ふぃるふぃーる-恋愛短編集-

レインクラップ


 太陽って燃えてるんだ。
 あらためてそう思う八月。一年前。
 突然、五才年の離れたお姉ちゃんが消えた。

 もともと気まぐれで、やさしいかと思えば拗ねたように不機嫌なお姉ちゃんだったけれど。
 高校に入学して、新しいブレザーの制服がうれしそうで、それよりは、(つかさ)くんと一緒に通えることのほうが楽しかったみたいだ。
 司くんは近所に住む従兄で、お姉ちゃんより二つ年上。司くんは中学から高校までずっと水泳部に所属していたせいか、大学生になったいまも褐色の肌をしている。
 お姉ちゃんに云わせれば“カッコいい”んだって。

 あたしはカッコいいということなんかどうでもいい。
 司くんはやさしくて、いろんなことを知っていて、いつもあたしを笑わせてくれる。
 お姉ちゃんがうらやましかった。司くんといる時間はお姉ちゃんのほうが断然長かったから。
 (なま)けてたのはお姉ちゃんなのに、高校受験だからって家庭教師までしてもらうなんてずるい。

 あたしも受験するときは絶対に家庭教師やってもらおう。
 と云っても、あたしは高校受験てできるのかな。

 あたしは躰が弱い。“めんえき”という力が極端にお仕事してくれない躰なんだって。
 例えば、冬になれば、ちょっとしたつむじ風が吹くだけで風邪ひいたり。
 だから家にいることも少なくて、ひょっとしたら、あたしにとってはこの病室を“家”と呼んだほうがいいかもしれない。
 いま六年生だけど、たぶん入学してから合わせて一年も行ってない。

 そんなあたしに比べたら、お姉ちゃんはずっと元気で、やっぱりうらやましい。
 雨が大好きで、夏のいきなり雨は大、大好きで、わざとずぶ濡れになってママに怒られたっていつも云ってた。

 そんな嵐のような一瞬の雨の日。お姉ちゃんは消えた。
 どうしていなくなったんだろう。
 お姉ちゃんは司くんのことが大好きだったはずなのに。
 会えなくてもかまわないくらい、消えちゃいたいくらいに、すごく嫌なことがあったのかな。

 また(めぐ)ってきた、窓からのぞく夏はやっぱり暑そうだ。
 『そうだ』というのは、あたしはお姉ちゃんがいなくなってから一年、病院を出ていないから。暑い、のも、寒い、のもどういう感覚なのか忘れかけている。

「実花、手が動いてない」

 突然、あたしは鼻をつままれた。司くんが鉛筆で軽く叩いた場所を見下ろした。
 病室のベッドの上に小さなテーブルを置いて、あたしは問題集をやってたはずなのに、五問まで進んでいつのまにか止まっている。

 最近、あたしはこんなふうに上の空のことが多い。
 もしかしたら、ママがいつか云ったように、天使さんがそろそろあたしのところに降りてきているのかもしれない。
 ずっとまえ、ママも見たことのない天使さんを、あたしのほうが早く見られるんだってこと、うれしい、って云ったらママは泣きそうな顔で笑った。
 あとはやりたいことをできたらいい。それだけでいいんだよ。たぶん。

 やりたいことというよりはやってもらいたかったこと。司くんの家庭教師。その夢は叶った。お姉ちゃんがいなくなったから。
 教えてくれるのが、国語でも算数でも理科でも社会でもなく、英語、というのがよくわからないけど。
 でも、前に見た六年生の問題集って、大げさに云えば目をつむってもできるくらいに簡単だった。あたしって頭がいい。
 なぜか英語だけ、お姉ちゃんが悪戦苦闘していたのと一緒で苦手らしい。
 それはともかく、小学生で英語ってここまで習う必要がある? と思うくらい難しいんだけど、そう云ったら司くんに(にら)まれた。

「早くしろよ」
「だってわかんないよ。書いてある字を読まないとか、だったらこの字、付けなきゃいいのに」

 文句を云うと、司くんは怖いくらいに目を細くして、眉の間にはしわまで寄ってる。
 お姉ちゃんがいなくなって、司くんはちょっとやさしくない。

 司くんとの時間は増えた。
 でも、うれしくない。
 やさしくないから、じゃなくて。

千夏(ちか)、そんなこと云うから覚えられないんだろ」

 ほら。云い間違えた。

「あたしはお姉ちゃんじゃない」

 司くんは泣きそうって勘違いするくらいに顔をゆがめた。

 お姉ちゃんが司くんのことを大好きだったように、司くんもお姉ちゃんが大好きだったんだ。
 ううん。だった、じゃなくて、いまも大好きで。
 お姉ちゃんがいなくなってはじめてそうわかった。

 お姉ちゃんがいなかったら。

 ずっとそう思ってた。
 あたしはわからなくなった。
 あたしのやりたいことってなんなのかな。

 明日は、夏が大好きだったお姉ちゃんがいなくなった日。


  * * *


 大学が長い夏休みに入って習慣になったこと。司くんは、午後になって変わらずやって来た。
 お姉ちゃんがいなくなった日の今日、いつもと違う感じがした。

「実花、外に出ないか?」
 勉強の最中なのに、司くんは窓の外を見ながらあたしを誘った。
「でも……」

 司くんは、でも“何か”はわかっているはずで、あたしははっきり云わないまま、つられて窓の外に目を向けた。
 夏にありがちな天気の変化。
 ブルーハワイのフラッペみたいな空が嵐色の空に襲われているのが見えると、あたしは信じられない気持ちで司くんを見た。

「あたし、雨に濡れたらだめなんだよ?」

 そう云うと、司くんはなんだかつらそうに顔をゆがめた。名前を云い間違えたと気づいたときの顔と似ている。

「……知ってる」

 司くんはふりしぼるように云った。

「あたし、雨は嫌い」
「わかってる」
「お姉ちゃんが無理やり連れてくから、去年はたいへんだったんだよ」
「千夏だけのせいじゃない。おれのせいでもあるだろ」

 あたしは答えなかった。
 あたしも司くんも不自然に黙りこんでしまった。

 そのうち、大嫌いな嵐がやってきた。
 窓に雨粒が線を描く。
 雨が音を立てはじめた。

「司くん、カーテン閉めてよ!」
 あたしは耳をふさいで叫んだ。
 いつもはすぐにそうしてくれるのに、いつまでたっても司くんは椅子に座ったままでいる。
「司くん!」

 “司兄ちゃん”にかわって、いつのまにかお姉ちゃんの呼び方が身についたあたし。

 司くんはやっと立ちあがった。
 けれど、窓際に行くでもなく、あたしはベッドからいきなり持ちあげられた。

「司くん?!」
「もういい。充分だろ」
 司くんは意味不明のことを云った。
「司くん、どこ行くの?!」

 荷物を持つみたいにあたしを抱えたまま、司くんは病院の廊下を足早に歩き、どんどん進んでいく。
 引き止められないうちに、雨音が盛大に鳴った。
 外へと出るドアが開いたのだ。
 そうわかって、あたしは暴れた。

「雨、嫌い!」
「嫌いじゃなかったはずだ」
「あたし、死んじゃう!」

 思いっきり抵抗しても、何か決心があるらしい司くんはかまわずに嵐の中に足を踏みだした。
 雨粒が痛いくらいに躰を包み、一瞬でプールに落ちたみたいに濡れた。

「おまえは死なない」

 そう云ってあたしは裸足のまま、その場におろされた。

「死んだのは、実花、だ」

「違うっ!」
「違わない」

 あたしは信じられない思いで司くんを見上げた。
 あたしはこんなにちっちゃくて、実花じゃない、はずない。

「どうしてなの?」
「千夏、もういいだろ。実花は喜んでたよ。楽しかったって」

「違う。お姉ちゃんなんて大嫌い! いっつも元気で、自由で、あたしが雨に濡れちゃいけないって知ってたのに、無理やりつれていって。きっと、あたしにいなくなってほしかったんだよ!」

 叫ぶ声さえかき消されそうな雨の中、司くんの髪から絶え間なく雨が伝い流れている。司くんは雨粒を避けるように目を細くしてあたしをじっと見つめる。

「それは実花の気持ちじゃない」

「司くんと一緒にいられるくせに、ママを独占するからって、お姉ちゃんはあたしがいなくなればいいと思ってたんだから。だから、あたしも、お姉ちゃんいなくなれってお願いしたの!」

「それも実花の気持ちとは違う」
 司くんはつと、あたしを通り越して遥か遠くを見るような眼差しになった。
「実花は笑ってただろ」

『お姉ちゃんが雨に濡れるのが好きって云うの、わかった気がするよ。なんだか、神様にヨシヨシしてもらった感じ。雨の音ってうるさいと思ってたのに、なんだか拍手みたいだよ。がんばってるね、って!』

 一年前の今日。
 だんだん弱くなっていく実花。同級生の子に比べたらずっとずっと小さくて。
 がんばってる実花にちょっとしたプレゼント。
 実花が大好きな司くんとのデートタイム。
 泳ぐところが見たいといった実花のために、場所は近くのレジャープール。
 突然の雨。
 屋根の下にたどり着くまでに雨は嵐になっていた。
 暑い夏だから風邪は大丈夫。
 そう思っていたのに、それよりひどい肺炎になった。

「実花は云ってたよ」

『お姉ちゃん、あたしのせいで全然ママからヨシヨシされてないんだ。あたしが全部、時間取っちゃってるから。でも、お姉ちゃんはいつもやさしい。あたしよりもずっとがんばってると思うの。天使さんのお迎えが来て、あたしがいなくなっても、今日みたいに雨が降ったら、あたしと神様からの“がんばってるね”っていう拍手だって思ってくれたらうれしいな』

 ……実花……。

「千夏、自分を責める気持ちも、実花に対する後ろめたさもわかるよ。おれはそれだけふたりとずっと一緒にいた。けど、実花は『だめ』が経験できたことを本当に喜んでた。実花はいつも笑ってたけど、あんなふうに……太陽みたいに笑ってる顔はあの時、はじめて見た。あの日から、おれが何を後悔してるかって云ったら、実花を連れ出したことじゃない。実花を雨に濡らしたことじゃない。おまえの我慢してる気持ちに気づいてやれなかったことだ。実花のほうがずっと大人だった。あの日、実花と約束したんだ」

 あたしの頬を伝うのは雨なんだろうか。
 司くんはあたしを抱きしめた。

「千夏、好きだ。……そう云うって」

 あたしを抱きしめたのはそのくしゃくしゃにした顔を隠すため。
 付け加えられた言葉は照れ隠し。
 実花……司くんて絶対こんなセリフ云わないんだよ。
 きっと最初で最後……かな……。
 実花……ずっと大人な実花は……いろんなこと、わかってたんだね……?

「実花……実花、実花……っ」

 実花の拍手のなか、あたしは小さな子供みたいに声をあげて泣いた。

 そのあとには、嘘みたいにブルーハワイフラッペの空が広がる。
 躰を離したあたしと司くんはバカみたいにずぶ濡れで。

「おまえ、かなづちのくせ、水に濡れるのは好きなんだよな」

 司くんの目は赤くて。あたしの目もきっとそうなんだろう。
 あたしたちは顔を見合わせて笑った。

「千夏、司くん! あんたたちはもう!」
 お母さんが病院の軒下で泣き笑いしている。
 司くんに手を引かれて、まえみたいに(しか)られに行った。

「明日は実花の命日だ。ちゃんと実花が神様のところに行けるようにお別れしないとな」
「うん」

 太陽が顔を出した。
 裸足のまま、子供みたいに水(たま)りにパシャッと音を立てて飛びこむ。

「レインクラップ」
「ぷっ。単語が並んだだけ。それ云うなら、“rainy clap”だろ。やっぱ英語だめだな」
「……一年、落第かぁ」
「がんばれ」
「うん。実花には負けてられないから」

 司くんの手がぎゅっときつくなった。

 太陽って実花の笑顔みたい。
 あらためてそう思う雨上がり。
 雨がもっと好きになった。

 夏の嵐。それはまるで拍手喝采(かっさい)

 実花、お別れの言葉は決まってる。

 ありがとう。
 盛大な拍手と一緒に。

− The End. − Many thanks for reading.

*ブログ仲間さんのお題『夏の物語』よりできた作品。2009.08.企画

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