CHERISH〜恋綴り〜

ずっと片想い


 朝一番で飛び立った飛行機を降りて地下鉄で移動し、電車に乗り換えて南へと下っていく。姫良は窓際の席に落ち着いて外を眺めた。
 乗り物や建物のなかの冷気と、外の溶けそうな熱との温度差で、よけいに躰が疲れそうだ。ちまたの盆休みは終わっているうえ通勤時間帯をちょっと越えたから、電車はぎゅうぎゅうという混雑がなくて、席に座れたぶんまだましだろうか。
 ビルの合間を抜けだすといろんな町並みを越えていく。

「紘斗、福岡って東京とあんまり変わらないね。言葉は違うけど」
 傍にある出入り口に立った男の子たちのお喋りは、まるでイントネーションが違っていておもしろい。意味不明の言葉を聞くと、いまからのことを思ってちょっとだけ不安になる。
 姫良が福岡までやってきたのは観光のためではなく、紘斗が日帰りで盆帰省をするのについてきたのだ。正確に云えば、紘斗が誘ってきた。これから紘斗の祖母の家を訪ねる。
「だな。規模がちょっと違うくらいでそう変わるところはない」
「紘斗はどれくらいこっちにいたの?」
「中二から高校までちょうど五年だ」
 姫良は何気なく、その頃の自分と比べてみた。紘斗が十四歳になる年、姫良は八歳だ――と考えると、あとは思いだそうとするまでもなく、即座に共通点を見いだして目を丸くする。首を傾けて紘斗を覗きこんだ。
「紘斗、わたしが遠野になったときと同じ年だよ」
「ああ」
 相づちを打った紘斗は、それまでのおっとりした気配をわずかに変えた。静かな水面に葉が落ちて波紋が広がった感じだ。
 紘斗は東京から福岡へと、姫良がいた場所から遠く隔たっていたのに、同じ時期に同じ――もしくは似たような思いでいた。不思議な共有感を見いだすのは強引すぎるだろうか。
「偶然?」
「そうともいう」
 紘斗は曖昧な云い方をした。わざとらしくて、からかっているともとれる。
「同じことがあるってほっとするかも」
「親父も仕事を休んでちょっと帰ってくるらしい」
 紘斗は姫良には応えず、唐突に話題を変えた。
「ほんと? 紘斗と似てたら緊張しそう」
「どういう意味だ」
「無口で喋らない」
 紘斗は吹くように笑った。
「同じこと繰り返してる。喋らないのはそうかもしれないけど、貴刀社長より気さくだ」
 紘斗がわざわざ一成のことを持ちだすということは、五月に会ったとき緊張していたようなことを云ったのは本心だったということか。それとも、姫良をうまくリラックスさせる急所を握っているのか。
「あ、そっか。パパよりマシって思ったら気がラクかも」
 能天気に気分を切り換えると、紘斗は可笑しそうにして片方だけ口角を上げた。


 吉川家は、電車を降りて、さらにタクシーに乗って十五分くらいかかる場所にあった。周囲に家は建ち並んでいるが、ちょっと遠くには山が見えて、裏のほうには田んぼが見えて、その向こうは大きな川があるらしく、土手になっている。
 戦後まもなく建てられたという吉川家はそれなりに年季が入って見えるが、風情があって、姫良は勝手に懐かしいという感情を覚える。
 出迎えてくれた、七十歳を超える紘斗の祖母は、想像していたよりずっとしゃきしゃきしていて姫良を驚かせた。遠野の祖母がずっと床に伏せっていたせいだろう。祖母というのは弱いものだとなんとなく思いこんでいた。
 紘斗の父親、吉川昌紘(まさひろ)もまた、想像していたイメージとは違った。紘斗は母親のほうに似ているのかもしれない。例えば角が角張っているか丸っこいか、それくらい顔立ちは紘斗よりも昌紘のほうが温和だ。
 昌紘は、経営していた会社と同じ畑で、高登(たかと)不動産という、その業界ではトップクラスの会社に勤めている。福岡支社で課長の肩書きを背負っているから、それなりに落ち着きは見える。紘斗が間に入って紹介し合ったかぎりでは、挨拶言葉以外を昌紘が口にすることはなく、喋らないというのは紘斗自身が認めていたとおりのようだ。ただし、姫良の父親のように威厳ばかりが目立つというわけではない。
 ひとまず義理一遍の挨拶を交わしたあと、仏壇のある座敷に通された。

「疲れたやろう。ちょうど今日は“よど”でね、よど饅頭作ったとよ。口に合うかどうかわからんけど食べてみてね」
 仏壇に手を合わせたあと、座敷に用意されていた座卓に着くなり、おばあちゃんはお饅頭の入った菓子盆を置いた。
「よど?」
「子供の夏祭りのことだ。地味だけどな。あとで連れてってやる」
「ほんと? 楽しみ。よど饅頭って柏餅と似てる」
「こっちは“いげ”の葉を使ってる」
「じゃあ、いただきます」
「サルトリイバラの葉なんよ。水をつけながら剥がしていくと葉っぱはきれいに取れるから」
 姫良がよど饅頭を手にしたと同時に、おばあちゃんは紘斗を継いで説明しながら、水の入ったコップを差しだした。紘斗がするのを横目に、見よう見まねで、濡らした指先で葉と饅頭の境目を撫でてみた。ちょっと葉を引っ張ってみると、きれいに取れていく。
「おもしろい」
 姫良がぽろっと云ってしまうと、子供っぽかったのだろう、紘斗は忍び笑い、おばあちゃんはうれしそうにうなずいた。昌紘もにこやかにして、誘われたようによど饅頭を取った。少しだけ、姫良の緊張もほぐれる。

 そのあと、お昼用にと畑で野菜を収穫してくるというおばあちゃんに、みんなでついていった。興味津々で率先して畑に入った姫良だったが、さっそく苦手な虫に遭遇して悲鳴をあげる破目になった。飛び跳ね方があまりに滑稽だったのだろう、おばあちゃんにも昌紘にもひどくおもしろがられた。それがきっかけでずいぶんと打ち解けられ、昌紘がさきに虫をチェックしてくれるようになって、姫良も臆することなく楽しめた。

「貴刀グループの社長が父親だと聞いた」
 紘斗がトマトでいっぱいになったかごを持って家に戻っているうちに、昌紘が姫良に話しかけてきた。
「はい」
「紘斗には迷惑をかけないようにする」
「え?」
 どういうことなのか、ぴんとこなくて姫良は首をかしげた。
「私の借金のことは聞いてるだろう? 紘斗は打ち明けたように云っていたが」
「あ、そのことでしたら聞いてます」
「紘斗にはずいぶんと犠牲を強いた」
 昌紘の声は姫良が察せられるほど後悔に満ちていた。
 自分の会社を倒産させてしまうことがどれくらい苦辛であるのか、姫良にはわからないけれど、いまの迷惑をかけないという意味はわかった。もともと夫婦仲が悪かったとはいえ、そのせいで離婚までして、紘斗がいくらすましていようと内心が穏やかだったはずはないこともわかっている。
「そのことは大丈夫です。わたしの父も知ってることだし、紘斗を疑うことはないです。おじさまのことも」
「ありがとう。そう云ってもらうと気がらくになる」
「わたしは、紘斗とのこと、父の会社とか地位とかとは関係のないことって思ってます。だから逆に、紘斗やおじさまを不快にさせるかもって心配です。わたし、父とは気が合わなくて」
 昌紘は可笑しそうにうなずく。
「うちも似たようなものだ。紘斗のことは母たちに任せきりで、本当に何もしてやれなかった。話すことさえ、あまりなくてね」
「ふたりともお喋りじゃないから、きっとそれが普通だと思うけど」
 姫良がおどけると、昌紘も笑みを浮かべた。
 ためらった喋り方や、紘斗と似たいまの笑い方を見ると、昌紘が無口なのは内気さからくる不器用さの裏返しなのだと思えた。
「そうかもしれないな。実を云えば、貴刀社長から昨日、会社で連絡を受けたんだよ」
 姫良は思ってもみなかったことを聞いて目を見開いた。
「父が?」
「娘をよろしく、とね。貴刀社長は、気を合わせたがっている、と見受けたが」
 昌紘の冗談ぽい言葉に、姫良は曖昧に笑いながら肩をすくめた。
「福岡に来ること、父には云ってなかったのに。父はわたしより紘斗と話すことのほうが多いかも」
「親子なのに姓が違うから何かあったというのはわかるが……貴刀社長の片想いらしいね。私もそうだろう。紘斗は再婚のときも一言も文句は云わなかった。気を遣って、年に一回は、家内と、義理になるが弟たちに顔を見せてくれる。父親のくせに紘斗に甘えてばかりだ」
 紘斗がやっていることは、入りこめない距離があって、それに相伴って、邪魔はしたくないという気持ちがあり、かといって嫌っているわけでもないと意思を示すため――そんな姫良の処世術と似ている気がした。
「紘斗は、おじさまの借金返済のことは、おじさまのけじめだって云ってました。紘斗はおじさまのことちゃんと見てるんです。紘斗、けじめだって云って父に真正面からぶつかっていったから」
「貴刀社長に?」
「はい」
 昌紘は一頻り笑ったあと、ほっとしたように息をついた。
「姫良さん、君も紘斗をちゃんと見てくれているようだ。ありがとう。これからもよろしく頼むよ。私のこともね」
 昌紘は最後、ちゃめっ気をだして付け加えた。
 笑い合っていると、紘斗が畑に戻ってきた。何か云いたそうに姫良を見やったが、結局は何も云うことはなかった。
 姫良が自ら志願して手伝った収穫ははじめての体験で、暑さも忘れて小学生みたいにはしゃいで終わった。

「こんなのしかできんけど、夕方は娘たちが来てくれる。そしたら、おごちそうたい」
 お昼時、姫良が食事の準備を手伝っていると、おばあちゃんは恥ずかしいのか照れているのか、どっちつかずの笑顔を浮かべて云った。
 昌紘は東京にいたことがあるだけに、姫良に合わせて地元の言葉はほとんど使わない。一方で、おばあちゃんのイントネーションは独特で、姫良を楽しくさせる。姫良が充分ついていけるくらいのんびりした喋り方で、聞き慣れない言葉がただ新鮮だ。
「こんなの、って、おばあちゃん、お野菜は自家製でしょ。しかも取りたて! わたしにとっては贅沢。おばあちゃんが送ったトマト、紘斗からもらって食べたけど、あんなに甘いトマトははじめて! 美味しかった。この金瓜(きんうり)も!」
 姫良の手伝いは素麺を茹でるだけだ。おばあちゃんはトマトやオクラにきゅうりと切りそろえている。そのまえに、金瓜というメロンに似たものがめずらしくて、おばあちゃんが切る傍からつい摘み食いしたのだが、甘みがなんともいえず美味だった。
「紘斗はそういうこと云わないし、うれしかねぇ。紘斗はいいお嫁さんばもらったよ」
 “お嫁さん”という言葉に目を見開いた姫良だったが、おばあちゃんはかまわず、「紘斗のこと頼んどくね」と続けた。
「ばあちゃん」
 姫良が何を応える間もなく、居間のほうから紘斗が鋭く口を挟む。振り向くと、父親と仕事の話をしながらくつろいでいた紘斗が、咥えた煙草を摘みとって「よけいなこと云うなよ」と続け、ため息なのか笑ったのか、その口もとに煙を散らせた。
 云い方が子供っぽくて姫良は笑った。
「あら、怖い怖い」
 おばあちゃんはおどけて肩をゆすった。

 しばらくして紘斗と昌紘がまた話をしだすと、おばあちゃんはこっそり教えてくれた。
「紘斗はさみしがり屋なんよ。昌紘の離婚は知ってるでしょ。こっち帰ってくるとき、紘斗は東京から猫を連れてきたんやけど、また東京に行くときも迷わず連れていったんよ。去年、死んだって聞いたときは心配になったけど」
 おばあちゃんは中途半端にいったん話を止めた。用意している刻み海苔が顔にでもついているのだろうかというくらい、しげしげと姫良を見つめている。
「おばあちゃん?」
「キラちゃんて名まえは、東京ではあたりまえやろうか?」
 おばあちゃんの話はいきなり変わった。
「え? ……あまりいないと思います。同じ名まえの人にはまだ会ったことないから」
「縁やろうなぁ。紘斗はなんにも云わんけど……」
 おばあちゃんは独り言のようにしみじみと口にした。
 続きを訊ねるにはなぜかためらわれる気配で、姫良が迷っているうちに野菜素麺はできあがって訊かずじまいになった。
 夏野菜をトッピングして、三杯酢をかけて食べるという素麺ははじめてだったけれど、素朴ということは贅沢なことだと思ってしまうくらい、そして、手土産に持ってきたお洒落なラスクよりもずっとずっと美味しかった。


 昼食後ゆっくりしたのち、紘斗は口にしたとおり姫良を外に連れだした。
 夏祭りはわいわいしたにぎやかなものではなく、ひっそりとしたお宮で、中学生の女の子たちが巫女さん役をして参拝客にお菓子を配る、という行事ごとだった。
「紘斗か?」
 習字紙に包んだお菓子をもらって階段をおりかけていると、正面から驚いた声が紘斗を呼びとめた。紘斗を見上げると、同年代らしき男のひとに目を向けて首をひねっている。
「ああ。久しぶりだな」
「てか、帰ってくんなら連絡くらいしろよな」
 と云った彼の顔が姫良のほうを向いた。彼が抱っこした、小さな女の子が合わせて振り返る。「もしかしてカノジョ連れ?」と、さらに驚いたふうで、彼は神様と遭遇したみたいに頓狂な声で訊ねた。
 紘斗は肩をそびやかして返事をすかした。そのしぐさといい表情といい、友だちにしては歓迎した様子が見られない。
「こいつは中高んときのダチで――」
「おれは橋本勝紀(まさのり)。それと、子供の桃音(ももね)
 紘斗をさえぎって橋本は自ら名乗った。
「遠野姫良です」
「キラ?」
 またもや頓狂な声を出し、橋本は目を丸くして紘斗を見やっている。
 紘斗の友だちとはじめて会えたうれしさはどこへやら、姫良の笑顔には怪訝さが混じる。めずらしい名まえだとは自覚しているけれど、こうもあからさまだと不躾すぎる気がした。
「そういう反応するから会わせたくなかったんだ」
 紘斗の云い方は険悪だ。橋本を認めたとき(かんば)しくない面持ちだったのは、姫良の勘違いではなかったようだ。
「あ、大丈夫。聞き直されるのはよくあることだから……」
「いや、そういう意味じゃなくて――」
「勝紀」
 紘斗が鋭い口調で、弁解しかけた橋本の名を呼んだ。けんかを吹っかけているみたいなイントネーションだったが、橋本はなぜかにやにやしだした。
「姫良ちゃん、いくつ?」
「二十一です」
 姫良が答えると、何か思案、もしくは計算するように橋本は宙に目を走らせた。
「ずっと東京?」
「生まれてからってことならそうで――」
「もういいだろ」
 紘斗は姫良までもさえぎる。橋本の口もとは、“にやり”どころではなくめいっぱい広がった。
「そっかそっか。何があったか知んないけど、そういうことだな。紘斗ってさぁ、女に惚れて付き合うってこともなかったし、弱点がなくておもしろくない奴だって思ってたけど、最大の弱みが“キラ”ちゃんだとはなぁ」
「気安く呼ぶな」
「はいはい。ほかの奴にもご法度のお触れを出しといてやるよ」
「パパ、あっち」
 桃音が退屈したように階段の上を指差す。社殿からは女の子たちの「桃音ちゃん」と親しそうに呼ぶ声が聞こえてきた。近所同士、仲良く付き合えるということがうらやましく思える響きだ。
「おう、行くぞぉ」
 桃音に答えたあと、橋本は「じゃあな。また連れてこいよ」と相変わらずのにやついた顔つきで云い、姫良が会釈している間に、紘斗とふたり軽く手を上げ合ってふたりの脇を通っていった。

「おばあちゃんも東京ではわたしの名まえ多いのかって不思議そうにしてたけど、橋本さんもそう。こっちの言葉で“きら”って何か意味ある?」
 渋面だった紘斗の顔が、質問したとたんに緩んだ。おもしろがるというよりは、安堵したような気配だ。
「何もない」
 なんだろうと思って紘斗を覗きこんでも、あっさりした一言返事がきただけで終わった。
「狐につままれるってこういうことかも」
 紘斗はくちびるの端をわずかに上げながら、促すように顎をしゃくった。
「わたし、弱点?」
 姫良は日傘を差しながら、もう一つ気になることを問いかけてみた。
「説明できない」
 なぜか苦笑いした紘斗は一言で姫良の探究心を退けた。

 それから紘斗が連れていったのは土手だった。
 土手の上の道まで出ると広い川が下に見えて、河川敷はサイクリングができるようにアスファルトが敷かれていた。向こう岸もきれいに整備されているようだ。
 紘斗は土手の階段をおりかけてすぐ草むらに入った。高架橋の傍まで行くと、ちょうど日影になったところで紘斗は草の上に腰をおろした。
 暦上、残暑というとおり、まだ太陽は力を見せつけたがっているようで、日影でなければこんがり焼けそうだ。川から吹きあげてくる風が、暑さをまぎらせてくれて少しだけ心地いい。
「お菓子出して、その紙を敷けばいい」
 日傘を畳んでちょっとためらっていると、紘斗はそう云って手を差しだした。
 紘斗の手のひらにお菓子をこぼしてから、姫良は草の上に習字紙を置いてお尻をのせた。スカートの上に飴や駄菓子が降ってくる。飴を摘むと包みを開けた。

「地味なお祭りは、伝統っていうよりならわしって感じでいいね。食べる?」
 姫良は梅味の飴を口に含んでから、スカートの上にのったお菓子を指差す。
「おれはいい。東京にも残ってるとこあるんじゃないか。開けたとこばかりにいるからわからないだけで」
「そうかも。今年、紘斗と初詣した神社もそういえばいい感じだった」
「あのとき、おまえ、逃げた」
「……え?」
「前進したなってことだ。今日は誘っても来ないかもしれないと思った」
 確かに、半年まえなら避けていたかもしれない。けれどいまは――
「紘斗のこと、もっと知りたいと思ってるから」
「そう思われるほど、いま隠してることはない」
「ある!」
 姫良がすぐさま紘斗の云ったことを否定すると、隣から怪訝な面持ちで見下ろされた。
「なんのことだ?」
「ここに来ること、パパに云ったよね?」
「いないって騒がれたら困るだろ。おまえがわざわざ云うとは思えなかったし」
 紘斗の云うことはもっともだ。
「でも、日帰りだよ」
「けど、社長に話したことは、隠してるというほどのことじゃないし、知りたいことでもないだろ」
「巡り巡って知りたいことに繋がってる」
 強引に話を戻した紘斗は、そうなのか、というかわりに首を傾けた。

「怒るほどのことじゃないはずだ」
「怒ってるわけじゃなくて。パパ、紘斗のパパに電話したって」
「過保護だな」
 紘斗は片方だけくちびるを上げてにやりとした。
「パパはわたしに片想いしてるって紘斗のパパが云うの」
「云い得て妙だな」
「紘斗のパパもね」
 紘斗はあり得ないといったふうに笑うと、頭の後ろで手を組みながら草むらに横たわった。
「親父と何を話したんだ」
「秘密! っていうほどでもないけど。ただ、紘斗に悪かったって。甘えてるって云ってた」
 しばらく紘斗は黙っていた。昌紘が紘斗に直截(ちょくさい)に云ったことがないだろうことは想像がついていたけれど、姫良には打ち明けても、紘斗には云わないほうがよかったかもしれないと不安になる。
「そう思われるようなことされてないし、してないけどな」
 やがて、紘斗はぽつりと云った。そして――
「姫良、貴刀社長も同じだ」
 と静かに云い、今度は姫良が黙りこんだ。

 あまりに長く離れていると、どんなふうに触れていたかも話していたかもわからなくなる。嫌いとはけっして云えなくて、かといって近づくこともできない。
 互いがどちらも気づかないまますれ違ってしまえば、追いかけることも呼びとめることもかなわない。それならば、片想いでも、その気持ちが在るだけで繋がっていられるのだろう。ただ、いつか貴刀家が苦手ではなくなるときがくるのか、姫良には想像もつかない。

 ふと、川面から寝そべった紘斗に目を移すと、さほど姫良が黙っている時間は長くなかったと思うのに、その目は閉じられていた。
「紘斗」
 そっと呼んでみたけれど反応はなく、紘斗は眠っていた。
 商社は世界にまたがっている以上、盆休みなど関係なく、昨日も帰りが遅かったようだし、今朝は今朝で早かったから疲れているのも無理はない。
 姫良がいなければ気遣うこともなく、もっと実家でのんびりできたかもしれないのに――そう思うと、やはり誘ってくれたということに紘斗の気持ちが見えてうれしくなる。
 この瞬間の気持ちは姫良の片想いだ。
 知らなかったことを話してくれたり、だれかに教えてもらったり、今日いくつもあったその瞬間の片想いは宝物を手にしたような気持ちになれる。
 同じ時に同じぶんだけの両想いはどこにもなくて、いつもどちらかに偏っている。両想いだからではなく、片想いの連鎖があるからふたりでいられる。そんなことを思った。


 *


 ――さみしくないですよね?

 草の薫りにささやかな水流の音が混じる。

 ああ。さみしくない。
 応えるたびに、嘘吐きだ、とだれかが指を差す。
 どうせ独りなら独りでいることのほうが何より安らぐ。
 そう思っていたはずが――。

 胸に感じる重みに手を触れた。

 温かさはいつも途切れることはなかった。


「キラ」
 つぶやいたとたん、キラは大の字で寝ていたのか、胸の上から素早く重みが消え去った。猫のくせに、仰向けという無防備な恰好に気づくと恥じらいを感じるらしい。が――。
「重かった? ごめん」
 思いがけず言葉が返ってきて、紘斗はぱっと目を開いた。眠っている間に時間が退行していた。場所が場所だからなのか。
 ほぼ真上から笑って覗きこむ姫良が目に入ると、“ずっと”、そんな言葉が口を突いて出そうになる。
 ずっと――そのあとに続く気持ちを言葉にするなら何がいちばんふさわしいだろう。
「悪かった。ここでよく寝てたんだ」
「悪いことない。子供っぽい紘斗の顔が見れたから。わたしも眠くなったけど、紘斗のこと、襲われないように守らなきゃって思って」
 姫良はふざけて首をすくめる。

 そう――おれはずっと守られていた。
 さみしくないという強がりを知っていたのは紘斗自身だ。
 足掻いている間に姫良は紘斗の記憶をなくし、それでも姫良は紘斗を繰り寄せた。キラがそうするように、つかず離れず付き纏う姫良。あまりに長い間、独りでいたからしばらくは素直になれなかった。嘘吐きだと自分から指を差される自分が、逃げない、と決められたのは、姫良が憶えていなくても深層で気持ちを共有してきたと知ったからだ。それは、紘斗の勝手な切望が見いだしたことかもしれない。
 ただ。いろんなところからいろんな人間が雑踏する場所で、ふたりが交差したあの時は偶然で、それならば、偶然と必然は対義語じゃなく同義語だ。
 そんな結論に、長かった片想いの時間も報われている。

「姫良」
 続けた“ずっと”――その言葉は音にならず。
「何?」
 聞きとろうとして無意識に近づいてきた姫良の顔を引き寄せた。小さく悲鳴をあげて開いたくちびるをふさぐ。

 ずっと会うかもしれない時を待ってきて、そうなったところで落ち着かない。片想いという気分は、これからも、ずっと、続いていくのだろう。


− The End. −

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