眠れないほど好き
眠れないほど好き
「お疲れさまでした」
あと少しで仕事を終えるという頃、支店長代行の唐沢那智が上のフロアであった営業会議から戻ってきた。
支店長は八月から病気療養中で、唐沢はその代行として、世界有数といわれる商社、業平商事の本社から派遣されてきた。
まだ三十二才という若さながら、さすがに基本が本社所属というだけあってやり手だ。まず、決断するのにためらいがない。それだけの自信があるのだろうけれど、“上から目線”ということはなくて、部下が年上となるとそれなりの敬意が見える。
先月になって十二月から支店長が復帰することが決まり、引継ぎも含め、唐沢がいるのもあと一カ月くらいだ。
「ああ、お疲れ。市羽さん、おれ、今日の会場ははじめてなんだよな」
唐沢はわたしのデスクまで近づいてきた。
今日は居酒屋で同僚の茜の送別会だ。いわゆる寿退社。すでにほとんどの支店社員が会場に向かっている。このフロアもいまはわたしだけだ。
「あ、そうなんですか」
わたしが答えたとき、ちょうど営業課の今期新人、志穂が戻った。今日は会議補佐の当番だったらしい。
「もうちょっとやり残してることがある。待っててくれないか?」
「いいですよ」
唐沢がこういう頼み事をしてくるのはめずらしくない。いつものこととわたしが承諾すると、唐沢はうなずいて奥の支店長室へと消えた。
「お疲れさま」
志穂に声をかけると、何か云いたそうに見られた。結局は、お疲れさまです、と答えるだけで、志穂は後片づけを始めた。
それから二〇分くらいして、わたしは唐沢と会場まで歩いて向かった。会社からそう遠くないけれど、ちょっと道が入り組んでいる。
十一月も半ばになって道沿いに吹く風は冷たく、この時季は一年の終わりという感じがしてちょっとさみしい。今年は焦りみたいなのがプラスアルファで現れた。ここ一カ月、頭の中がぐちゃぐちゃしていてよく眠れない。
二十五才という年に因るのか。響き的に二十四才まではまだって感覚があるけれど、二十五才となると馬鹿げたことはやれそうにない大人の域に入った感じだ。それはまもなくのクリスマスのせいでもあるだろう。クリスマスが二十五日じゃなくて五日だったら、売れ残りなんて云われなくてもすむのに。
それはともかく、上司とふたりというのは緊張する。普通の上司よりは年が近いぶん、まだマシではある。
唐沢はこっちの生活が慣れないだけに、何かと私用でわたしを借りだした。総務という職を考えると仕事の一環といえなくもない。唐沢はわりと砕けた話し方をする。それでも馴れ馴れしくすれば失礼に当たるだろうし、わたしはいつも距離を置いている。
「唐沢代行、あと少しでこっちも終わりですね」
「ああ。せっかくこっちの雰囲気に慣れたんだけどな」
唐沢の声は本当に残念そうだ。
「もしかして気に入ってもらえました?」
そう訊ねると、唐沢はふとわたしを見下ろした。何か云いたげに見える。
「ああ、けっこう気に入ってる。っていうより、こういうふうに気に入るのははじめてで離れがたい。東京に持って帰りたいな」
唐沢は大げさすぎることに加え、不可能なことを答え、わたしはおもしろがって見上げた。街灯の下、笑っているのが見えたのか、唐沢も合わせてふっと笑みを漏らす。
「持ち帰るって無理ですよ」
「残念だな。ま、頑張ってみる」
唐沢はそう云って肩をそびやかした。
どこか云い含んだ口調で、頑張っても持ち帰れないと思ったけれど、冗談だろうし、ちょっと笑ってわたしは聞き流した。
それから会場に着くまでの十五分、当たり障りのない世間話と仕事の話で、上司とふたりきりの時間をどうにか切り抜けた。
「ありがとう、助かった」
「いいえ」
笑みを浮かべて答えながら『業平商事様』と記された戸を開けると一斉に注目された。最後に行くとこれだから嫌なのだ。わたしは気づかれない程度にそっとため息をついた。
「有紀、飲んでる?」
右隣に座った今日の主役、茜がビール瓶を差しだした。
「適当に飲んでるよ。それよりわたしはさみしいんだよ?」
「さみしいって?」
「茜はさきに結婚しちゃうからわかんないだろうけど、なんだか友だち盗られちゃう感じ」
茜はぷっと吹きだした。
「有紀、ありがと。そう云ってもらえるような友だちがいてうれしいよ。そのわりに秘密を打ち明けてくれないって矛盾してるよね?」
たしかになんでもかんでも喋っているわけではないけれど、茜が云う『秘密』に心当たりはなく、わたしは眉をひそめた。
「……なんのこと?」
「んもう、そこまで秘密にしなくってもいいのに。どうせ私は今日でやめちゃうんだから。まあ、いいわ。東京で吉報を待ってるから。じゃ、挨拶回りやってくるね」
わたしが考えこんでいる間に一方的に云い残し、茜はわたしの左隣にいる経理課長の横に移動した。
業平は結婚退職を勧めているわけではなく、むしろ引き止められる。茜の場合は、ご主人になる人が結婚と同時に転勤になるらしく、というよりは転勤を機に結婚を決めたみたいで、転勤族という以上、引き止めるには無理がある。
わたしが落ち着かなくなったのは、茜がいなくなるとわかった二カ月くらい前だろうか。
高卒で業平の九州支社地方支店に勤めだして七年がたつ。総務職について仕事をつかむのに一年、慣れるのに一年、余裕の三年目からはひたすらにベテラン街道をまっしぐら。
オフタイムではそれなりに遊んできたけれど、カレシについてはピンと来る人はいなくて、流れで付き合ってもやっぱり続かず、ただ面倒くさくてリタイア。
美人でもないくせにわたしはわがままだ。念のために自己申請すると不細工でもない。たぶん。
自慢じゃないけど上司受けがいいことはたしかだ。競争率の激しいなか、高卒というレベルで採用されたこともその証明かもしれない。
結婚ということを考えれば、上司受けしたところでなんの利もないけれど。だいたいが既婚者ばっかりだし。
あ、そっか。唐沢は独身だけど上司なわけで、何かと用を云いつけられるのは、総務職という仕事柄じゃなくて唐沢にも受けたのかもしれない。
それはそれとして、このぶんじゃ、クリスマスもとっくに過ぎて年越しちゃう、なんていう人生になってしまいそうだ。
もう馬鹿な遊びもできなくなり、結婚するにはだんだんと条件も狭まっていく。独身の友だちも減りつつあってさみしすぎる。いや、結婚したいわけじゃなくて、常に気兼ねなく会える人がいればそれでいいだけのこと。
そもそも、これまで好きと思う人はいても絶対好きっていうところまでの人はいなくて、まず恋して泣いたことはない。そのあたり、自分でも冷めていると思う。失恋して痩せるとか眠れないとか、わたしにとっては密かな憧れだ。
要するに女友だちがいればいいんだけれど、彼女たちはカレシができたら当てにならない。
いまさらピンと来る人と出会う可能性は低い。わたしの未来って明日、つまり明るい日というより、もはや落日という感じだ。
わたしは内心でため息をついた。とたん、空いた茜の席に誰かが座りこんだ。
「市羽有紀さん、きみって固いって云われない?」
フルネームで呼びながらなんの前置きもなく不躾に訊ねたのは唐沢だ。
「……そう見られるみたいですね」
わたしは他人事のように答えた。
固く見られるということは、茜に云わせればお得らしい。いいかげんに扱われる確率が減るという訳だ。わたしからすれば近づき難くて避けられている感がある。けっして固くはなく、逆にだれかといたくて、いいように流されるタイプなんだけれど。
「みたいってことはそうじゃないってこと?」
「固いつもりはないんですけど」
「へぇ」
意味ありげな相づちだ。
「……なんでしょう?」
「いや」
短い返事と一緒に何か含んだような笑みが返ってきた。
わたしはこの唐沢のイメージを間違って捉えていたんだろうか。いまの口調は砕けすぎている気がした。
おまけにいまの姿勢は誉められたものじゃない。胡坐を掻いて片肘をテーブルについて、躰はまるっきりこっちを向いている。部下たちに格好つかないんじゃないだろうか。いや、こんな格好でも唐沢はなぜか様になっているのだけれど。
最初の唐沢の印象はいかにもエリートっぽくて冷ややか。仕事をしていくうちに、バリバリのやり手でも驕りがなければ礼儀も欠いていない完璧型人間とわかった。真面目に超を付けてもおかしくないくらい品行方正だ。お酒の席でも乱れない。
さっき一緒に来たときだって至ってスマートだったのに、目の前にいる唐沢はまったくイメージが違っている。
ほんの数年前の二十才前後、わたしは中学時代の友達に誘われてよく一夜限りのお遊びをしていた。いや、如何わしい遊びじゃなくて、とある場所に行くと出会いを求める男女それぞれのグループが集まっていて、意気投合したら朝までドライヴ、なんてことをしたり。単なる暇つぶしみたいなもの。物騒な世の中だけど、危ない目に遭ったことはない。
いまの唐沢はそんな男たちと同じくらい軟派に見える。
わたしが思わず躰を引くと、唐沢はにやりとした。
「唐沢代行、二次会には行かれますよね?」
不意に志穂が割りこんできて、対処に困ったわたしはほっとした。
「いやパスだ。大事な用事がある」
そう答えた唐沢はいつもの仕事口調だ。
大事な用事ってなんだろう。こっちに知り合いはいないって云ってたし、ということは仕事なんだろうか。そこまで仕事中毒とは恐れ入る。
「そうなんですかぁ」
わたしが絶対やらない甘えた云い方で、志穂は可愛く口を尖らせた。ほぼ一回りという年の差をものともせず、赴任当初から志穂が唐沢を狙っているのはみえみえだ。
たしかに唐沢は女性から見て十分条件がそろっていて、誘われたら断る人なんていないだろう。逆に、それでも独身というのが引っかかるけれど。縛られたくないのか、女嫌い、微妙に逸れて男好き、もしくは片想い中。いやそれ以前に、茜のようにきっかけがあればすぐにでも結婚できる彼女が東京にいるのかもしれない。
あ、そっか。大事な用事ってその彼女に電話でもするのかも……。
そう考えるとため息が出た。
何、このため息? やっぱり取り残された気分。まあ、どうでもいい。すぐにいなくなるんだし。
本社に出張することはあるけれど、よほどの偶然ですれ違わない限り、唐沢と会うことはない。
せめて夢見る志穂のお手伝いでもしようか。
そう思ったわたしが席を空けるより早く、
「じゃ市羽さん、あとで」
と、唐沢は意味不明な言葉をかけて席を立った。
「やっぱり、唐沢代行と市羽さんて何かあるんだ」
ぽかんとした間抜けな顔のまま、唐沢の背中から志穂に目を移した。むっつりした志穂の発言もまた意味不明だ。
「……やっぱり?」
「惚けないでくださいよ。付き合ってるって噂ですよ。市羽さんはまるっきりポーカーフェイスですけど、唐沢代行はあからさまですもんね」
付き合ってる? 市羽さんと唐沢代行? 知らなかった……。っていうか。
「市羽さん、て、わたし?」
「うちの支店にはほかに市羽さんていませんけど」
志穂はとても先輩への口調とは思えないほどつっけんどんに云った。
「あーあ。わたしのほうが若くてイケてるはずなんだけどなぁ」
失礼極まりない文句をぶつけ、志穂は自分の席に戻っていった。
わたしは無礼に怒るよりも呆気にとられた。思わず唐沢の姿を探してしまった。営業課長と話していた唐沢はわたしの視線に気づいたのか顔を上げた。
にやりとした顔が獲物を狙う豹みたいに見えたのは気のせいだろうか。瞬きしている間に、唐沢は営業課長に目を戻していた。
どう……いうこと?
もやもやしたまま一次会はお開きになった。精算を任されていたわたしが店員と話しているうちに全員が会場を出ていった。
お手洗いに行って化粧直しをして店を出たときは、薄情にもだれも見当たらない。
もしかして……置いていかれた?
……こんなところでも売れ残りならぬ置いてけぼりってちょっとショック。ありえないし。
「市羽さん」
不意打ちで後ろから声がかけられ、わたしはびくっと肩を揺らして振り向いた。
「か……唐沢代行。心臓、止まりそうになりました。みんなはもう二次会に出たみたいですよ」
唐沢はゆっくりと寄りかかっていた店の壁から躰を起こした。
「おれはパスって云ってるから」
「あ、そうでしたね。大事な用事あるって……」
唐沢の人差し指が向かってきて、わたしは言葉を切った。
「なんですか?」
「大事な用事」
「え?」
「市羽さんに大事な用事がある。ちょっと付き合って」
「え?」
唐沢は背を向けて歩きだした。唐沢の言動についていけず立ち尽くした。用事がわたしにあると云ったわりにわたしを置いてさっさと歩いていく。ああ云われた手前、上司を放るわけにもいかず、唐沢を小走りで追った。
気づくと会社の前まで戻っていた。往きを案内しただけで復路を迷うことなくたどり着けるあたり、妙に感心した。
唐沢はそのまま通り過ぎ、ちょっと先のマンションに入った。こっちにいる間、唐沢が借りているマンションだ。何度か、頼まれて私物を調達して持っていったことがある。
唐沢は二階まで階段を上り、部屋の前で立ち止まった。
「唐沢代行、何か入り用ですか?!」
さすがに不安になって、訊ねた声は不自然に大きくなった。
「必要なのは市羽さん、て云ったら?」
「え?」
「これでもかなりアプローチしてきたつもりだけど、通じなかったみたいだ」
「え?」
「例えば、事あるごとに市羽さんを指名したり」
「は?」
「つまり、おれは市羽さんに惚れてる」
「……」
「固くないって云ってたし、きっかけは逃さない主義。入ってくれるかな。何が起きるか保証はしないけど」
唐沢は部屋を指差した。唐沢は意思表示をするためにここまでわたしを連れてきたらしい。その意味がわからないほど鈍感じゃない。
「……わたし……人をそこまで好きになったことなくて……その……たぶん“保証されないこと”は、はじめて……なんですけど」
「市羽さんが固くてよかった」
「だから固くありません。置いていかれるのが嫌で、けっこう流されるんです」
「なるほど。じゃ、誘えば乗ってくれるわけだ」
唐沢は招くようにドアを開いた。
わたしはためらった。常に、じゃなくて期限付きなら、さみしさはかわらない。
そう思ってみて気づいた。唐沢との間に距離を置いていた理由も眠れなかった理由も。
わたしにもきっかけは与えられた。
「えっと……一度、眠れないほど人を好きになってみたいと思ってるんですけど」
「ふたりで挑戦してみるってのは?」
「どういう意味ですか」
「眠らせない方法はいくらでもあるってことだ」
唐沢は獲物に照準を合わせた豹みたいに闘争心剥きだしだ。それとも食欲?
「……」
「眠れないほど好きって人がいないらしいし。それなら市羽さんの不安をなくすために、遠慮なく保証できることが一つある」
唐沢は戸惑ったわたしに駄目押しを仕掛けた。
「……なんですか」
「本社に戻るときは市羽さんをさらってく」
唐沢は、どうする? と無言で問うように首を傾けた。
そのさきに失恋したとしても、それで痩せるっていうのも憧れだし。
さみしさを引きずるよりは、眠れないほど好きでいたい。
わたしは開いたドアの未来に飛びこんだ。
− The End. − Many thanks for reading.
★ ブログ仲間さんのお題「見えないもの」よりできた作品 2009.10.月企画(ブログ先行公開分に加筆)
|DOOR|
Published in 05 Nov. 2010. Material by Sweety.