Cry for the Moon 〜届かぬ祈り〜

変奏曲 恋をしてるんだと思う


 母とふたりきりでいる家の中は、別々の部屋にいても息が詰まる。妹の香奈の(あわれ)みっぽく自分を見る目は好きじゃないけれど、それでも香奈がいるほうが増しかもしれない。
 それに、あの人が来る。執念深さそのままにギトギトした目は狂っているように見え、家の中で対面すると酸素を全部盗られたような怖さに遭う。
「ちょっと出てくる」
 部屋を出てリビングを通りがてら、鈴亜は母に声をかけた。
「鈴亜――」
「勉強は午前中にやったよ」
 責める声にうんざりして、それでもその気分を押し殺してさえぎり、鈴亜は団地の三階にある家を出た。

 九月になったというのに夏の名残だらけのむっとした空気が、クーラーに慣れた躰を不快に包む。今日の空は分厚い雲に覆われている。海に近いことと、まもなく降りだしそうな雨が空気をジメジメさせていて、ますます不快だ。
 でも、これくらいの不快さはどうってことない。我慢できないのは振り回されること。
 夏休みが終わって六日目。始業式の日からずっと学校は休んでいる。それは夏休みのちょっとまえから続いていることだ。おなかが痛いわけでもなく、強いていうなら頭を痛くさせられているけれど、身体的に問題にするほどじゃなく、ずる休みと云われても否定できない。それどころか、だれもがそう捉えて、だれもが理解しようという気持ちを持たない。
 あたしよりずるいことはたくさんある。
 主張は母にさえ認めてもらえることなく、甘えだと退けられる。鈴亜は叫びたい気持ちを抑えこむようにくちびるを咬んだ。
 親だからといって無理強いされることにうんざりであれば、自己都合の範囲内で穏便にすませようとするなんてことも嫌い。
 父は転勤族で、同じ場所に一年といたことがない。家族が離れ離れになるのはよくないという、父の信念一つでみんなが付き合わされている。
 それまであった大切なものは全部置いてけぼりで、中学生になってからはだんだんといろんなことに執着心を失くしてきた。香奈は新しいことが大好きなようで楽しんでいるのに。
 残れないの? と転勤の都度、訊いた。母は、だめよ、で片づける。
 大人じゃない鈴亜はあきらめるしかなく、そしてそのあきらめを決定的にしたのはずる休みの原因だった。
 いじめてる子。加担する子。嫌と闘えない子。見て見ぬふりをする人。止めたあたし。それを脅迫と受け止める人。ご機嫌とりから逃げたあたし。
 だれがいちばんずるいの?
 あの人は先生なんかじゃない。
 母には何度も訴えたのに通じなかった。もしくは、母もまた、都合のいいことしか見ようとしない。
 人を当てにするものじゃないということを学べたのかもしれない。

 それなのにいま、どうしてあたしはあの場所に向かっているんだろう。
 階段をおりて団地の敷地内を出て、それから道沿いに進むと遊歩道が見えてくる。いつもはその手前にある駐車場の柵を乗り越え、堤防の上を歩くけれど、今日はやめた。
 なぜやめたかという理由はわかっている。それを認めることは自分を裏切ることで、鈴亜は無視した。
 遊歩道のずっとさきには、この三日間、ずっと頭の中から消えなかった人がいる。

 三日まえ、煙草を香らせ、剥きだした(とげ)を全身に(まと)った人と出会った。
 あの人が来るせいで、日課になっていた堤防の上の散歩。そしてブルームーンという祈りを捧げる。鈴亜にとっては生と死の間にある神聖な儀式だ。そのテリトリーをはじめて侵犯された。
「笑ってよ」
 声のしたほうを振り向くと、端整なのにどこか荒さを感じさせる顔が、堤防に座っている鈴亜よりも上に見えた。
 近づくべきじゃない人。そう思った。
「一緒に飛び降りようか」
 刺のせいじゃなくて、普通なら接点のない人だったから。
 ユーマ。
 一目でわかった。ユーマの声は鈴亜の中で心地よく歌を奏でる。
「そうする時は独りでって決めてるの」
 まるで最後の一本というように、紫煙を(くゆ)らせたあとのユーマの誘いは本気に聞こえた。
 不思議な気がした。接点なんて一生なかったはずなのに、同じ気持ちでここに並んでいること。
 望むことは軽々しく扱ってはいけないんだろうけれど、なんだか可笑しくなって鈴亜は笑った。
 驚いて鈴亜に向けたユーマの目は、闇の中を見通そうとするかのように喰い入った眼差しだ。驚きとはちょっと違うような気もする。ほんの傍にした瞳は、見慣れた写真とは全然違って、足もとにある海のような深遠さがあった。
 そのすぐあと、名乗り合うことから始めたユーマとのお喋りは上辺だけのはずが、通じ合っているように感じた。
 鈴亜の中でユーマが祐真になっていく。鈴亜を『レア』と呼ぶ、祐真のイントネーションは歌っているように聴こえた。
 声が心の中に触れるように、祐真の手が首もとに触れたときは戸惑いを覚えた。嫌な気持ちは少しもなくて、そのかわりに、父でもないドクターでもない男の人に触れられるという、はじめての感覚にドキドキして、それが伝わってしまうんじゃないかと困惑した。
 祐真はまったくさり気なくて、鈴亜はさらにふたりの違いを示される。
 やがて祐真の手はあたりまえであるかのように馴染んだけれど、それはただの錯覚。けっしていつまでもそうしていられるわけじゃない。いま沈んでいく太陽だってたった一日の間に光の色を変えた。

 そして、祐真も突然変わった。帰り際の会話の最中、それまでひそめていた刺がいきなり剥きだした。
 何に触発されたのか、一方的なキス。あれがキスと呼べるのか鈴亜にはわからない。煙草の香りが驚怖を伴って口の中に溢れる。とっさに押し退けた。閉じていた目を開いたとたんに、視界は夕焼けの空独特の色をした群青に染まる。
 『レア』と歌う声。捧げていいと思っていた躰は自らを裏切るようにその手を伸ばした。手は別の手と同化する。
 しばらく合わせていた鼓動は互いを支えるように共鳴した。身近で合わせた瞳は離すことができなかった。
 ふたりの間で引力が作用しているかのように、祐真の顔がまた鈴亜に近づく。
「キスさせて」
 まさに目の前で瞳が欲求を曝す。どう答えればいいのかわからない。
「……いや」
「触れたい」
 祐真の右手が鈴亜の左の頬に添い、そこから流れこんできた温かさに誘われるまま、目を伏せた。
 かすめるキスのあと、再び、押しつけるようなキスに襲われた。けれど今度は、触れていられるのならそれでいい、と思った。

 立っていられないくらい震えていた。鈴亜の躰を支える祐真の腕は心底にまで忍びこんだのかもしれない。
 どうして、あきらめたいま、出会ってしまったんだろう。
 帰り道、祐真に預けた手は、三日たったいまでもあの手を覚えている。

「明日もここへ来るよ」
 そう云った瞳は鈴亜をそそのかし、学んだことを無効にさせようとする。
「それって……約束?」
「……気まぐれ」
 居る場所が変わるたびのお決まりの約束。忘れないよ。そんな言葉は簡単に忘れられる。遠く離れた鈴亜よりも、近くでずっと一緒にいられる友だちのほうが大切に決まっているから。
 いまの祐真の答えはほかのだれとも違っている。
 いままであった“約束”を“気まぐれ”に置き換えるとあまりにしっくりきて、鈴亜は可笑しくなった。
 祐真からはいろんな答えを聞けそうな気がする。けれど、云うべきことは一つしかない。
「さよなら」

 近づくべきじゃない人。
 あきらめることは簡単じゃなくて、けれど慣れていたはずなのに、どこかで期待している。
 二日も空けば、もう来ないはず。そもそも、次の日に来ているかという保証はない。そう思って気づいた。
 あたしは来てくれると信じたがっていた。その気持ちを裏切られたくなくて行けなかったこと。あたしは最初から、約束を当てにしてた。

 だんだんと堤防に座る祐真が近づく。正しくいえば鈴亜が近づいている。ただ、その感覚があやふやなほど歩いている感覚が薄い。
 祐真は気配に気づかないのか、正面にした海を眺めている。
 祈りを口にするけれど、まるで聴こえていないかのように知らんふりだ。
「あたしを抱えて座らせてくれる? ここは高くて登れないの」
 祐真はようやく振り向き、堤防からおりた。
 今日もここにいるということは待ちぼうけさせたということで、もしかしたら怒っているのかもしれない。その不安は不要だった。むしろ、祐真は鈴亜の心境と違って何も影響を受けていないように見える。
「なら、いつもはどうやって座ってるんだ?」
「駐車場の柵を乗り越えれば簡単」
 祐真の視線が駐車場へと向かい、それから顔をしかめて鈴亜へと戻った。
「平均台の練習」
「危ない」
 だから今日は。それくらい、あたしは祐真に……。
 無視した気持ちが顔を出す。
「そうね」
 心細くなってそれをごまかすように曖昧に同調した。
「手を回して」
 祐真の首に手を回したとたん躰が浮いて、鈴亜を堤防に座らせてくれた。
 触れていたいと思う気持ちが通じているのか、もしくは祐真も同じ気持ちでいるのか、時間が静止したようにふたりともそのままの姿勢でいた。
「どうして来た?」
 やっと聞きたかった声が聞こえたのに、そんなことを訊かれるとは思っていなかった。鈴亜の躰に添う祐真の腕とは相反する質問だ。咎められている気がして祐真の背中から手をおろした。
 行かないほうがいい。さきに待っているだろうことは容易に予測できるのに愚かすぎる。
「雨が降りそうだったから。雨に濡れるのって好きなの……来ないほうがよかった?」
「来てほしかった」
 欲求を無視して逃げようとする自分が期待する自分に勝ちをゆずって、残ったのは後悔。祐真の一言が鈴亜の後悔を和らげて、どれだけ心強くさせられたか伝えられるだろうか。ありがとう、と云って笑ってみたけれど、自分でも頼りなく感じる。
「来なかったら、団地を一件一件訪ねていこうかと思ってた」
「嘘!」
 祐真は簡単に鈴亜の気分を変え、今度は本当に笑えた。ありがとう。いま云うには場違いな言葉でもまた云いたくて。けれど、口にするまえに祐真のくちびるが鈴亜のくちびるをふさぐ。
 互いに抑制を失った熱はやがて雨を生んで空から落ちてきた。
「濡れてしまう。行こう」
 祐真は熱を残した瞳で鈴亜を促した。

 濡れたってかまわないのに。それよりは……。
 云っても伝わらない。その気持ちが言葉を閉じこめる。
 たったいままでの熱が嘘のように引いた。
 熱は雨を呼んで、ふたりでいられなくする。強くなっていく雨が、はじめから壊れることを暗示させる。
「どうした?」
 鈴亜の畏れが伝わったように祐真は訊ね、それから足を止めた。
 祐真はまた、たった一言で鈴亜を(さら)い、打ち明けたい気持ちにさせる。攫われた心底(しんてい)が目から溢れる。こんなに雨が降っているのだからきっと区別はつかないはずなのに、鈴亜は顔を見られないようにうつむけた。
「怖いの」
 預けた手がしっかりと握りしめられた。
「おれも怖いって云ったらなぐさめになる? 急ぐつもりはない。ただ……一緒にいたいんだ」
 同じなの?
 祐真の口から飛びだした言葉に顔を上げた。その場凌ぎで嘘をつくようには見えない、きれいな瞳と合った。写真越しじゃない瞳は、何かを訴えるようにたしかに生きている。
「それだけじゃ足りない? 約束がほしい?」
 欲しいのは約束じゃない。途方に暮れて海へと目を逸らし、遥か遠くを見やった。
 一つ一つあきらめて、大切なものはなくなったと思っていたのに、ほんの少しの間に、祐真はこれまでにない大切な何かを鈴亜の中に形づくっている。
 期待なんてしない。そんな自分との約束も守れない。
 祐真の右手が左の頬を包んだ。その手は“気まぐれ”じゃないことを伝えてくる。
 それとも、あたしが勝手にそう思いたいだけ?
 けれど、ユーマの歌から嘘は見つからない。
 逸らした視線を戻し、また見上げた祐真の瞳はやっぱり何かを云いたそうに鈴亜を見下ろす。
「風邪をひくよ。来て」
 再び手を引かれ、歩いていくと祐真は車の前で立ち止まった。車の中から持ちだされた服が鈴亜の頭上に被せられる。薄手のジャケットからは煙草の香りと一緒に祐真の香りがした。
「もう意味ないよ。服が濡れちゃう」
 上着を取ろうとして上げた手は祐真にさえぎられた。
「いいよ。帰るまで襲われないようにお守り」
 鈴亜が首をかしげると、祐真はわずかに首をひねった。
「雨に濡れた女性にはそそられるって云ったらわかる?」
 祐真の視線のあとをたどり、自分の躰を見下ろした。濡れた白いTシャツ越しに下着と素肌が透けて見える。Tシャツはぴたりと躰にくっついていてラインが丸見えだ。せめてショートパンツがジーンズでよかったと思いながら、顔が赤くなっていないだろうかと戸惑った。
 可笑しそうにした祐真の手の甲が口もとまで来て触れた。
「これ、おれのお気に入りのジャケットなんだ。返さなくていい。一緒にいられないときも、これを見ておれを感じていて」
 手の甲のかわりに不意打ちで祐真のくちびるが鈴亜のくちびるを撫でる。
「明日は来る?」
 少し顔を離した祐真が問う。素直に答えるには自分が自分を許さない。
「後悔したくない」
「後悔させない」
 間近な瞳は刺をなくし、そのかわりになんらかの不屈が見えた。
「……約束?」
「違う。誓い」
 祐真の瞳を目の前にして、ふくらんでいく期待は押し殺せない。鈴亜は目を伏せた。
 誓いのさきにはキスの儀式。その神聖さを守るように、祐真のキスは物足りないほど刹那だった。
「セーヴが効かなくなるまえに早く帰って」
 その言葉は、足りない、と反対の意味を持っているのに、祐真の手は言葉に従って、鈴亜の躰をくるりと回した。その手が背中を押しだす。

 離れたとたんに期待はしぼんで怖さにとってかわる。振り向けない。それと闘えるのは自分だけだとわかっているから。怖さを抱えたいまの自分が自分じゃないだれかを当てにしたら、そしてそれが当てにならなかったら、そう思い知ることがいちばん怖いのかもしれない。
 祐真が明日の約束を強要しなかったことに気づいたのは帰ってからだった。
 あきらめる気持ちを打ち消す、大切な何か。裏切られたくなかった気持ちは、ただ信じたいというだけ?
 濡れたジャケットが乾くにつれて祐真の香りが部屋に広がっていく。
 ずっと触れていてほしい。
 そんな気持ちははじめてで――。

 次の日、昨日の雨はあがり、また熱を生んでいる。その繰り返しは永遠に続く。
 それなら何があっても。
 歩道をゆっくりと歩きながら祈りを歌う。
 まだ届かないくらい遠いと思うのに、堤防に座っていた祐真が歩道におりた。
 昨日は聞こえないふり?
 大切な何か、というよりは、大切にしたい気持ち。それは祐真の中にもあるんだろうか。
 鈴亜を待つ祐真の目の前に立ち止まるなり手を伸ばした。祐真が笑う。しがみついた躰が持ちあげられた。
「ありがとう」

 あたしもずるくて、逃げるけれど、迷うけれど、きっと怖がるけれど、祐真ならごまかさずに、全部に、まっすぐに応えてくれそうな気がしてる。
 そう思いたいほどずっと触れていたくて、いまみたいに素直に笑顔を見せられるほど大切なもの――近づくべきじゃない人と、“いま”だから出会えたのかもしれない。

 あたしはたぶん、恋をしてるんだと思う。

− The End. − Many thanks for reading.

DOOR

あとがき
2011.01.14.around5th-year 記念作第1弾
レア視点オンリーで前奏からメロディ3までの出会ってまもないふたり。
レアの中にあった、ちょっとした変化、あるいは心底からの祈り。
祐真とレア。どちらにとっても不可欠の恋。この物語で本編をより深く、とそんな想いを込めて。

2010年10月『お気にカップル人気投票』ランクインによりエキストラ化
祐真&レアをずっと好きでいてくださってありがとう。幸です。  奏井れゆな 深謝

Photo owned by 純愛ジュール.