NEXTBACKDOOR|タブーの螺旋〜Dirty love〜

第5章 いちばん近くていちばん遠い“愛してる”

#1

「本当にやめてしまうの?」
 帰り際、店長の財前は手にした退職届から目を上げると、環和を見てため息をついた。
「奥沢京香には変わらずごひいきにお願いしますってちゃんと伝えますから」
 それを心配したのだろうと思って環和が云ってみると、財前は信用していないのか、いつも皮膚がぴんと張った丸出しの額にしわが寄るくらい顔をしかめた。
「水谷さん、新人なのに売上がいいから期待してたのよ。似合う似合わないって面と向かってはっきり云いすぎるし、お客さんに自分の主観を押しつけてハラハラしてたけど、そういう人ほどリピート多くなったのよね」
 褒められたのか貶されたのか微妙なところだが、認めてもらっていたとわかると環和はうれしさ混じりで驚いた。

「店長、新人て、わたし二年めですよ」
 照れ隠しに突っこみどころを探してしまうのは環和の性(さが)だ。それを承知している財前はお手上げといったふうに目をくるりとさせる。アメリカ人ぽく手を広げながら肩をすくめるというオーバージェスチャー付きだ。
「十年勤続のわたしからしたら充分新人よ。安西さんと結婚なんていまだにぴんと来ないんだけど、経済的に心配することないし、働く必要はないわね」
 結婚に加えて妊娠していることを報告したとき、財前はあんぐりと口を開くほど驚いていた。
 会ってから半年もたっていないことをあらためて考えると自分でも驚くけれど、それ以上にずいぶんとずっと一緒にいた気になっている。

「店長、いまからって期待してもらっていたんだったら申し訳ないです。でも、おなかの大きい売り子って難しいですよね。異動になっても、仕事憶えたらすぐ産休ってなっちゃいそうだし、この際だから安西さんの仕事を手伝おうかと思って」
「四六時中、夫と一緒なんて、うらやましいのかどうか微妙な感じするけど、子育てするにはいい環境だものね。じゃあ、上に報告しておくわね」
「はい、よろしくお願いします」
 お疲れさまです、と労いの言葉を交わして環和はミニョンを出た。

 ビルを出ると環和はいったん立ち止まり、気持ちを切り替えるようにすぐまた踏みだした。
 昨日、美帆子から大阪から帰ったという連絡があった。響生と美帆子が会うのはなんとなく今夜だろうと思っていたのに、今日の午後になって響生からメッセージが入った。今夜、仕事が終わったら環和のマンションに来ると云う。つまり、もう美帆子と会って話したということに違いない。
 環和が仕事中かもしれないと思って用件だけのメッセージですませたのだろうが、文面からは響生の感情が見えなくて、安心するには至らない。たぶん、響生とのことに加えて、秀朗と血が繋がっていないことと写真のことが心底に燻(くすぶ)っているからだろう。それに、響生との話がどうだったのか、美帆子から何も云ってくることはなく、その沈黙の意味もよくわからない。

 響生の声を聞きたいのはやまやまだけれど、ぐちゃぐちゃした感情が堰(せき)を切って溢れそうで、帰宅時間はメッセージで知らせた。そう考えたら、響生も同じ気持ちでメッセージを送ったのかもしれないとも思う。
 うまくいくと信じながらも、やっと会えるとなればかえって不安になる。そんな矛盾から解放されたいがために、結婚が決まったら出そうと思ってバッグに入れていた退職届を財前に渡した。願掛けみたいなものだ。
 きっと大丈夫。
 環和は自分に云い聞かせて帰途についた。

 マンションに着くと、コンシェルジュに響生が来たら通すように伝えてエレベーターに乗った。思いがけなく京香から電話があったのは、最上階で止まったエレベーターから降りたときだ。
『環和ちゃん、いまいい?』
 もうすぐ響生が来るだろうから本当は断りたいところだが、長話をするような仲でもない。
「……かまいませんけど……」
『このまえ日東テレビで会ったじゃない? 水谷専務がお父さんてことは、年齢的に考えて環和ちゃんのお母さんてもしかして真野美帆子なの?』
 それがなんだというのだろう。環和はため息を押し殺した。

「……一緒には暮らしてませんけど」
 美帆子はなぜ否定しなかったのかと怒るかもしれないが、有名な女優同士だ、認めたところで害にはならないだろう。そう判断して、環和は遠回しに答えた。
『そうなんだぁ。こういうの、巡り合わせっていうのかな。ありがとう、環和ちゃん、またね』
 京香は独り合点して、環和がさよならと云うのも待たずに電話を切った。
 どういうことだろう。
 困惑したまま、環和は家に入った。バッグをソファに置いたと同時に、ドアホンが鳴った。雷が落ちたように飛びあがりそうになった。直後には、モニターで訪問者を確認することなく、環和は玄関に急いだ。

 とりあえずサンダルを履いてドアの前に行き、鍵に手を伸ばす。施錠を解く手がふるえた。慣れたことに手間取るくらい、環和の中に不安でも怖さでもない期待が溢れてきた。
 ドアを開けると、間違いなくそこにいるのは響生だった。たった一週間会っていないだけで長く会えなかった気がするのは、ふたりの関係がずっと近くなったからだろうか。
 響生、と名を呼ぶことすら忘れてその姿に見入った。
 すると、いままで見たことのない気配を感じた。目と目が合い、そこには笑みもからかいもない。あるのはなんだろう。

「入らせてくれ」
 響生は首をひねり、要求する。
 環和はこっくりとうなずいて後ずさった。響生が入ってきたとたん、抑えきれなくなった気持ちはドアが閉まった音を合図にして環和を突き動かした。
「響生……」
 環和はつぶやきながら躰をぶつけるようにして響生に抱きつく。煙草の香りが鼻腔をくすぐり、環和に纏わりついた。
「環和」
「うん」
「おれと別れてほしい」
 ほっとして響生に寄りかかった躰が一瞬にして強張る。
 要求する、とさっき感じたとおり響生にあるのは、環和に会ったうれしさでも、期待に応えようとする頼もしさでもなかった。

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