ふぃるふぃーる-恋愛短編集-

キミは特別


 全国各地にある西城(せいじょう)ゼミナールは春期講習の開講を来週に控え、(にわ)かに慌ただしい。都内にある一ゼミの事務室でも、事務職員たちが申込書類の整理をしたりテキストの数を再確認したりと、忙しい様子で椅子に座るまもなく動き回っている。
 その邪魔をしないように、書棚に納まっている新規のリストのファイルを手に取った。
 講師の欄にある自分の名、“西宮律成(りつなり)”を探しだし、その下に並んだ名前を見ていると、背後のほうで、ゼミの玄関口にある事務室のガラス戸が開く音がした。

「あの……すみません」
 おずおずとした、明らかに少女である声が事務室内に届いた。
 声は低くもなく高くもなく、どこまでも通るような図太い声でもなく、かといって透き通るような声でもない。ただ、かまいたくなる気にさせられる。例えるなら、桜のような声。
 そこまで考えると、あまりにロマンティスト的な比喩をしたと気づき、おれらしくない、と自分で自分を笑った。
 それでも――おれの仕事ではないし、こういう場面に遭遇してもいつもは人に任せっきりのはずが――桜色の声に引き寄せられるように振り向いた。
 ちょっとしたその動作に気づいたように、ガラス戸の向こうから少女の目がおれを向いた。受付は出窓のようになっていて、見えるのは彼女の胸から上の部分だけだが、見覚えのある制服から高校生だと見当をつけた。
 目が合うと、彼女は戸惑ったようにいったん目を伏せ、そしてまた上向いたときは違う方向に行ってしまっていた。
「はい」
 古くからいる事務職員の貝田さんが、ワンテンポ以上ずれて彼女の呼びかけに応じた。
 彼女はほっとした様子で息を吐く――と、次の瞬間、その顔に微笑みが広がった。
 三分(さんぶ)咲き。ふと思って、またおれは内心で笑う。
「あの、電話していた加住里音(かすみりね)です。入校を申し込みたいんですけど、そのまえに見学させてもらえるって聞いて……」
 (せわ)しさが伝わっているのか、彼女は遠慮がちだ。
「どうぞ。ちょっとそちらでお待ちになってくださいね」
 貝田さんはその職の名のとおり事務的に云いながら、手のひらを上に向けて、廊下を挟んで反対側にある待合のスペースを指し示した。
「はい。ありがとうございます」
 礼儀正しくそう云うと、彼女は軽くおじぎをして背中を向けた。
 貝田さんはガラス戸を閉めると、自分の机の上を見つめて、どうしようかといったふうにため息を吐いた。ほかの職員を眺めても誰もが一様に忙しそうにしている。どうやら自分がしなければと観念したようで、彼女はまた息を吐いた。

「僕が行きましょうか」
 職員たちの多忙を見かねたのか、興味という気まぐれか、おれは、“淡々と穏やかに”という、そんな内々の訓示のもと申し出た。椅子から立ち上がると同時に、貝田さんは条件反射のように手のひらをおれに向けて、待ったをかける。
「いえ、オーナー代理――西宮先生に出ていただくなんてとんでもないです。私たちの仕事ですから――」
 貝田さんはよほど慌てたんだろう、ここでは禁句となっている立場を口にしたところで、おれの無言の制止を受け、それは云い直された。
 このゼミ内に限っていえば、おれの本職を知っているのは校長と経理職員と、この貝田さんくらいだ。
「大丈夫ですよ。本来、授業中ですし、それがキャンセルになっただけのことで、休憩するためにここにいるわけではありませんから」
「でも」
「研修の一環ですから」
 貝田さんの傍に立ち止まり、おれはそう囁いた。添えた理由がなぐさめになったようで、よろしくお願いします、と恐縮して彼女は頭を下げた。

 事務室を出ると、気配を察したらしい彼女、加住里音がこっちを向いた。
 顔立ちはやはり桜をイメージさせるような、おとなしい印象を受けるが、けっして影が薄いということはなく、むしろ今時の高校生と並べると目を惹くのではないかと思う。
 肩までのまっすぐな髪をかすかに揺らして会釈をしたあと、案内するのがおれだとは思ってもいないようで、加住里音はまた手もとに目を戻した。いまふうに携帯電話を手にして(いじ)っているかと思えば、手には何も持っていない。
 緊張しているのかもしれない。その手は落ち着きなく指先を反対の手でつまんだり、握り直したりと、それが何度も繰り返される。
 さながら、迎えにきてくれるのを待ちわびている迷子のようだ。
 その光景に、なんとなくおれは未来の予想図を思い浮かべた。
 “捜索者”がいなければ“迷子”という立場は成り立たない。
 そんなことを思っていると、またふと彼女の目が上向く。変わらずおれがここにいること、はたまた目が合ったことに驚いたのか、その黒眼(くろまなこ)が丸見えになった。
 近づいて待合室の入り口に立つと、加住里音はわずかに身を引く。
 すがりつくように見える眼差しは気のせいか、やっぱり迷子のようだ。
「加住里音さん」
 ちゃんとキミのことは知っているよ、そう云うかわりにおれは安心させるように名を呼んだ。
「は、はいっ」
「案内しますよ。どうぞ」
「はい。ありがとうございます」
 加住里音は反射的に立ちあがり、強張った面持ちで一礼した。

「何年生?」
 廊下を奥へと行きながら、彼女の緊張を解くべく、ごく無難な質問をした。
「今度、高三です」
「一人で申し込みですか?」
「あ、母がもう少ししたら来ると思います。学校帰りにここで待ち合わせしてるんです」
 その言葉に足を止めると、二歩くらい後ろをついてきていた彼女がおれにぶつかりそうになり、寸前で立ち止まった。びっくり眼がほんの真下にある。
「じゃあ、案内はお母さんを待ったほうがいいですね」
 そう云うと、加住里音は考えこむように視線をさまよわせる。それから結論が出たのか、まっすぐにおれを見上げてきた。
「どっちにしても選ぶのはあたし次第になるからいいんです」
「それなら僕は責任重大ということですか」
 いま加住里音の表情は五分咲きだろうか。彼女から緊張が感じられなくなった。
「じゃ、続けましょう」
 とはいえ、ゼミ内の案内は個別指導の部屋の場所のみで、ネームプレートを確認することしか特に注意することはない。とりあえず、おれ専用の指導室に招くと、彼女はものめずらしそうに見渡していた。
 室内はそう無機質でもなく、おれのジャケットが壁にかけられていたり、書き散らかしたカレンダーや花があったり、アットホーム的な演出がなされている。
「もっと“勉強!”って感じかと思ってました」
 おれのデスクの奥に取りつけられた本棚を眺めながら、西城ゼミの思惑にはまり、加住里音はうれしそうに云った。
「頭も気分も、緊張の中で勉強するよりリラックスしたほうが効率的ですよ。どうです?」
「え?」
「選べそうですか」
 ゼミ前の通りに植樹された桜は、咲いたというにはまだまだだが、目の前では、いままた、ちょっと早い八分咲きの笑みが見られた。
「はい」
「よかった」
 迷子をなぐさめるようにその頭に手を載せた。その行為が思いがけないのは、彼女と同じく、おれ自身もそうだ。

 どういうことだろう。
 自分でも不可解で首をひねると、鏡のように彼女までもが首をかしげた。
 可愛いな。
 不覚だ。
 同時にそんなことを内心でつぶやいた。

「こ、ここ、数学の先生の部屋なんですね」
 彼女も我に返ったらしく、口ごもりながらどうでもいいことを話題にした。
「そうですよ」
「数学ってちょっと苦手なんです」
 加住里音は申し訳なさそうに打ち明けた。
「もしかして、数学の先生に嫌いな人がいませんでしたか」
 彼女はちょっと考えこむように眉をひそめる。
「苦手な先生ならいたかも」
 控えめな云い方は彼女らしい。ろくに知らない――それどころか、はじめて会ったというのにそんなことを思う。
 どうかしている。
「教科の好き嫌いはそういうことからも苦手意識が出るらしいですよ。だから、今後一年、なるべく教師を嫌わないことです」
 おもしろがった表情で彼女がこっくりとうなずいた。
 それから指導室を出ると、加住里音はドアプレートの名前を見やった。
「西宮、律成?」
「はい」
 返事をすると、加住里音は驚いたようにおれを見上げた。
「も、もしかして先生ですか!?」
 何を思ったのか、素っ頓狂な声で疑問をぶつけ、彼女の視線がおれの頭から足先まで、そしてまた頭へと戻ってきた。
「もしかしないでも、僕はこの指導室の担当ですよ」
 おれが答えると、彼女は自分のしぐさがぶしつけだったことに気づいたように顔を赤らめた。
「先生って思わなくて……」

 それなら、何者だと思っていたのか。
 たしかに、おれにとって塾講師は“研修”であって本業ではなく、真剣みが足りない曖昧なおれの姿勢を彼女は見抜いているのかもしれない。
 おとなしく見えても、けっしてそうじゃない。母親がいなくても緊張していても、迷子のように心許(こころもと)なくしていても、加住里音は自分で行動できる、つまりは考える力を持っている。即ち、侮れない。

「それでは証明しましょうか」
「え?」
「加住里音さん、キミの数学の担当をさせてもらいますよ。どうでしょう?」
「あ、あたしはいいです」
 焦ったように答えた彼女の真意もまた曖昧だ。
「“いい”とは、だめってことですか?」
「いえ、受け持ってもらえたらって思います」
 本心かどうかはともかく、慌てふためいて云い直された答えに満足を覚える。
「では、そういうことで」
「あの……担当の先生ってこんなふうに簡単に決まるんですか」
「この塾で重視されるのはフィーリングですよ。さっき云ったように、苦手意識を持ったらうまく進むものも進まない。申し出すれば、交代はいつでも可能です。ですから、僕ではだめだと思ったら遠慮なく事務室に云ってください」
 彼女は素直にうなずいた。
「けど、加住里音さん」
「はい?」
「数学を好きにさせてみせますよ」

 とどのつまり、数学に関するかぎり、交代は不可能。キミは特別に。
 おれを動かしたのは、気まぐれじゃなく、桜につく魔物の仕業か。
 不可解な感情を隅に押しのけ、内心で宣言すると同時に――。


 目の前の桜が満開に綻んだ。

− The End. − Many thanks for reading.

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