NEXTBACKDOOR|タブーの螺旋〜Dirty love〜

第3章 恋は刹那の嵐のようで

#17

    *

 いろいろ考えないとな。
 午前中に行った産婦人科で、『赤ちゃん、いますね』とドクターにお墨付きをもらってから開口一番、響生がつぶやいたことだ。
 その声には微笑を連れた喜びと、なんだろう――例えば、大きな翼で囲って風から守る、そんな慈しむような響きが感じられた。秀朗がいなくなってから、ずっと遠ざかっていた感覚だ。
 病院は二週間後にまた来るように云われた。その頃には母子手帳も発行できるらしい。
 そのまえに婚姻届を出したほうがいいだろうな。
 と、それは考えることのうちの一つだったのか、響生は独り言のように云った。
 二週間後には“安西環和”になっているのだろうか。環和は実感が湧かないままも、漠然とそのことを考えてしまう。

 夕方になっても頬が緩むことはしばしば、環和はうわの空だったのだろう、夕食の用意でミートスパゲティ用に玉ねぎをみじん切りしていると――
「バルサミコ酢の匂いね。それとオリーブオイル。お料理なんて真面目にやってるの?」
 施錠をものともせず無遠慮に侵入してきたのは母、美帆子に違いなく、環和は包丁で指を切りそうになった。
 ぱっと顔を上げると、美帆子はつかつかとリビングからキッチンへとやってくる。長い栗色の髪を片側に寄せてふわふわと胸もとに垂らし、白いパンツスーツにきっちりメイクと、娘の前でも隙がない。
「お料理くらいするよ。ママみたいに忙しくないし」
 美帆子は眉を跳ねあげた。やさしい母親役から悪女、そして極道の妻の役までやりこなすが、いまは極妻ふうだろうか。

「……“美帆子さん”みたいに忙しくないし」
 云い直すと、口角が薄気味悪いほど弧を描いて悪女になった。
「わたしの子でラッキーなはずよ。働く必要もないのに、わざわざ客にへつらう仕事をするなんて」
 意味がわからないわ、と美帆子は大げさに肩をすくめた。このところ舞台公演ばかりで、その名残だろうか。
「いつも流行のお洋服に囲まれてるってことに幸せを感じてるだけ。美帆子さんだって女優が好きだから忙しくてもいいんでしょ? 同じことだよ」
 ――と、環和は云いながら、美帆子もまた仕事中毒で野心家だと気づいた。

 美帆子の実家、真宮(まみや)家は広島にあり、いまでこそ美帆子のおかげで都市部の立派なマンションに住んでいるけれど、昔の写真を見せてもらうかぎり、田舎の一軒家だった。昔話は美帆子から口止めされているらしいが、環和はこっそり聞かせてもらったことがあるし、学生の頃の美帆子の写真も見せてもらった。
 真宮家は食べるものに困るほど貧乏ではないが、贅沢には縁遠かったという。それに、セーラー服を着た美帆子は同じ年頃だった環和とそっくりだった。それなのに、いまは別人みたいに全然違う。メイクだけのせいじゃない。
 一人娘の美帆子は高校を卒業して東京に出たそうだが、祖母は会うたびに美帆子の顔が違ったと、環和に打ち明けるときも戸惑っていた。

「確かに女優業はわたしの天職よ。でも……」
 美帆子は環和をじっと見る。キッチンのカウンター越しでなかったら、頭の天辺から爪先まで見回しているんじゃないか。そんなしつこい視線だ。何を云いたいかはなんとなく察せられた。
「“でも”、何? わたしの仕事は美帆子さんみたいに夢を与える仕事じゃないって云いたいの? だとしたら、それ間違ってるから。多くの女性は年代関係なく、ファッション一つで一日ハッピーでいられたりするの。女優さんになって、人からプロデュースされた新しいものばっかり着ることに慣れて、美帆子さんはそういう感覚が鈍くなってるだけだから」
 美帆子は目を見開く。驚いたのか、その振りなのか、そして――
「……一端の売り子になったわね」
 と、褒めたのか皮肉なのか、環和には判断がつかない。

「ミニョンはもう二年めだから。美帆子さん、地方公演は終わったの?」
「福岡から帰ったばかりだけど、あさってには大阪に行くわ」
「ふーん。それで、今日は何か用事?」
「一カ月ぶりに娘の顔を見にきただけよ。用事が必要かしら」
 ママと呼ぶのを嫌うくせにこの云い分だ。
「じゃあ、見たからもういいでしょ」
 その言葉は意に反したようで、美帆子は眉間にしわを寄せると、カウンター越しに環和の手もとを見た。
「それ、何を作るの?」
 美帆子はカットした野菜の入ったメッシュザルを指差した。

「温野菜のサラダ」
「それでドレッシングがわりのバルサミコ酢なのね。でも、量が多くない?」
「……二人分だから。美帆子さんのぶんじゃない」
 作り置きしているだけだと答えてもよかったが、どうせ二週間のうちにわかることだと思って、環和は二人分だと正直に打ち明けた。遠回しに帰ってほしいと云ったのは伝わっただろう。美帆子は探るような眼差しになって首をかしげる。
「だれが来るの? 男?」
「ちゃんと紹介するから、今日は帰ってくれない?」
「準備しないとわたしに会わせられないような人なの?」
 こういうところは母親らしく気になるのか、屁理屈のようなことを口にした。

「そんなことないけど……美帆子さんはわたしが娘だってこと、むやみに人に知られたくないんじゃなかった?」
「今日は親戚だって云えばいいわ。わたしのぶんも用意してちょうだい」
 美帆子は強引に云い、キッチンに入ってくる。ウォーターサーバーからコップに水を注ぐと、料理の匂いを台無しにするような香水の香りをぷんぷんさせて出ていった。動向を見守っていると、美帆子はリビングのソファに腰をおろし、そうしてテレビの電源を入れ、有料チャンネルに変えて映画を見だす。
 環和はため息をついた。美帆子がそうするときの常で、とりあえず映画が終わるまでの静けさは保証された。

 カウンターに手を伸ばしてスマホを取りあげ、サイレントモードにしたあと、環和は素早く響生にメッセージを送った。
 響生は午後の仕事をすませてからここに来ることになっている。いろいろ考えるべきことを話し合うはずだった。
『ママが来てる』
 玉ねぎのみじん切りを再開しながら返信を待っていると、切り終わったときにちょうど何かしら反応を知らせるランプが点滅する。
『わかった』
 たったそれだけの返事だ。どう解釈すべきなのか。

『会うのは明日にしない?』
『お母さんに会わせたくないのか』
 響生はまるで会う気満々だ。確かに、環和の言葉を悪いように取ればそうなるだろう。
『そうじゃなくて。ママ、容赦ないところあると思うから』
 正直、付き合っている人だと男性を紹介するのははじめてで、美帆子が響生を目の前にしてどういった反応を示すのか、まったく見当がつかない。
『理不尽な人間がいることには慣れてる』
『わかった。ママは親戚の伯母だって自己紹介するかも。じゃあ気をつけて来てね』
『OK』
 響生が本当のところどう思っているのか、少なくとも環和は頼もしく感じて安堵した。

 娘が料理をして、年寄りでもない母親はソファでテレビを見ながらくつろぐという、いっぷう変わった時間がすぎた。ミートスパゲティを三つ用意して、温野菜が仕上がる寸前にコンシェルジュから響生の到着を知らされる。まもなくドアホンが鳴って、環和は玄関に向かった。リビングを通るとき、美帆子が、やっと来たわね、と云いたそうにちらりと視線を向けた。

「お疲れさま」
 玄関のドアを開けるなり声をかけると、ああ、と応じた響生は首を傾けた。
「まだ何も話してない」
 環和が無言の問いに答えると、響生は身をかがめた。
「面倒くさいって感じだな」
 耳もとで囁くように云い、顔を上げた響生は可笑しそうにくちびるを歪めてみせた。
「ママを見て驚かないで、ってだけ云っておく」
 環和も声を潜めて云ったあと、入って、と響生を促した。

 響生が落ち着いていようと環和の緊張は完全には防げない。
「美帆子さん、お待ちかねの人が来たよ」
 呼びかけてやっと振り向くあたり、響生にプレッシャーをかけているつもりだろうか。
 美帆子は立ちあがると優雅な様で振り向いた。同時に――
「こんばんは。はじめまして、安西響生と云います……」
 と云いながら一礼をしかけた響生の言葉尻は曖昧になった。
 息を呑んだように感じたのは気のせいか。
「響生……」
 声をかけながら見上げた響生の顔はいつになく強張って、緊張すら感じとれた。
 そうして。
「環和、あなたが付き合ってるのはこの男なの?」
 きっとした声が質問を投げかけた。なぜこんな蔑むような云い方をするのだろう。

「ママ……」
「この男はだめよ。安西さん、帰ってちょうだい。今後一切、娘に近づかないで」
「ママ!」
 環和は訳もわからず、ただ引き離されそうだという予感だけを察して悲鳴まがいで叫ぶ。一方で、環和はかばうように、そして縋るように響生の腕にしがみついた。
「環和、いい」
 響生は環和とは逆に冷静で、自分に縋りつく腕を離す。玄関でしたように身をかがめた響生は、あとで話そう、と耳もとに囁き――
「失礼します」
 と、美帆子に頭を下げてリビングを出ていった。

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