幻想組曲-恋-
もしも願いが叶うなら
まったく、なんてだらしないんだろう。だいたい、できる上司、というのがこの世にいるのだろうか。
事務のわたしにクレームの後始末を押しつけ、肝心の営業マンは逃げ回っている。
胃に穴が空きそう。
電話越しで顔が見えないからって、ユーザーは怒り放題だし、とりあえず一言でも先に謝罪しておけば少しは先方の気分も緩和されただろうに。
嫌な週末。
見上げた空は星が瞬いてすっきり晴れているのに、こんな気持ちで家に帰ればどんよりとした空気をお持ち帰りしそうだ。
会社からまっすぐ帰る気にはなれず、わたしは家の近くの公園に立ち寄った。夜の十時を過ぎ、外灯もろくにない公園は物騒なくらいに暗くてだれもいない。
危機管理の一環として、この際、襲われたときはめいいっぱい攻撃してむしゃくしゃを発散しようとへんな誓いをたてた。
それくらいイライラしながら、わたしはコンビニで調達してきた缶チューハイのプルトップを開けた。
ビールは苦くて飲めないけれど、フルーティなチューハイならいける。お酒には弱いけれど一気飲みしたい気分。
一缶くらいならどうってことないかも。
そう思って一大決心をした。これくらいのことに大げさだけれど、普段から超が付属する真面目なわたしは羽目を外すことが苦手なのだ。
とりあえず一口。
うん、おいしい。暑くも寒くもない六月の気温はチューハイがちょうどいいのかもしれない。
一気とまでは行かないまでも、いつものチビチビよりはグイグイと飲んで一缶空けた。
躰がカッと熱くなったのも無視して二缶目を飲みはじめる。
「なんだか気分よくなってきたかも」
声に出して一人つぶやくと意味もなく笑って空を見上げた。もしかしてわたし、酔っぱらってる?
そう思ってまたくすくすと笑った。
公園が暗いせいか、夜空の星はいつもより多く見える気がした。
こんなにたくさん星があれば一つくらい流れてくれないかな。そして願い事を叶えてもらおう。
目下のところ、できる上司、希望です。
「って云ってもね……流れ星って消えるまでに三回願い事を唱えると叶うっていうけど、普通ね、『あ』で終わっちゃうんだよ。つまり絶対叶わないって云ってるようなものだし……」
……こんなケチつけたったどうにもならない。
夢は途切れた二十三才だけど願い事はたくさんある。
だからお願い、お星様。容姿に恵まれず、まったくもって名前負けしているわたし、旭妃綸子に愛をください。
なぁんて……え、あ! 嘘っ、流れ星!
バカバカバカっ!
気づいた瞬間、叫んだのは『バカ』三回。
願い事、ちゃんと考えておけばよかった。わたしは大きくため息を吐いた。
「バカって願い事って……ぷ」
ちょっと気分がいい。流れ星、見られたこと自体ラッキーな気がする。
「帰ろ」
二缶目の残ったチューハイを飲み干してベンチから立ちあがった。
とたん。
ドンッ。
凄まじい地響きと衝撃音に襲われた。
わたしは躰を支えられず、よろけて転んだ。
「イタタ……」
四つん這いになった躰を起こして、手についた土をはらい、顔を上げたと同時に、その場所を見たわたしは固まった。
は、は、は……。
いや、笑っているわけじゃなくて。
恐る恐るわたしは視線を上げていく。
は、裸の……王子様?! がいた……。
ほんのいままで座っていたベンチはペチャンコになり、その横に裸を晒し、しかも堂々と……。
思わず下に視線をおろしたわたしは『それ』が目に入るなり、地面に突っ伏した。
夢? っていうか、この年になってもわたしはいまだに『それ』を見たことがない。想像力、逞しすぎる。わたしってもしかして相当に酔っぱになってる?
「あの……見えてるんですけど」
顔を伏せたまま、いちおう忠告してみた。
……。
反応はない。
やっぱり幻なんだ。よかった。正気に戻ったうちに帰らないと、またとんでもない幻覚を見てしまいそうだ。
それにしても、わたしって――。
「バカとはなんだ?」
「……へ?」
半ばぎょっとしてわたしは顔を上げた。目の前にはやっぱり『それ』があって、今度は躰が拒絶反応を示して後ずさりした。
「おまえの願い事だ」
「願い事?」
「おまえ、おれに三回バカって云っただろうが」
バカって云った。確かに。でも、おれに、って何?
わたしの頭の中にハテナが果てしなく流れている。……違う、流れたのはお星様だ……え――?
「も、も、もしかして星の王子様?!」
いちいち王子様とつけるのもおかしい気がするけど、見た目は間違いなく王子様。
茶色い髪はちょっと長めのざんばら髪で、うなじ辺りは肩まで伸びている。細長い眉に黒い瞳はちょっと鋭すぎるけれど、切れ長で、かといって細くはなく絶妙なバランスだ。鼻は高くもなければ低くもなく、くちびるはアヒル口でもタラコ口でもなく、つまりちょうどいい。というよりは良すぎる。
って、待って! いま、夜で、この公園は暗かったはず。なんで見えるの?
慌てて周りを見回した。やっぱり夜だ。もう一度、視線を戻した。
……後光がさしてるし。
「くだらん。おれが王子様ごときで終わると思うか。せっかくこの星を乗っ取ろうと思ったのに、おまえが願い事を口にして邪魔をしたんだ」
「へ……乗っ取る……とは何事ですか?」
「この星の持ち主はつまらんだろう。人間という玩具を作って、挙げ句の果てにその人間に乗っ取られようとしている。星の主として情けないとは思わないか」
「……はぁ」
この星、つまり地球の持ち主っていわゆる神様? と、思いながらとりあえず曖昧に同意した。口答えしたらこの王子様はなんだかキレそうだ。
星の王子様ってもっとこう……ふわふわっとした感じじゃなかったっけ。
「さっさと願い事を叶えて玩具を片づけてやる。さあ、云え、バカとはどういうことだ?」
玩具を片づける……王子様の台詞からすればわたしも玩具なわけで、片づけるということは殺しちゃうってこと? しかも乗っ取るって、穏やかじゃないじゃないですか!
……ていうか、あり得ない。
裸だし、つまりは露出狂で変人で……せっかくの王子様なのにもったいないけど頭おかしいんだよ、きっと。
もしくは飲みすぎたせいでわたしはきっと夢を見てるんだ。
「じゃ、おやすみなさい」
質問を無視して立ちあがると、口早に声をかけて立ち去った――つもりが、背後から腕が躰ごと引き止めた。
どうやら実態はあることはわかった。ということはただの変態?!
え……っと襲われたときは攻撃すると誓ったんだった。
でも何、暴れてみたのにビクともしない。助けを呼ぼうにもだれも通らない。それより、あんな大きい音がしたというのに野次馬がいないってどういうこと? いや、音は幻聴なのか……頭が混乱してきた。
「おまえ、このおれが願いを叶えてやろうって云ってるんだ。名誉に思え。さあ、バカとはなんだ?」
頭の上から声が降ってきた。
「つまり……あなたみたいな人のことです」
「なんだ?」
「だから、あなたがバカです。悪いですけどさっきからへんなこと――」
「なんだ、おれが欲しいのか。うむ、おまえも人間にしては目が高い。しかし、おまえにおれは身に余る」
さえぎられると同時に腕が離れて自由になった。
あなたが自ら云うんですか、と思わず突っこみたくセリフだったけれど、せっかく機嫌が麗しくなったところで水を差したくもない。ここでささっと退散するのみ。
「そのとおりですね。そのお顔を拝見させていただいただけでわたしは充分です。それでは」
「待て。せっかくだ。少しくらいおれの時間をやろう」
勘違い王子様はご満悦モード。
「いえ、滅相もない。お言葉だけで……」
わたしは慌てて手を振り首を振りして、深々と頭を下げると身を翻して駆けだした。
やっぱり酔っぱらうのはよくない! 幻聴に幻影。ストレスのせいか欲求不満まで。
『あれ』は本当に『あれ』だったんだろうか……――……もういい。
わたしはその思考を中断した。
明日と明後日はちょうど休みだし、ゆっくり眠ってストレス解消しなくちゃ。
公園から歩いて八分、走って五分という三階建てのアパートにたどり着いた。
三階の隅にある自分の部屋まで駆けあがり、鍵を取りだそうとしてはたと気づいた。手に何も持っていない。
「……どうしよう……」
「これか?」
突然、目の前にわたしのバッグが差しだされた。
「あ、どうもありがとうござ……え?」
お、王子様……。
「玩具と云えどもおまえの殊勝な態度が気に入った。少しと云わず、しばらくおれの時間をやろう」
恩着せがましく押しつけられて眩暈がした。
お酒飲んだ直後に走ったせいで余計に酔いが回ったのかもしれない。動悸が激しくなったと思ったとたん、わたしの意識は途絶えた。
もしも願いが叶うなら。
バカ三回、なかったことにしてください。
数年後。
朝、目覚めたとたん気分が悪くなって、わたしははたとその理由に思い当たった。
「どうしよう、どうしよう、どうしよう!」
「どうしたんだ? また願い事か。このおれがいるんだ。何も不安に思うことはない」
ベッドの上に起きあがり、三回唱えたわたしに、相変わらず自信満々、プラス尊大度際限なく王子様は宣言した。
あの気絶した次の朝、目覚めたわたしを興味半分で乗っ取り、自分が放出した粘液をなんだ? と訊ねた王子様は、人間の交尾が痛く気に入ったらしく、いまだにわたしは『しばらく』の中に縛られている。
わたしが泣くと、雨が降っているぞ。
わたしを抱くと、波の音がするぞ。
おまえは地球みたいな奴だな。
そう不思議そうにして、次は至極満足げに。
躰の中には宇宙がある。
と云う。
結果、王子様に振り回され、わたしは羽目を外しすぎた。
「赤ちゃん、できちゃったみたい!」
「できた、とはなんだ?」
「だから、わたしと王子様の子供がおなかの中にいるの!」
「うむ、やっぱりおまえの躰の中は宇宙のように神秘的だ」
「じゃなくて! 何が生まれるの?!」
地球に来て人間の格好はしているけれど、王子様の実体がなんなのか、わたしはつかめていない。
「いいではないか。何が生まれようとおれとおまえで創った宇宙には違いない」
王子様の言葉はわたしを『ご満悦』にさせる。
けれど、よくよく考えてみれば、わたしは王子様の子孫を増やす手伝いをしているわけで。
やっぱり王子様、長い長い年月を経て地球を乗っ取るつもりなんだろうか。
顔をしかめたわたしの顎を王子様の手がすくう。
「それよりも、おまえの肌はおまえの綸子という名前のとおり、滑らかだな。吸いつくようで触れ具合がいい」
意図があるのかないのか、頬を撫でる王子様の声は恍惚としていて、わたしはいつのまにか填められている。
すべてがちっぽけになるほど宇宙は果てしない。
黒ではなく、深い藍色だった瞳を見上げると、そこには宇宙みたいに星が散らばっていて、わたしはただうっとりした。
もしも願いが叶うなら。
しばらく、が、ずっと、でありますように。
− The End. − Many thanks for reading.
Photo owned by 純愛ジュール.