 いま幸せですか。

 その問いかけはいつも昂月の中にある。
 幸せはだんだんと広がっていく。
 笑っていられるから幸せ、じゃない。

――ずっと幸せです。

 うれしくても苦しくても、不安でも悲しくても、そして怖くても、いまも過去(まえ)もいまからも、ただただ、ずっと幸せです。

The End. Many thanks for reading.

DOOR
    
あとがき
2009.12.28. 9月サイト開設3周年、本格稼働2周年、移転0年の記念作
祐真が逝ってから5年後の物語。結婚して子供ができて、その間に祐真より大人になって、またちょっと後戻りした昂月。
ピュアに幸せと感じる瞬間はいくつもあって、でも、いつのまにかその瞬間を忘れてしまって沈んだり。そしてまた誰かに、もしくは何かに気づかされて頑張れる。きっと生きるとはその繰り返し。
そんなふうに思っていただけると幸です。
未来のふたりを書くきっかけを与ったことに感謝をこめて   奏井れゆな 深謝

Material by Heaven'sGarden.