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DOOR|ふぞろいの恋と毒-クロス-
第2章 身の程知らず
2.敵わない叶わない
食事をしながら会話をしている間に、桔平がいることにも慣れてきた。
仕事ではともかくプライベートな付き合いになると、何かにつけ一拍置いて喋る。そんな朱実の癖を桔平は気にしているふうでもなく、どきどきするのは変わらなくても心地よかった。
駅まで送っていくときかない――どちらにしろ同じ駅を利用するのだが、桔平の主張に負け、朱実は帰り支度をするまで待ってもらって一緒にビルを出た。
「今度、どこか行く気ない?」
平日のビジネス街はこの時間になっても人が絶えることはないが、今日は土曜日で人通りはさほど多くない。冬になりかけ、空気の澄んだ闇のなか、桔平の声はやけにくっきりと通って聞こえた。
「……え?」
朱実のびっくり眼を見下ろして、桔平はふっと笑う。
「だから、いつものごとくデートの誘いだよ。慣れてないのがバレバレだな。警戒心が強いのはそのせい?」
この三カ月、ずっと桔平から誘われてきたことはわかっていて、慣れていないのもそのとおりだ。けれど。
「……岡田さんのことは警戒しているわけじゃありません。人と親しくなるのが苦手で……だから――」
「だから、おれで練習すれば?」
桔平は朱実をさえぎって言葉を引き継いだ。
二十八にもなる人が、なぜこんなふうに素直に自分の云いたいことを伝えられるのだろう。穿てば、自分の思うままに人を動かそうとしている。けれど、朱実にはそんなふうに映らなかった。
「……わかりません」
「はは。やっぱり正直だな。ノーっていうはっきりした拒絶じゃないこと、気づいてる? 前向きに考えてるってことだ」
「……岡田さんのほうがよっぽどポジティブです」
「それが取り柄だ」
「……だから上の人になってるんだと思ってます」
「くすぐってくるね。朱実ちゃんは、ただおとなしいだけじゃないな。敦美さんだっけ、彼女が云ってたとおり、控えめなんだ。そういうとこ、おれ、好きだな」
好きという言葉がどこまでの意味で発せられたのか。身の程知らずにも期待が芽生えてしまう。桔平は女性にもてそうだと思っていたけれど、話しているとますますそう思う。選択肢はあらゆるところに転がっているだろうに、なぜ朱実なのか、まったくわからない。
戸惑ったまま、何も気の利いた言葉が思い浮かばなくて、朱実は黙りこんだ。桔平も追いつめることはしない。
「朱実ちゃんは東京出身? おれは大学進学のときに名古屋から出てきたんだ」
「……もともとは東京です。高校まで静岡にいて、今年の初めに東京に戻りました」
「へぇ。独り暮らし?」
何気ない質問に何気なく答えようとしたが、一拍置いて喋る癖が幸いして口が開くまえに誘導は避けられた。思わず桔平を振り仰ぐと、苦笑いが見えた。
「念のために云うけど。いまのは聞きだそうとしたわけじゃない。話の流れだ」
桔平は降参するように空いた右手だけホールドアップした。左手には重そうなバッグを持っている。
朱実はうなずき、そうしてまもなく駅に到着した。
「じゃあ気をつけて……」
「桔平!」
桔平が云いかけたとき、どこからか女性が呼びかけた。
声のしたほうを向くと、それは愛結だった。そして、なぜかムラサキと一緒だった。いや、パーティ仲間だから、偶然でも必然でもなぜかということもない。
桔平がため息を漏らし、それを合図にしたようにふたりは立ち止まった。反対に、足を止めていたムラサキと愛結はこっちに向かって歩きだした。
改札口が近くて人は多い。よく目についたものだと朱実は思いながら、ふたりが人の間を縫ってやってくるのを見ていると、目立った理由もわかる気がした。
愛結は朱実と同様、背は低めだ。ほとんど変わらないだろう。人波に埋もれると探そうと思っても難しい。けれど、ムラサキは平均的高さよりも頭一つ抜きんでている。桔平もそうで、だからすぐに見つけられたのだ。
ふたりを待っていると、愛結は桔平を目掛けて、ムラサキは朱実を目掛けてくる。なんとなくそう感じたとおり、やがてすぐ近くで立ち止まったふたりは、それぞれの正面に立ち止まった。
「こんばんは」
「桔平、お疲れさま」
ムラサキは朱実に、愛結は桔平に声をかけた。
「こんばんは。このまえは送っていただいてありがとうございました」
「いや、おれが強引に送るって云っただけだろ?」
ムラサキは気さくな様で肩をそびやかした。
「はい、それでも助かりました」
朱実はかすかに頭を下げると、愛結に向かった。
「愛結さん、こんばんは。このまえはお世話になりました」
「こんばんは」
愛結はにっこりとそう云うと、朱実を上から下までひととおり眺めた。そうしたあとに戻ってきた目と朱実の目が合う。それはすぐに桔平へと転じられたが、一瞬の間に、無価値だと判断されたのが感じられた。
同じ歳くらいだからこそ比較は容易になされる。
愛結は目が大きくて、卵形よりもわずかに丸みを帯びた顔立ちはリスを思わせる。ハイウエストのミニ丈ワンピースに、ほぼ同じ丈のコートを羽織って、ぴかぴかしたエナメルのハイヒールを身に纏っている。同じ女性である朱実から見てもいかにもキュートだ。
比べて自分は、セーターにデニムパンツとなんのお洒落感もない。もとい、こういうのはセンスで、愛結に朱実が着ているものをそっくり渡したら、量販店で買ったものとは思えないくらい、完璧に着こなすだろう。
「桔平、どうしてふたり一緒? 仕事してたよね?」
「どうしてってわかってるだろう。おまえこそ、なんでムラサキと一緒なんだ?」
「おれが誘ったんだ。たまたまエレベーターで乗り合わせた。おまえがいないっていうから、なら一緒に食べようということになった。いま店から出てきたとこだ」
ムラサキは駅の向かい側を指差した。
朱実はムラサキの云い分を聞きながら、違和感を覚えた。
あのパーティ仲間には付き合い方に関して暗黙の、もしくはちゃんとしたルールでもあるのだろうか。桔平は責めるようだし、ムラサキの云い方はルール破りをしたことの弁解に聞こえた。
「あの……約束してたのならごめんなさい。お店を閉めて夕ご飯を食べてるときに岡田さんが来られて、一緒にどうかって誘ってしまったんです」
桔平とムラサキの様子がいびつな一方で、愛結は何がそうしたのか うれしそうだ。それでも、桔平のために謝るべきだと思ってそうすると、彼女にとっては逆効果だったようで、俄に表情に不満がよぎった。
「おれがお邪魔したんだ。朱実ちゃんが謝ることじゃない」
「べつにいいけど。送ってくれるんなら?」
愛結の首がかしいだ。彼女は自分がどう振る舞えば魅力が増すかをよく知っている。上目遣いがもっと目を大きく見せた。媚びているというにはちょっと違う。
愛結は桔平の返事を待たずに朱実のほうを向いた。
「朱実さん、家はどこ?」
「小金井です」
「じゃあ、帰り道は別ね。桔平、まさか遠回りして送っていく気?」
愛結は顎をくいっと上げて挑発的だ。桔平は顔を逸らしながらため息をつき、また彼女へと目を戻す。
「朱実ちゃんとはここで別れるところだった。声をかけられなきゃ、独りで帰ってる」
「よかった。じゃあ、帰りましょ。高階さん、 今日はごちそうさま。朱実さん、またパーティに来てね。さよなら」
愛結は一方的に云うと、さっさと歩きだした。桔平はそれをちらっと見やってから、朱実へとすまなさそうな面持ちを向けた。
「悪いね。わがままなお嬢さんだから」
「いえ……岡田さんの云うとおり、ここでさよならだったから」
桔平は笑みともため息ともつかない吐息をこぼした。
「朱実ちゃん、デートの件はちゃんと前向きに考えてほしいな。じゃあ気をつけて」
桔平はムラサキに、じゃあな、と軽く手を上げると愛結を追っていった。
その背中を無自覚に追った。桔平が愛結に追いつくと同時に彼女は桔平を振り仰いで、しがみつくようにその腕に手を絡める。そのしぐさが、仲間内だからあたりまえのことなのか、朱実にはわからない。
敵わない、叶わない。
同音語を呪文のようにつぶやいた。それは自分に云い聞かせるためで、そうとはわからない程度にくちびるを動かしただけだったが――
「何?」
ふいにムラサキが問いかけて、まだ帰らないでそこにいたのだと気づいた。
「……え?」
顔を向けると、ムラサキは首をひねった。心なしか、その瞳はじっと探るようにも見えたが、朱実が瞬きをした間にその気配は消えていた。
「行こうか。電車で帰るんだろう」
「あ……はい。でも独りで帰れますから」
「同じ方向だから」
ムラサキの言葉を受けて、朱実の頬がかっと火照る。わざわざ送ってくれると勘違いするなんて自分をわきまえていない。敦美が云ったように控えめでいるつもりが、桔平に関心を持たれたとたん、その自戒を放棄していた。
「……すみません」
「なんで謝るんだ?」
ムラサキはわずかに顔をしかめている。
「……すみま……ごめんなさい。癖です」
ムラサキは今度は吹くようにして小さく笑った。
「すみませんもごめんなさいも同じことだろう。朱実さんてどこか人と違うな」
どう受け答えしていいのかわからずまごついていると、行こう、と再度云って、ムラサキは促すように首を傾けた。
喋るのと同じで反応はワンテンポ遅れ、背中を向けられてから朱実は歩きだす。ホームに行くと電車はタイミングよくやってきた。
いざ乗れば、近くにいるべきか離れているべきか、よくわからない。
「ついでだけど、ちゃんと見送るよ」
朱実の戸惑いを察したムラサキは、背中に手を当てて奥の扉の傍へと促した。『ついで』という前置きはおどけて聞こえ、朱実をリラックスさせてくれた。
電車が動きだすと外は暗くなって、ガラス窓に顔が映る。ムラサキとまともに面と向かうのは気まずいけれど、ガラス窓越しに横顔が見えても気にならない。ただ、ガラス窓越しに見ると表情がはっきりせず、雰囲気がつかめなくなる。
「桔平のこと」
ムラサキは唐突に口を開いた。
朱実は桔平の名に反応して、無意識にムラサキを見上げた。
「……岡田さん?」
「そう。ちゃんと見たほうがいい」
どういう意味だろう。肯定的とも否定的とも取れる云い回しだ。
どっちにしてもその忠告は役に立たない。
「わたしは……岡田さんは仕事ができる人だということしかわかりません。それ以上に、わかる必要はないんです」
「けど、きみはパーティに参加した。桔平は簡単に引かないと思う」
やはり意味がわからなかった。
参加したと云い切られるには、少し事情が違う。強引に連れていかれただけだと云い訳はできる。ただしムラサキは、そんな云い訳はどうにもならないと切り捨てそうな云いぶりだ。
引かないという意味もどう解釈していいのかわからない。
朱実にとって、あの集まりは謎だらけだった。
「……わたしにはわからないことばかりだし、世界も違うから」
「きみが云ってるのは生活レベルの違いだろう。見た目の世界に意味ある? 世界は自分のなかにしかない。理解できないのはあたりまえだ。完全に融合する世界観なんて、だれとだれの間であろうと存在しない。生活レベルなんてきみが持つ世界のごく一部にすぎない。そこに価値を置く理由がわからないな。ただ、共有の世界をつくることは可能だ。同じ趣味を持った人が集まるように」
「……ムラサキさんの云ってることが難しいのか簡単なのかもわかりません」
首をかしげ、朱実は目を伏せた。
「正直だ」
その声は、どこかひんやりとして聞こえたさっきよりもずいぶんと砕けて聞こえた。見上げると、口もとはかすかに弧を描いている。
不思議な人だと思う。
何日かまえ、ムラサキが経営するC−BOXを調べてみた。自然言語で対話可能の音声認識システムを独自に開発して特許を得、大成功をおさめた会社だった。個人的にも多額の資産を持っているに違いなく、朱実からすればずっと遠くにいる人なのに、なんだろう、動物的に云えば同じ匂いを感じるというのだろうか、人見知りはしても立場の差を感じない。
それとも、分け隔てをしない、よほどの聖人君子か。
「ムラサキさん……じゃなくて、高階さんでいいんですよね」
云い直すと、ムラサキはわずかに目を見開いた。朱実が云いたいニュアンスを聞きとったようだ。
「ちゃんと名乗ってなかった?」
朱実がうなずくと、ムラサキは自分に呆れたように吐息を漏らす。左手に持っていたビジネスバッグを床に置いて、倒れないよう脚で挟み、それから胸の内ポケットに手を入れた。小さなケースから取りだされた紙が差しだされた。名刺だった。
『高階紫己』と記されている。
「ムラサキってこんなふうに書くんですね」
感心して云いながら顔を上げると、今度はじっと見下ろされていた。
「……ああ」
その返事は答えるまでに時間がいった。
ふと逸れた視線は、そっぽを向かれたように感じた。感じるだけでなく、実際に朱実が降りる駅に到着するまで、紫己はひと言も口を開かず、目を向けることさえしなかった。
いざ降りるときに挨拶をするべきなのかどうか迷う。それくらい無視した気配で、いまの紫己は聖人君子に程遠い。
「……お疲れさまでした」
電車の扉が開く寸前、無視されてもいいようにつぶやくように云うと、外に向けていた目が朱実に戻る。
「ああ。気をつけて」
その声音は、さっきまでの沈黙は無視ではなくただの沈黙で、けして冷戦ではなかったと保証をもらえたように何気なく聞こえた。
発車するまで、乗降する人の邪魔にならないように扉の近くにとどまった。その間、今度は朱実から視線がずれることもない。
扉が閉まり、朱実は慌てて一礼した。紫己がどう反応したかは見えなかった。