二月最終日の日曜、ヴァレンタインデーのにぎやかさは消えたものの、休日のショッピングモールは変わらずごった返している。そのせいか、外の寒さを忘れるくらいむっとした空気が蔓延して、のどは渇くし、数時間後には人酔いで頭痛が待っていそうな気配だ。
その不快さを除けば、ショッピング付きの紘斗とのデートは楽しい。
相変わらず忙しい紘斗だが、今年になってよけいに時間が取れなくなっているような気がする。日曜日はなるべくスケジュールを空けてくれるようになっていたのに、またもとに戻っていた。
ひょっとして、紘斗にとって姫良の存在感は薄くなっているのかもしれない。いいほうに解釈すれば、健康であれば存在感皆無の酸素のように傍にあって普通という、当然の存在なんだろうが。
「紘斗、これどうかな、ブリーカー」
バッグ専門店でひととおり見てまわったあと、姫良はぴんときたバッグのところに戻り、手に取って紘斗に見せた。たすきみたいに肩から斜めにかけるリュックバッグだ。
「哲ちゃんに似合いそうって思わない?」
そう続けると紘斗は首をひねった。
「合格発表があるまえに合格祝いのプレゼントを買うのは姫良くらいだ」
紘斗の本音からすると、云いたいことはそこではなかった。哲へのプレゼントを買うのになぜ自分が付き合わなければならないのか、そういったちょっとした不満の代弁だろう。
哲は今年に入って北海道から東京に戻っている。ほぼ一年、向こうで車の鈑金塗装業に携わりつつ勉学に励んでいたようだが、受験を機に北海道から引きあげていた。
帰ったとなると姫良がうるさいだろうからと、試験が終わる日まで紘斗と哲は共謀して知らせなかった。案の定、知ったとたんの今日だ。
自分がいなくても哲がいれば、姫良のなかにあるすき間も埋まるのではないか。浅はかな考えがよぎる。紘斗はみみっちい自分に内心で嘆息した。
「だから、絶対合格するっていう願掛けみたいなもの。哲ちゃんには内緒にしてて」
姫良が瞳をくるっとさせておどけると、紘斗は「それでいいんじゃないか」と肩をそびやかし、それと一緒にくだらない感情を払う努力をした。
*
「姫良」
名を呼ぶ声が浅い眠りに漂う姫良の意識を目覚めさせた。目を開けるのが
億劫であれば、紘斗の姿を認めたところで膜が張ったようにその顔はぼやけて見える。
今朝、起きてまもなく、姫良は脚の関節がぎしぎししているような違和感を覚え、次には悪寒に襲われた。最初はいつもよりさらに気温が低いのかと思ったのだが、背中のぞくぞくする感じは異様で、もしかして、と気づけば発熱していた。病院に行くとインフルエンザだと診断され、それからぐったりと寝こんだ。軽い風邪はひいても、四十度近い熱は何年ぶりだろう。
「紘斗、来たの?」
「ああ。大丈夫か。何かちゃんと食べたか?」
ううん、とたったそれだけの姫良の返事はかすれている。
「あまり食べたくない?」
「そんな……感じ」
「けど、食べるべきだな」
紘斗は止める間もなくベッドルームを出ていってしまう。
ドアは開けっ放しでキッチンの音は丸聞こえだ。炊飯ジャーを開け閉めしたり、ウォーターディスペンサーから水を出したり、鍋に蓋をしたり、それらキッチンから奏でられる音は意外に心地よい。長い独り暮らしで忘れていたようだ。
懐かしさが姫良をリラックスさせて、紘斗が再び声をかけるまでいつの間にか
微睡んでいた。
ベッドに起きあがって枕で背もたれをつくり、紘斗が渡してくれたおかゆをそろそろと口に運ぶ。熱いかと思ったのに、ちょうどいい温度に調整されていた。梅干しの果肉と、かつお節にきざみ海苔が入って、シンプルだけれどうま味が凝縮されている。
「紘斗、美味しい」
ベッド脇の床に座りこんで、紘斗もまたおかゆを食べている。
「ばあちゃんが作ってたのを真似てみた。おれも久しぶりだ。腹へってるし、うまいな。自分で云うのもどうかって思うけど」
「おなかすいてるって、だったらそれだけじゃ足りないでしょ」
「あとで追加して食べるから心配しないでいい。それよりおまえだ。日曜日、出かけたときにどっかでもらってきたんだろうな」
「紘斗も、うつらないように早く帰って」
「おれは姫良みたいにヤワじゃない」
「そうかもしれないけど、紘斗は今年に入って忙しそうだし、ほんとにインフルエンザで休むことになったら復帰したときにますます忙しくなって会えなくなりそう」
「休んでる間、姫良が看病してくれれば会える時間はつくれる。姫良からうつったんなら戻ることはないだろ」
「あ、そっかー。紘斗、やっぱり頭いい」
ふと、紘斗の目は姫良を通り越した。そうして記憶の断片を探し当てると、そこにある無邪気な笑顔のように、紘斗のくちびるに自然と笑みが浮かぶ。
「これくらいのことで褒められてもうれしくない」
「でもいま、うれしそうにしてる。軽いインフルエンザくらいだったら紘斗も病気になっていいかも。ゆっくり休むっていう、いい機会」
「なんで軽いってわざわざつくんだ?」
「重症だったら心配しないといけないから。心配するのは苦手」
姫良の発言に、紘斗は呆れたふうに首を振った。
「普通の感覚なら、心配することが得意って奴はいないだろう」
「そうだけど……とにかく病院は嫌いなの。一度入ったら出てこれない気がして」
姫良は食べ物の好き嫌いの話をしているみたいに軽い調子で肩をすくめた。にもかかわらず、紘斗はじっと考えこむような様で姫良を見据えている。
「病院嫌いか。入院しろって云っても蹴ったわけだ。姫良、病院は死に行く場所じゃない。結果的に助からないことはあっても、治そうという努力が尽くされる場所だ」
「紘斗、今度はすごくあたりまえのこと云ってる」
「いつだろうと特別なことを云ったことはない。買い被られるのは心外だ。特に姫良からは。おれは普通にやってるだけだ」
「じゃあ、わたしのなかで勝手に特別に変換されてるだけ?」
はっ。
と、紘斗は吹くように笑った。続けて「なるほど」とつぶやいてまた笑う。
紘斗が何を納得したのかは知らないが、死に行く場所じゃない、とその言葉は確かに姫良にとって特別な意味に変換された。
病気もたまにはいいと思えるような、お喋りを伴うささやかな夕食は楽しかったが、それで体力を使い果たし、姫良は薬を飲んでまた横になった。気をつけて帰ってね、という言葉に返事はなかったものの、紘斗がベッドルームを出ていくと姫良は目を閉じた。
もう何日めだろう。待ってもだれも来ることはない。
いや、“だれ”でもいいわけじゃない。
それなのに、だんだんと自分のなかで、その“だれ”かはあやふやになっていく。しとしと降る雨がすべてをさらっていく。そんな感覚におののいた。
姫良。
上昇する呼吸がその音を曇らせ、姿を隠し、姫良から遠ざける。もしかしたら、だれかによって、何かによって、待つ人との間を引き裂かれているのかもしれなかった。
病院は嫌い。失うものばっかりで。
あの場所に。
行かないと、二度と、会えない。
またなくしてしまう。
紘斗を連れていかないで!
叫ぶと同時に、ニャーと間延びした鳴き声がして黒斑の猫が現れた。
ヒロト。
抱きしめた躰は小さくて、悲しくて、けれど温かかった。
姫良。
望みは聞き遂げられたのか、その声は近くに聞こえる。そうして、いつの間にか抱きしめられていた。
見上げてみると、あらゆる存在を敵にまわしたような、
猛る孤独を纏った少年がいた。
――さみしくないですよね?
「姫良」
三度め、姫良はぱっと目を開けた。すぐ近くに紘斗の顔があって、夢と重なる。
夢のなかよりも遥かに大人になった紘斗からは、刃向かうような孤独は窺えない。かわりに、いつでもかかってこい、そんな手強さと度量が見える。
「何時?」
「日付が変わった頃だ」
姫良は熱に潤んだ目を丸くする。
「帰ってなかったの?」
瞬きして目に入る範囲をよくよく眺めると、紘斗は姫良の横でベッドに入っていて、身につけているものもスーツ用のシャツではなくトレーナーだ。ちゃんと泊まる準備をしてやってきたらしい。
「病んでつらいときに独りにさせるとか、そうしたらおれがいる意味ないだろ」
姫良のなかでやはりその言葉は特別になる。
「うなされてた。熱がまた上がってるかもしれないな。測って……」
「大丈夫。夢見てたけど怖い夢じゃないの。熱を測って高くなってたら卒倒しそう。病は気からって云うでしょ」
冗談っぽく姫良が振る舞ったところで、紘斗はやるせないといったため息をつく。
「おれもあんまり心配したくない」
「子供の頃からそう病気はしたことないよ。ママは病弱だったけど、健康ってことに関したらパパの遺伝子のほうが勝ってる」
「けど、
喘息っぽかっただろ?」
「あ。それだけはママからもらったかな」
「ここ一年は発作はないな。少なくとも、おれといるときは」
姫良は宙を見て思い巡る。躰の弱かった母、紗夜は喘息を持ち、度々風邪をひいては咳をすることが多かった。止まらない咳がつらそうで、背中を丸めた姿が三歳と幼いなかでも姫良の目に焼きついている。いつの間にか紗夜のように姫良は咳をするようになって、そうなるときは前触れみたいな勘が働く。ただし、咳の発作は春先によくあったが、いまは気配も感じない。
姫良は答えを得て紘斗に目を戻し、すると見守るような紘斗の眼差しに合った。
「ほんと。紘斗がいないときもなかった。わたし、ちょっと強くなってる?」
「ああ」
紘斗は吐息混じりに相づちを打った。姫良の大叔父は咳のことを精神的なものだと云っていた。いま発症しないというのは、紘斗にとっても心強い。微々たることでも姫良の力になれているのならば、あの日、会わないと決心した紘斗の後悔も和らぐ。
「紘斗、わたし、いま違う心配してるかも」
唐突で曖昧な云いぐさだが、なんのことか瞬時に察した紘斗は口を歪めた。
「いまさらになって、病人てときに襲うつもりはない」
とはいえ、姫良がほのめかしただけですぐに察するということは、紘斗の頭のなかにそういう気持ちがあるからに違いなかった。
姫良にしろ、いまの心配という云い回しは微妙に逸れていて、正確に表すならときめき混じりのどきどき感だ。
これまでも何度か互いの家に泊まったことはある。いつもソファとか床に転がるだけで、ベッドにふたりで入ったことはない。そんなふうに長くプラトニックな関係でいると、いざ距離を縮めるときによけいに焦ってしまうのかもしれなかった。ただ、そのどきどきした気持ちもうれしいのだ。
「わたしも襲われるときはちゃんと頭が働いてるときがいい」
紘斗はうなだれて力尽きた様で笑った。
*
ミザロヂーはランチを取りにきた客でいっぱいだ。そのなか、姫良たちのテーブルにはシャンパンが存在感たっぷりでテーブルにのっている。給仕が注いでくれたあと、姫良はグラスを掲げた。
「哲ちゃん、合格おめでとう!」
「おめでとう」
「サンクス」
姫良、紘斗、そして哲はグラスを合わせた。一生に一度しかないだろうというお祝い事だ。グラスを鳴らす乾杯はマナー違反でも許容してもらおう。
本来は昨日、土曜日にあった合格発表のあとにお祝いする予定だったが、姫良の体調を考慮して今日になった。
「哲ちゃんも頭いいよね。一年で現役に追いつくとか信じられない。わたしは現役大学生だけど、青南大に合格する自信なんてゼロ」
青南は政財界のトップに数多く学生を輩出する名門の私立大学だ。幼稚舎からの一貫校であり、マンモス校でありながら関東随一の難関校と云われている。
哲は姫良の発言をおもしろがって口を歪めた。
「訓練されてたからな。身に染みついてるらしい」
「訓練? 勉強のやり方とか?」
「いや、鍛えたのは集中力だ。合気道とかパルクールとか、神経を張りめぐらしてないと大けがするってスポーツを嫌というほどやらされた」
「パルクール?」
「壁だろうが物だろうがどんな障害があっても乗り越えて、とにかく移動するんだ。忍者っぽいかもな。瞬時の判断が要るし、失敗は許されない」
哲は、語った内容とは裏腹になんでもないことのように肩をそびやかす。
「訓練てどこか組織に属してるような云い方だな」
紘斗が口を挟むと、哲はため息混じりで笑った。
「なかなか鋭いとこ突いてる。まあ、なんのためにやってんのかって反抗ばっかりしてたけど、役に立ってるらしい」
自分に対して皮肉った哲は、姫良、と目を留める。
「何?」
「姫良も全快祝いだ」
哲はグラスを差しだした。出し抜けだが、それ以上は聞くなという合図でもあることは、長い付き合いだからこそ、そして似た者同士だからわかることだろう。
「姫良、卒業したらどうするんだ?」
合格祝いのプレゼントを渡したあと、食事を進めながら思いだしたように哲が訪ねる。
「どうするってわたしがお喋りしないってことは決まってないからに決まってる」
哲は呆れ半分で吹きだす。
「オヤジさん、許してくれなかったのか。過保護だな」
「派遣みたいな働き方で充分よかったんだけど。いままでみたいに繁忙期だけってことになりそう」
「暇そうだな」
「暇も暇。ボケちゃいそう。哲ちゃんはいま実家にいるんでしょ。そのまま大学に通うの?」
「いや。いまから住むとこを探すつもりだ」
「こだわりあるのか?」
「住むとこに?」
紘斗に向け、なんでそんな質問をするんだと云いたそうに哲は首をひねった。
紘斗は「ああ」とうなずく。
「べつにない。奨学生だし基本的なのがそろってればいい」
「なら、おれのとこはどうだ?」
姫良はステーキを切っていた手を止め、グラスに口をつけていた哲はシャンパンを飲むのをやめてテーブルに置いた。
「ふたりで同居!?」
「そんな趣味はねぇ」
姫良と哲が想像したことは微妙にずれている。紘斗は同時に発せられたひと言に苦笑した。
「残念だな。ふたりでってわけじゃない」
「紘斗、引っ越すの?」
寝耳に水だ。姫良はびっくり眼で紘斗を見つめた。すると。
「姫良」
と極々真剣な声で紘斗は呼んだ。
「何?」
「ニューヨーク転勤の辞令が出た」
驚いたのは姫良だけではなく、哲もそうで目を凝らして紘斗を見据える。
「何年だ?」
立ち直りは哲のほうが断然早い。姫良は自分が何を考えているのか、自分のことなのによくわからないほど混乱していた。ときめきとは明らかに違う、どきどきした鼓動は、離れてしまうという不安のせいだろうか。
「わからない。少なくとも二年は行ってると思う」
哲に応じたあと、紘斗は姫良に目を転じて再び「姫良」と呼んだ。
「……うん」
「一緒に行こう」
「……え?」
「哲、その間、おれのマンションを使ってくれたら助かる。人がいないと錆びつく」
「へぇ。覚悟したってわけだ」
にやついた哲は、次の瞬間には吐息を漏らし、真剣な面持ちになった。
「姫良、よかったな」
その言葉にどんな意味が込められているのだろう。無自覚にそんな疑問を持つほど、哲の声には何かが潜んでいた。
「紘斗、ニューヨークって出世コースなんだろ?」
「どうだろうな。プレッシャーは感じてる」
「姫良は社長の娘だし、相当な重圧だな」
「姫良がだれの娘であろうが、背負うものは同じだし、まっとうする、それだけだ」
「ふーん」
哲は煽るような相づちを打つ。
「哲、おまえは大学のあとのことは考えてるのか」
「ぼちぼち、な」
いつも話の中心にいるのは姫良のはずが、今日に限っては紘斗と哲ばかりで話題が広がっていく。
紘斗の誘いに対する姫良の返事は暗黙のイエスと解釈されたのか。いや、もちろん紘斗についていければそれがいちばんだ。
一緒に行こう――未知の生活に飛びこむ心もとなさはあれど、不安に駆られた鼓動は落ち着いた。
ゆっくりした食事会のあとは駅で哲と別れ、ふたりは姫良のマンションに戻った。
今日までずっと泊まっていた紘斗の存在は、まったく違和感なく姫良の部屋におさまっている。こんな日々がまもなくあたりまえになる。そう思うと、不思議な気がした。
「姫良」
「うん」
三人掛けのソファに紘斗と並んで座ると、久しぶりの外出だったせいか、姫良はくたびれた感じがして寝転がりたくなった。満腹なのもそうしたい気持ちを手伝っている。
紘斗は呼びかけたくせに姫良を放って、仕事をする気なのか、ソファの脇に置いたダレスバッグを探り始めた。
「今日は帰る?」
「そうしたほうがいいだろうな」
姫良は訊かなければよかったと思う。いなくなるとわかると、急にがらんどうになった気がする。姫良の家なのに、見知らぬ場所に放りだされた感覚だ。
でもニューヨークに行けば……。
「姫良」
また紘斗に呼ばれて姫良の思考は中断した。
姫良を振り向いた紘斗の眼差しはまっすぐ注がれる。
「結婚、しないか」
鼓動が一つ高鳴って、心音は耳から飛びだしそうに響いた。
「結婚、て……?」
「家族になりたいって云ってる。ニューヨークに一緒に行く話をして前置きしてたのに、そんなに驚くことなのか」
紘斗は渋面で云い、「断る?」と疑問を投げた。それが危惧しているように見えるのは思いすごしか。
姫良は首を横に振った。
ずっとまえ、プロポーズに近いことは云われた。姫良は家族ということにこだわって、怖がった。いまもきっと怖い。
けれど、イエスという返事をすることにためらいはなかった。
「紘斗と結婚する。したい」
勢いこんで返事をすると、紘斗はあからさまにふっと肩の力を抜く。
「紘斗、緊張してた?」
「あたりまえだ」
ぶっきらぼうに放ちながら、十字のリボン飾りがついた四角い小箱を姫良に渡した。それが何か、察するにたやすい。
「開けていい?」
「そうしないと無駄になる」
どきどきするあまりふるえてしまう手でリボンをほどき、箱のなかから四角いケースを取りだして姫良はそっと蓋を開ける。
そこには小粒のダイヤがひとまわり嵌めこまれたフルエタニティリングがあった。
「きれい」
感嘆のため息をつき、姫良はつぶやいた。紘斗の手が伸びてきてリングをつまむ。
「ひと粒ダイヤとどっちにするか迷ったけど、イメージ的に姫良にはこっちが似合ってる気がした」
紘斗がこの部屋にいることにすっかりなじんでいるように、リングは紘斗の手によって姫良の左の薬指にすんなりとおさまる。
紘斗は顔をおろしてリングに口づけ、そのまま静止した。目を閉じ、うつむけた顔から覗く表情は、緊張と温もりと、そんな繊細さを感じて、まるでそこにリングを封印するような儀式に見えた。
紘斗が手を放すと、姫良は目のまえに掲げて眺め入った。
「わたしも似合ってるって思う。可愛い。ありがとう、紘斗」
姫良のくちびるはめいっぱい弧を描いて広がり、また褒め言葉を口にすると、紘斗はふっと息まがいで笑った。
「半年まえから転勤の話は出てたんだ。それから結婚のことはずっと考えてた」
「……半年も?」
「姫良にとっては簡単にイエスって云えることじゃないだろ」
「うん。でも、紘斗がうちに泊まるようになって、紘斗とずっと一緒にいるのに慣れた感じがする。ううん、それよりはこんなふうに一緒に暮らせたらって思ってた。さっき、今日は帰るって聞いて、すごく虚しいって思ったから」
紘斗はじっと姫良を見つめる。
「姫良」
やがて呻くように漏らしたあと、紘斗は荒々しいほどのキスで姫良を襲った。与え合うよりは一方的に奪うキスで、けれど嫌じゃない。だれにも不動心で向かう紘斗が、姫良に対しては怒るときもあれば訴えるようなときもある。そんなふうに晒してくれるのは、紘斗が発行する唯一のステータスだ。
息苦しさにたまらず姫良はくぐもった呻き声を吐いた。紘斗のくちびるが離れていく。
「やっぱり帰ったほうがいいな」
セーヴがきかなくなりそうな気配に紘斗は自嘲してつぶやいた。
姫良は首をかしげた。結婚という前提があれば、もうプラトニックも卒業していい気がするのに。けれど、姫良から行動に起こすには未熟すぎて勇気がない。
「紘斗って律儀」
遠回しに責めると、その無謀さに気づいたのか紘斗は呆れて笑う。そして、露骨に矛先を変えた。
「生活用品は向こうでそろえてくれてるらしいし、服を少し持っていくだけで、あとは買えばいい。こっちを片づけておくほうがたいへんかもな」
「いつ行くの?」
「四月一日に立つ」
「そんなに早く!?」
「異動時期としては普通だろ」
「そうだけど。よかった。仕事のこと、無理やり段取りしてもらわなくて。パパの頑固さにはじめて感謝したかも」
決まったのにキャンセルすれば、戻ってきたときに働かせてもらおうと思っても採用されないだろう。姫良は常識的なことを云ったつもりが、紘斗は半ば吹きだして笑っている。
「何?」
「社長がおれの転勤を知らないはずがない」
考えこんだあと、姫良はそれがどういう意味かを悟った。姫良の顔が浮き足立つような充足感から不機嫌に様変わりする。
「仕組んでる?」
「何を仕組む必要がある? 社長はおれにゴーサイン出しててくれたってだけだ」
「ゴーサイン?」
「姫良を連れていってもいいというサイン。おれがぎりぎりまで迷って情けなかっただけの話だ。おれとしての答えは考えるまでもなかった。ただ、姫良の反応が怖かったってとこだ」
紘斗の口から怖いという言葉が出るとは思わなくて、姫良は目を丸くして見つめた。紘斗は薄く笑う。
「驚くことじゃない。おれも弱い」
家族に縁がないこと。独りに慣れていたこと。それは姫良だけでなく、紘斗も同じだ。
*
ふたりがのんびりと普段どおりにすごせたのはその日が最後で、翌日からは息つく間もなく時間が駆け抜けた。
婚姻届はプロポーズから二日後の“ありがとう”の日、三月九日に出すことを決めて、翌日には貴刀家に報告と承認を得、それからパスポートや渡航の手続きだったり、家の片づけだったり、福岡に飛んで紘斗の祖母と父親と会ったり、知香たちから歓送会を開いてもらったり、落ち着かない。
なかでも緊張したのは、紘斗の母親に会ったときだ。
横浜から出てきた
長谷川塔子は、確かに紘斗の母親だった。すらりとラインの整った顔立ちがよく似ている。
彼女は離婚直後から、長年の夢を叶え、友人たちとこぢんまりしたフラワーアレンジメントの会社をやっているという。そして、再婚をした塔子は、吉川から長谷川姓に変わり、小学生の子供が一人いる。
父親の家族に対してそうするように、紘斗は母親を含めた長谷川家に対しても距離を置いている。生存確認みたいな連絡はたまに取り合っていても、特に塔子とは、紘斗が大学に合格して東京に出てきたばかりの頃に会ったきりらしかった。
そのせいか、レストランで顔を合わせたなか、紘斗はいつものように淡々としていたが、塔子は終始、気を遣っていてぎこちない。その実、紘斗が緊張しているのもわかる。
塔子のことはずっと聞きだせなくて、それは紘斗の心情が理解できるからで、けれど、結婚を機に姫良は会ってみたかった。
そうしてみて、今日があって、わかったことがある。
今日、三月最後の日曜日、空はすっきりと晴れ渡っている。貴刀家の広大な庭は花たちがこぞってカラフルに開き、風が花たちの香りを運んでくる。
とりわけ、姫良が両手で持ったブーケからはその優雅さと相まってうっとりするほど薫ってくる。
今日は結婚の前途を祝っての食事会というだけのはずが、貴刀家に来てみればごく親しいなかで手作りの結婚式というサプライズが待っていた。貴刀家の面々に哲と知香が加わっている。
温かい日差しに守られながら、テラスで宣誓をし、祝福の言葉が続き――
アーメン。
と、締めくくられてライスシャワーが降り注ぐ。
「姫良お姉ちゃん、きれい。ほんとのお姫さまみたい!」
簡易な結婚の儀式を終えたとたん、
結礼がテラスに上がって姫良に駆け寄ってきた。白いミニ丈のウエディングドレスからブーケ、そして頭にのったティアラという順で、きらきらと憧れを宿した瞳が見上げてくる。
「ありがとう」
「なんでおれが神父役かわかんねぇけど、まあそういうのもいいかもな」
形を整えるために健朗から無理やり聖書を持たされ、神父として駆りだされた哲は用意されていた手順を追い、たどたどしくながらも儀式の進行係を務めた。
「そういうの、って?」
「おれのまえで誓ったんだ。破棄しようっていうんなら、おれの
屍を越えなきゃなんねぇってことだ」
哲はにやりと紘斗を見やった。
「気のすむまで監視していればいい」
「おれを立会人にしたのが運の尽きだ。気がすむことはねぇよ」
「望むところだ」
不敵な笑みを交わすふたりに姫良が半ば呆気にとられていると。
「姫良には心強い人間がついてくるようだ」
「ほんとに」
満足げに笑みを潜めた一成に続いて早苗が相づちを打つ。
「姫良はここが似合ってるのに」
ぼそっと漏らしたのは健朗だ。
「悪いな、掻っさらって」
失笑がさざめくなか、紘斗が少しも悪いと思っていない声音で応じる。
健朗がふてくされそうになった表情を慌てて立て直したのを見て、姫良はこっそり笑った。
「おまえから頼まれたこと、引き受けたからにはまっとうする」
紘斗は意味不明なことを口にしたが、健朗には通じているらしく、頼むんじゃなかった、と注意していないと聞きとれないくらいのつぶやきを漏らした。
「紘斗さん、結婚したからって油断できませんね」
知香はくすくす笑いながら忠告した。
「油断してそうだって思ったときは、活を入れてくれると助かる」
「遠慮なく」
「友だち連れて遊びにきてほしい」
「もちろんです! ニューヨークは行ったことないし、夏くらいには行きたいかも。姫良、その頃には観光案内できるくらい慣れてるといいよね」
「がんばってみる」
「哲ちゃんも一緒に行こうよ」
「知香、おまえ、おれに勉強よりも死ぬほど働けって云ってんのか。お嬢さまたちの贅沢三昧旅行に付き合えるか」
「ボディガードで雇うから。哲ちゃんいると心強いじゃない?」
「それ、いいかも。哲ちゃん、合気道もやってたっていうし。ね?」
「姫良、おまえが来てほしいっていうんなら社会勉強ならぬ、世界勉強兼ねて行ってやってもいい」
口を歪めた哲はそう云って紘斗をちらりと見やった。
「来てくれたらうれしいけど」
姫良は隣に立つ紘斗を振り仰いだ。
「いいんじゃないか」
紘斗は哲の挑発を淡々と退けた。その内側では嘆息して、そうした自分が癪に障る。哲は見抜いているに違いなく、にやにやした顔つきで顎をしゃくった。
「じゃあ、取り合いっこはそれくらいにして食事をしましょう」
早苗がからかう。
「姫良のエスコートは私がする。父親は損な役回りだ。しばらく会えないぶんいいだろう、紘斗くん?」
窮極の取り合いっこ!
知香がおもしろがってこっそり姫良に耳打ちした。
「どうぞ」
紘斗は苦笑しながら応じた。励ますようにポンポンと姫良の背中をノックしたあと、哲たちを連れて会食の部屋に向かい、姫良と一成をテラスに残した。
「おめでとう。こういった日が迎えられたのも、おまえの夫になるのが紘斗くんだったからだと思っている」
一成を見上げると、幼い頃に感じていた父親という温かさがそこにあった。苦手だった気持ちもずいぶんと和らいでいる。ふたりきりでいても息苦しさを感じないのがその証拠だ。
「うん。わたしもそう思ってる。見えなかったものが見えてきている感じがしてるの」
一成は重々しくうなずいた。
「紗夜が死んでいろんな過ちを犯してきた。いまおまえが云ったように何も見えていなかったかもしれない。私の喪失感と後悔を支えているのは姫良、おまえの存在だ。おまえに係わってくることなら、いつでも口を出したいと思ってる」
姫良は思いがけない言葉に驚き混じりのうれしさ半分、残り呆れ半分で笑う。
「だから、パパ、わたしよりさきに紘斗がプロポーズするってわかってたの?」
「まわりくどくせっついたことは否定しない」
「ずるい気がする」
一成は興じた笑みを浮かべ、行くぞ、と肘を差しだし、姫良はそこに手をかけた。
かつて、偉大だと感じていた腕は、いまあたりまえにある紘斗の腕の太さとさして変わらない。それだけ、姫良と一成の距離も理解できるほどに縮んだのかもしれなかった。
会食は、哲と知香がいることもあってにぎやかに終わった。
その後は園庭に出て思い思いにすごした。知香は哲を伴い、探検だとあちこち巡っている。
姫良と紘斗は小高くなった中央にある休憩舎に向かった。
「紘斗、独りじゃなくなったね」
姫良の言葉に紘斗は立ち止まった。手を繋いでいるから姫良も必然的に止まる。そうして、姫良は紘斗のまえにまわりこんだ。
「窮屈か?」
紘斗は意外なことを訊いてくる。
「窮屈? そんなこと感じてない。紘斗は?」
「やっと落ち着けて、これからだ、って思ってる」
「うん。紘斗、紘斗には本当にありがとうって思ってる」
「なんのことだ」
紘斗の首を振るしぐさが姫良には照れ隠しにも思えた。
「紘斗のお母さんも早苗ママも同じ。感情的になることにはちゃんと理由があって、切り捨てられたわけじゃないって思えてる。このティアラも、このブーケも、それを証明してると思わない?」
右手で触れたティアラと、左手に持ったブーケを紘斗の目が追う。
ティアラには、六月のピンクパールを中心にして三月のアクアマリンと十一月のブルートパーズと月を象徴するパワーストーンが輝いている。ふたりの誕生日と結婚した日を考慮して早苗がプレゼントしてくれたものだ。
一方、ウエディングブーケは塔子が贈ってくれたものだ。早苗から連絡がいったらしい。隣県という近さから本当はこの席に招待したのだが、塔子は遠慮したという。それは避けているからではきっとない。言葉どおりに遠慮しているのだ。
夫は自分が立ちあげた会社のことで精いっぱい、やりたいことをやれずに夫を手伝いつつ、その夫が家庭を顧みなければ心が離れてしまうこともあるだろう。そんな反省のもと、紘斗の父、昌紘はいまある家族を大切にしている。一方で、財産をなくした結果の離婚は、身寄りのなかった塔子にとって、独りで生活するのすら至難だったかもしれない。
『紘斗はやさしい子なの。わたしが行ったら紘斗は戸惑うと思うわ。せっかくの日に気を遣わせるようなことはしたくないから』
式のまえ、ドレスに着替えたときに姫良がお礼の電話をすると、塔子はそう云った。
『いつか……』
云いかけてやめ、『姫良さん、おめでとう。姫良さんに負けないくらい心から喜んでるの。ほんとよ。紘斗のこと、よろしくお願いします』と続けた。
いつか。その言葉にだれもが後悔への償いを託している。
「わかってる」
「紘斗のお母さんと会えて、紘斗がパパを擁護する理由がわかった気がするの。心底から傷つけようと思ってそうする人、あんまりいないよね」
黙った紘斗は、一成と塔子を照らし合わせているのだろうか、しばらくして結論が出たように短く息をついた。
「そうだな」
「大人になるってこういうことかなって思ってる。子供の頃はただ理不尽だって思ってたことが、そうだったんだって理解できちゃうの」
「おれが大人だったら。おれは、十三のときからずっとそう思ってきた」
「十三?」
「ああ」
紘斗はかすかに笑みを浮かべた。大事にしている、とそんな気配が見えそうな静かな笑みだ。
姫良はじっと紘斗を見つめ、それから口を開いた。
「紘斗、わたし、猫を飼ってたって云ったよね。猫の名前、おばあちゃんとおじいちゃんがつけたんだと思ってたけど」
「なんだ」
「ヒロト、っていうの、猫の名前。わたしがつけてたみたい」
紘斗は目を見開いていく。
「紘斗、もうさみしくないよね?」
姫良が訊ねたとたん、紘斗はため息をつくように笑ったかと思うと顔を歪め、それを隠すようにうつむいた。そして、やはり顔を隠すためだろう、姫良を抱きしめる。ブーケがぺちゃんこにならないよう姫良は慌てて躰から離した。
「いつ、思いだした?」
「このまえ熱が出たとき」
「おれの猫、キラっていう」
「だと思った」
紘斗の躰が小さくふるえているのは笑っているせいか、それとも――。
「さみしくない。おまえは?」
「さみしくない」
きついほど掻き抱く腕のなかで姫良はその言葉を咬みしめた。その腕の強さはきっと紘斗のなかの激情を表している。だんだんと
弛んでいった。
「人前でいちゃいちゃするってどうなんだ。ガキじゃあるまいし」
哲の声がした。慌てふためき、もがいた姫良とは対照的に、紘斗はゆったりとして腕を放した。
「子供だろうと何も考えていないわけじゃない。素直になれる強さってのもあるだろ」
どこかずれた紘斗の弁解に哲は肩をすくめて応じた。
「相も変わらず余裕だな」
「哲ちゃん、妬かない妬かない。新婚さんなんだから」
知香が茶々を入れると哲が睨みつけた。
笑い声が風に乗り、戯れるように小さな渦を巻く。
「あそこで休憩しない? けっこう歩いたから疲れた」
知香は休憩舎を指差した。
「お嬢さまは体力がないからな」
「哲ちゃんはお嬢さまコンプレックスだよね。何かっていうとお嬢さまってケチつけるんだから」
「独り立ちしろって忠告だ。親はいつかいなくなる」
「いつか、って明日のことは心配しない主義」
「やっぱお嬢さまだ」
哲と知香のあとを追いながら、姫良と紘斗は顔を見合わせて笑う。
「いまがすべてだって云ったことがあったな」
「うん」
「けど、いつかはって、プリンセスという名前を持った子を捜しながらここまで来た気がする」
「でも、プリンスを見つけたのはわたし」
「違う、おれのほうがさきだ」
紘斗は即座に否定し、主張した。
二十歳の誕生日を思い浮かべてみると、確かに姫良が最初に目を向けたとき、視線が合って――ということは紘斗の目はすでに姫良にあったことになる。
「じゃあ、声かけたのはわたし。強引に名刺もらわなかったらいまこうなってなかった。紘斗は迷惑そうだったし」
「おまえが声かけなくても、こうなってなかったとは限らない。姫良がミザロヂーの常連だってことは知ってたから」
埒の明かない応酬に、たまらず姫良はくすくすと笑いだす。
その無邪気な様子は、ともすればすぐ泣きそうになっていた七歳の姫良がやっと見せてくれた笑顔を思い起こさせる。そうしたときに連なって思いだすのは、タクシーに乗って手を振り続ける姫良だ。
手を放すべきじゃなかったという後悔は紘斗に衝動を生む。
紘斗は場所をわきまえず、姫良の肩を抱いた。
「紘斗!」
肩を引き寄せながら顔を傾けると同時に、気づいた姫良が悲鳴をあげる。
再会した最初からおれには覚悟なんて必要なかったのかもしれない。
宣誓するまでもなく不動の気持ちは――
「愛してる」
その言葉でしか表せない。
姫良はびっくり眼で悲鳴を呑んだ。その瞳が笑みに変化する瞬間、ふたりの距離はゼロになる。
ずっと。
そのあとに続く切望は数えきれない。
記憶のなかから一番という瞬間を選べないように。
満たされているようで満たされない。
そんな渇望を抱いて、さみしさから姫良を遠ざける。
おれにできることは、姫良、いまはそれしか思いつかない。
2014.03.24.【CHERISH〜恋綴り〜】全20話完結
これは2006年12月にプライヴェイトブログ(現在閉鎖)でお題をいただいたことから書いた作品。
長編構想はあったものの、最初がクリスマスものだっただけに、時季やイベントを目にしたらふたりを書きたくなる、そうやって増えた物語です。
ほかにはない構成だと思うので、そのあたりも楽しんでいただけていたらうれしいところです。
足掛け9年、最初からの方から新たな方まで、お付き合いありがとうございました。
奏井れゆな 深謝