家に入ろうかとした時、刀哉の声がした。刀哉の家は四つ角にあり、藍とは違う方向から帰ったらしい。道に引き返すと五人くらい見えた。独り言にしては声が大きすぎ、誰かと一緒なのは当然だ。
なんだか楽しそうで、藍の入り込めない刀哉の世界がある。
漠然としていた別れという現実が急速に迫り、場景が平面図になった気がした。
刀哉は六才違いの幼馴染で、小さい頃は隣に年上の男の子がいるという程度だった。藍が中三になって、受験に向けて家庭教師を、という親の計らいからいきなり近づいた。
ぎこちない藍に比べて刀哉は気さくで、同じ一人っ子なのに男の人に免疫のない藍と違い、隣家を訪ねる女の人はそれなりで社交的なのだと結論づけた。
勉強に至っては「合格」と言われるまで、時間を過ぎようが初日から容赦なかった。何度となく逃げたくなった受験も「合格」を繰り返され、その気になって祈願成就した。
受験が終わったら家庭教師も、と思いきや高校一年を終わろうとする今も続く。が、それもあと二カ月。
親同士の話では、刀哉は聞いたことのある会社に就職が決まり、東京へ行く。
接点がなくなり、二人はまたただの隣人に戻る。
「藍」
刀哉が気づいて藍を呼んだ。眺めていた場景が立体化する。
「おまえが教えてる子か?」
「お。小さくて可愛い……」
刀哉の友達が言っている最中、お辞儀して藍は引っ込んだ。
「藍、こっち来ないか?」
刀哉が追ってきて誘った。 藍は首を横に振り、何か言いたげな刀哉を置いて家に入った。
堕ちた。
抜けないイジケ癖。
どうせ。
堕ちた時はこの言葉に尽きる。
近所の公園の砂場では、親子がバケツに砂を詰めて遊んでいる。
目に映る穏やかな風景は、ブランコに乗って揺れているうちに霞んだ。
「藍、時間過ぎてる」
不意打ちで堕ちた原因が来た。瞬きして顔を伏せる。
「今日はいい」
投げやりに呟いた。本当はもう家庭教師はいいと叫びたい気分なのに、そうしたら残された時間さえ無くなって後悔するとわかっている。
「いいって何だ? 俺は時間割いて……」
「だからいいって言ってる」
刀哉を遮って突っぱねた。顔をしかめたのは見当つく。
それでも怒って帰ることなく、刀哉の足がブランコの横に来た。
「藍、おまえの悪い癖」
やがて頭上からため息混じりの言葉が降った。刀哉は返事を期待しているふうでもなく続ける。
「藍、俺との間に線を引くな。立ち向かう前にどうでもいいふりして、藍は痛い目に遭わないように避けてる。この前のクリスマス会じゃ独りになろうとするし、さっきは呼んでも来ない。結果がどうでも眺めてるんじゃなくて、ぶつかっても入り込まないとだめだ」
刀哉がイイ男らしいと情報を仕入れた友達に会わせてとせがまれるまま、藍はクリスマス会を家で開いた。
断るかと思ったのに応じた刀哉が自分を観察していたとは気づかなかった。思えば友達の話し相手をしつつ、刀哉は何度も藍に相づちを迫った。
就職の話を聞いてから素直でいることが難しい。うまくやっているはずがとっくに見破られていた。
「……性格だし、変われないよ。私は私で刀哉は刀哉で、誰かは誰かだし」
ようやく顔を上げて藍は笑った。それが形だけであることをやっぱり刀哉は見破ったようで目を細めた。
「そんな意地張っても何にもならない」
「頑張るよ」
軽く宣言してブランコから立ち上がったとたん、刀哉が目の前に立つ。
「なら、俺を避けるな」
「避けてない」
「言いたいこと、もしくは聞きたいことがあるだろ」
「心配することないよ」
「したくてしてるわけじゃない。誰かに頼まれたわけでもない」
……どういう意味?
逸らしていた目を上向けた。
「どうせ刀哉は遠くへ行っちゃうし、前に戻るだけだよ」
「遠く?」
「就職で東京に行くんでしょ? お母さんたちが話してた」
「そういうことか。就職の話になると逃げたわけだ。俺は家庭教師をやめるつもりない」
「だって……」
「盗み聞きすんなら全部聞け。東京は研修の一カ月だけであとは家から通える。それより気づくべきことがあるはずだ。なんで今でも家庭教師やってるのか、とか、女を連れ込まなくなったな、とか」
首をかしげると、
「俺を監視してるのは知ってる」
と刀哉が付け加え、藍は頬を熱くしてうつむく。
「ここまで言った。どうする? ぶつかるか避けるか」
藍は刀哉の言葉を重ね合わせた。
見上げた刀哉は促すように首を動かす。小さな笑みは刀哉自身の答えだ。
いつのまにか芽生えた気持ち。それはたぶん刀哉も同じで。
文字通り、藍は刀哉に体をぶつけた。
「好き」
「合格」
家庭教師の口癖とともに、藍より早く、刀哉の腕が鼓動を合わせた。
Published in 06 Jan. 2009. Material by
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