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DOOR|タブーの螺旋〜Dirty love〜
第2章 不可視の類似
#7
*
水が嫌い。
厳密に云えば、飲むためだったり歯を磨いたり洗濯をするためだったり、それらは気にならない。顔や髪を洗うとか、シャワーを浴びるとか、それらはやりすごせる。小雨くらいなら我慢できる。
けれど、バスタブの中に浸かるのは嫌いで、ずぶ濡れになるほど雨に打たれるのも嫌いだ。天気予報はチェックしているし、雨の予報が出ればせめて晴雨兼用の折り畳み傘を携帯する。
そんなふうに環和にとって必需品の傘は、響生の家にも常備している。そうしていいかと訊ねたとき怪訝そうにした響生に、濡れるのが嫌いだからと云えば、邪魔だと一蹴することもなく妙に納得した気配で肩をすくめていた。
それなのに、春の天気が移ろいやすいことも忘れて、あまつさえ暗くなった空のもと雨が降りそうな曇が垂れこめていることにも気づかず油断していた。友樹に焚きつけられて、違うことに気を取られていたことも、きっと見逃した理由の一つだ。
メニューを考えながらスーパーのなかを一巡し、買い物を終えて外に出ると雨が降っていた。しばらく待ってみたもののひどくなるばかりで、どうしようもない。響生に連絡しようかと思ったけれど、不機嫌な以上、仕事の邪魔をする気にはなれなかった。
好きとか恋とか、そんな感情はなくていい。でも、嫌われるなんてごめんだ。
環和は意を決して、雨の中に飛びだした――が、走るにはスーパーの買い物袋を手にして身軽とはいかない。急ぎ足で響生の家に向かった。
たどり着くまでにスーパーの袋の中にも雨が入りこみ、指先が千切れそうに痛い。環和は門扉の前に立ち止まった。卵が入っているから雑に扱うわけにもいかず、アスファルトの上にそっとスーパーの袋を置いた。痺れて感覚が鈍くなった指先でインターホンのボタンを押した。
無視されないように。祈るような気持ちで待っていると、プツッと通じた機械音がして環和は一気に力尽きた。
「響生、開けて!」
叫んだ自分の声は惨めったらしく聞こえた。モニターに環和はどんなふうに映ったのか。
「何やってる?!」
そんな怒鳴るような言葉が雨音に紛れて聞こえた。それからさきがない。ただ、ロックが解錠された音はした。
やっとの力で門扉を押しているとき、アイアンの柵のすき間から奥のほうにちらつく人影を捉えた。雨がひどくてじっと目を開けてはいられず、環和は瞬きをする。その一瞬に、傘を差して駆けてくるのが響生だと把握した。
その姿が慌てふためいているように見えるのは気のせいか、環和はずぶ濡れといういまの不快極まりない状況を忘れるほど立ち尽くしてしまい、響生を待った。
すぐ傍に来た響生は無言のまま、ぐいっと一気に門扉を開け、環和はすかされる。転びそうになったところを響生が腕をつかんで防いだ。
「ありがと……」
見上げた響生は息も荒く、目は睨(ね)めつけるようで、環和はお礼の言葉も尻切れになって身をすくめる。
「行くぞ」
いまにも怒鳴りそうだと思ったけれどそうはせず、かわりに響生は環和の腕を乱暴につかんで傘の中に引っ張りこんだ。
されるがまま、ついていきかけたのもつかの間。
「待って!」
環和が引き止めると、響生は立ち止まって眉をひそめる。
「なんだ」
響生に答えるまえに急いで閉まりそうな門扉の向こうに行く。スーパーの袋を持ちあげて振り向くと、門扉を支えている響生の傘の中に戻った。
「指が千切れそう」
「なんなんだ」
きっと迎えに出てくれたに違いなく、加えて、スーパーの袋を環和から取りあげるようなやさしさはあるのに、声はまったく不機嫌に徹していた。