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DOOR|オフリミット〜恋の僭主〜
Chapter2 This is my life.
2.runaway love #8
呼びだしたのは実那都のほうだ。けれど、いざ口にするにはきっかけが必要で、航が率直に話すよう促してくれたことは助かった。
「昨日、勢いで大学のこと話してみた。でも、ダメだった」
「勢いって……」
航は目を見開いて実那都の顔を覗くように首を傾けた。
「お母さんと加純が東京に行くまえに知り合いとか友だちとかに挨拶しなくちゃって楽しそうにしてたから、云いたくなった」
航はため息とまがうような笑い声を漏らす。大学進学がだめだったことにがっかりしている様子はなくて、おもしろがったように眉を跳ねあげて実那都を見やったあと、首を起こしてベンチにもたれかかった。
「へぇ。実那都はいつも冷静っぽいと思ってたけどさ、そういう衝動的なとこもあるわけだ」
「うん……それで失敗してるよ、わたしはずっと」
「どいうことだよ」
うん、と返事にならない返事をして、実那都はひとつ息をつく。短くて浅い吐息のなかに、希望も期待も紛らせて棄てた。安心する傍らでずっと感じていた不安を終わらせられる。そんな覚悟をしつつ口を開いた。
「小さい頃の……保育園の年長のときのこと。加純は小さい頃から可愛くて……わたしのことをほっといてるわけじゃないけど、それよりずっと大事にしてるってわかるくらい親は加純をかまってた。卒園式の日に、加純は――年少で同じ保育園に通ってて――熱を出したから、お母さんは来てくれなかったの。かわりにお父さんは来てくれたけど……。ほんとに看病しなくちゃならないくらいひどかったのか、そうじゃなかったのかはいまでもわからないけど……」
「けど、お母さんに来てもらいたいって気持ちは、おれにもわかる。わがままじゃねぇ。ちっせぇガキって父親より母親っていうじゃん。実際、泣いてるガキは大抵が『お父さあぁん』とは泣かねぇ」
航は両手をひらひらと泳がせつつ泣き真似をして、実那都は短くも、ふざけたその素振りについ笑ってしまった。
「わたしも聞いたことないかも」
「ああ」
航はニッとくちびるを歪めて相づちを打ち、実那都が切りだすのを待っている。笑ったことで少し気がらくになりながら実那都は続けた。
「そういえば、加純もそのとき具合が悪かったせいか、『お母さん』て泣いてた。お母さんはわたしの卒園式より、加純の病気に付き合って、わたしはそれで拗ねて意地悪になってた。小学校に入る準備も……筆箱とかバッグとか買い物するはずだったのに延期されたから。ちゃんとあとで連れていってもらったけど、わたしはいつまでも拗ねてて、加純に八つ当たりしたの。寝込むほどの病気じゃなくて、わたしに付き纏ってくる。だからよけいに腹が立って、加純を払いのけた。そこが階段の途中で……下から二段めくらいだったと思うけど、わたしは加純を突き落とした」
「ケガしたのか」
すぐ答えるには言葉が詰まり、ううん、と云うより早く、実那都は首を横に振った。
「大きなケガはしてない。打ち身とか、そんな感じだったと思う。病院にも行ってないし。わたしはごめんなさいって云えなかった」
階段の下で泣いている加純を見て、実那都は自分が何を思ったかよく憶えていない。いろんな感情がざわめいてはっきり名付けられないせいだ。
「それから親との関係がおかしくなったってことか」
しばらく沈黙がはびこったあと、航は独り言のようにつぶやいた。
「……うん。自業自得ってわかってるし、あきらめてるけど……腹が立つこともある。わたしは何も考えられないくらい衝動的になるし、悪いことをしても謝れないくらいひどい性格してる。わたしは醜いよ、いろんな意味で。隠してるだけ。でも、航は外側も内側も一緒。人が嫌がること、理不尽にはやらなくてきれい」
「何云ってんだよ」
軽く受け流すように航はそう云ったきり黙りこんだ。
何やってるの! いまの航と似たような言葉を吐いた母はあのとき、階段の三段めに立つ実那都を見上げた。きっとした眼差しは睨みつけるようにも見えた。そのときに謝ってしまえばよかったのかもしれない。怒られても当然なことをしたとわかっていた。ただ、納得のいかない拗ねた気持ちが素直さを奪い、逆に反感を生んで、そうするのを押しとどめた。
「実那都、おまえが醜いってことはねぇよ、いろんな意味で」
やがて航は実那都の言葉を借りてつぶやいた。それに、と続けたあと航は脱力したような笑みを漏らす。
「実那都は知ってるだろ。おれがきれいな人間じゃねぇこと」
「……え?」
「おれたちが付き合うってなった日のことを憶えてねぇのかよ」
航はのけ反るようにしていた上体を起こし、思わず振り向いた実那都の顔にぐっと顔を近づけた。焦点がかろうじて合う近距離で航を見つめたまま、なんのことか考えを巡らす。
「えっと……付き合えって強制したこと? でも、わたしは嫌がったっていうより戸惑ってただけ」
「――そうこないとな。強引に連れだしたことは認めっけど、そうしたことにおれはなんの疾しさもねぇから」
航は悪びれることなく、「そこじゃなくてさ」と実那都が出せなかった答えを自ら語りだした。
「思いださせたくねぇけど、おまえ、襲われたこと忘れたのかよ」
すぐにはぴんと来ることなく、航が云うとおり実那都はすっかり忘れていた。襲われたのは一度、メグという女性が記憶の中から浮上した。
「忘れてた」
「はっ。それでいいけどさ、実那都をそういう目に遭わせるようなことをおれはやってたってことだ。清く正しくなんて生きてねぇ。だれだってそうだろ。実那都、おまえは謝れなかったっつったけど、心の中では悪いって気持ちもあったはずだ。ケガしてたらどうしようって不安とか怖さとかもあっただろ。そういう気持ちがあるんなら、醜いことなんてない。だってさ、そんな気持ちがなければサイコパスだ。けど、実那都は違う」
それから航は少し前のめりになって実那都を覗きこむと――
「おれは実那都っていう人間を見間違ってるか?」
――わたしのこと、どんな人間だって思ってる?
昨日、実那都が投げかけた問いを持ちだして、これが真の答えだといわんばかりに航は問い返す。
航の云うとおりだった。たぶんあのとき、泣いている加純を見ながら実那都が感じていたのは、後悔と不安と怖さだった。冷静に見ていたわけではなく、怯えていたから立ちすくんで動けなかっただけで、ざまあみろなんていう感情は一片もなかった。
両親とは――特に母とは拗れてしまったのに――。
航の手のひらが頭の天辺に被さる。その反動で、溜まっていた涙がすとんと落ちた。
「おれもケンカやって……兄弟げんかもやって、親に怒られたことが何回もある。不機嫌にさせて、けどそれもいつの間にかおさまってる。それが家族なんだってあたりまえに思ってた。けど……実那都んちみたいなとこもあるんだよな。おまえが悪いんじゃねぇよ」
「航に……嫌われるかもしれないって……怖くて……ずっと……話せなかった」
「んなことあるかよ。親がバカだ」
航は即座に吐き捨てるように応えた。それがおざなりのなぐさめでないことは、わかりすぎるくらいわかっている。
「航を……信用してなかった、わけじゃない……」
「ったりめぇだ。あんま泣くとこ見たくねぇけど、たまには泣いてすっきりしろ」
航の手が頭の天辺から離れたかと思うと、肩が引き寄せられた直後、航の腕が実那都の躰をくるんだ。痛いほど腕はきつくて、そのぶん躰のふるえが止まった。
なぜ航にとって実那都なのか、それはずっとわかることはないのだと思う。実那都にとってなぜ航なのか、それもうまくは云えないから。ただ、耳もとに響く鼓動と自分の鼓動が同じリズムを奏でる瞬間、このためにふたりがいる、とそんなふうに思える。
なるようにしかならない。そんなモノトーンだった未来は航がいることで色鮮やかになった。そしていまは、航がいると感じているだけで色づく。たとえ離れてそれぞれの道を行くとしても、繋がりは絶てない。航は裏切らない。それを期待ではなくて確信だと云ったら、まだ子供だからと純粋さをばかにされるかもしれない。
それでも航は実那都にとって絶対だと云いきる――
「航が好きだから」
航の腕にさえぎられ、くぐもった声はそれでも航に届いた。航が笑って、ふたりの躰が一緒に揺れる。
「実那都は醜くなんかねぇ。世界一可愛い。どうしようもないくらい好きだあぁぁ!」
「航!」
航の叫び声は思いのほか暗闇に轟いて、実那都は悲鳴じみた声でさえぎりながら、腕の中でもがいた。航は笑いながら一度さらにきつく抱きしめて、それから腕を放した。
「べつに犯罪じゃねぇ」
「わかってるけど!」
困惑した実那都の顔に手を伸ばして、片方ずつ目尻を拭った。
「これで遠慮なく、おれのわがままが通せる」
航は意味不明なことをこぼす。
「わがまま?」
「ああ。おまえ、親に云ったってことは、大学に行く気がないってことはないってことだろ」
航はややこしい云い方をした。
「でもそれはもう……」
「ダメじゃねぇ。学力が心配だっつうなら家庭教師は兄貴に頼めるし、戒斗の奴が力になるとも云ってる。あの自信たっぷりさは訳わかんねぇけど」
「……戒斗さんてバンドの?」
「ああ。学費は奨学金でしのいで、住むのはおれんとこに下宿できる。生活費はアルバイトする。つまり、だ」
「……つまり……?」
航はにやりとする。
「実那都をさらう。親は文句云わねぇだろ。つぅか、云えねぇだろ。おれがいちばんおまえのこと考えてやれるから」
航は自信満々で、実那都は笑わせられる。
「航が云うと、どうにかなりそうって思う」
「どうにかするさ。じゃ、行こうぜ」
航は出し抜けにすっくと立ちあがる。帰るという意味合いとは違って聞こえた。手を取られるまま実那都も立ちあがった。
「行く? どこに?」
「おれんちだ。こそこそする気はねぇっつっただろ。ヘンにおまえに引け目とか感じさせたくない。堂々とおまえを守る。それがおれの一生の覚悟だ」
「航……」
「いま泣いたら襲うぞ」
ふるえた呼びかけに乱暴な応えが返ってくる。
「ここ、外……」
「関係ねぇ」
実那都が目を丸くすると、航はふんと顎をしゃくってみせ、手を引っ張って歩きだした。
「実那都」
「うん」
「バンドの名前、FATEっていうんだ。戒斗にはファンタジーだっつってからかってやったけど、運命ってさ、絶対おれと実那都のことだ」
航の恥ずかしげもない断言に実那都はくすくすと笑いだした。