CHERISH〜恋綴り〜

銀杏の透き間


 春とも夏とも空は変わらないのに、秋になると、晴れていても不思議と静けさを気取(けど)らされる。十一月に入ってから、出かけるには薄手のコートが必需品になった。昼間、天気がよければいらないのだが、とっくに日が落ちたいまはさすがに冷える。温度差についていくのがたいへんな季節だ。

「ねぇ、姫良。もう帰ったんじゃない?」
 五時ちょっとまえから待つこと二時間、十階建てのビルに入った、一階の喫茶店のなか、知香(ともか)が小ぢんまりしたテーブルの向こうからつぶやいた。テーブルに肘をついて、その手のひらに顎をのせているから余計に退屈そうに見える。
「まだだよ。見逃すはずないんだから」
 そう云う間も、姫良は真向かいの貴刀ビルから目を離さないでいた。
「おなか減ってるんだけど」
「ちゃんと(おご)るよ」
直帰(ちょっき)ってことないの? うちのお兄ちゃん、よくやるよ」
「紘斗はそんなことしない。遠くの出張ならともかく、どうやっても会社には帰ってくるよ」
「確信するじゃない?」
 知香はうんざりした口調から一転、おもしろがった声だ。ちらりと見ると、何か云いたそうにくちびるを歪めてにやついていた。
「……勘だけど。……何?」
「健気だなぁって思って。哲ちゃんのときにはないパターンだよね」
「哲ちゃんは約束してるから待つってことがないだけ。紘斗の場合は不意打ちだから」
「ふーん」
 知香の相づちは納得している響きではない。
「へんな誤解しないで――あ!」
 姫良は小さく叫んで表情を止めた。
 暗がりでも、背後からは貴刀ビルの灯りが、正面からは外灯が、と、相まって紘斗の姿をくっきりと映しだす。
「出てきた!?」
「……うん。でも……」
 ためらったすえ、姫良はきっぱりと立ちあがった。
「知香、とにかく出るよ。支払い、頼んでいい? あとで渡すから。見失わないようにさきに出てる」
「オッケー」
 知香は軽快に了承して席を立ち、姫良はコートとバッグをつかんで出口へと向かった。

 外に出るとすぐ、向かい側の歩道をゆっくりしたペースで歩いている紘斗を探し当てた。遠目でも、そのすっと背を伸ばした歩き方は紘斗そのものだと区別がつく。等間隔に並ぶ、銀杏の木の向こうに一瞬だけ姿が消えてはまた現れる。
 その隣に女性がいるのは予定外だった。
 いや、今日――五日は紘斗の誕生日で、それをカノジョとお祝いするという予定があっても当然至極だ。

「姫良、終わったよ。それで、どこなの?」
 知香に応えて姫良は指差した。
「あそこ。いま、パン屋さんのまえ」
 パン屋が入ったビルは四つ角にあって、ちょうどふたりの姿はそこを折れて消えた。
「姫良、早く追いかけなくちゃ」
 知香は彼女――美春を通りすがりとでも判断したのか、同伴者と気づいていない。
「向こうに消えたってことはミザロヂーだよ。カノジョと一緒みたい」
 姫良がなんでもないことのように云うと、知香のほうが落胆して息を吐きだす。
「じゃあ……帰る?」
「ううん。行く」
 姫良が矢庭に宣言すると、今度はこれ見よがしなため息が聞こえた。
「姫良って訳わかんない行動するよね。いまだについていけないんだけど」
「知香が会って話してみたいって云ったんだよ。わたしはそれを叶えてあげようってしてるだけ」
「わたしが口実なわけ?」
「鋭いとこ、突いてる」
「さっきの続き。『誤解しないで』って、じゃあ何ってことじゃない?」
「いいから。行くって決めたんだから早く追いかけるよ」
 笑ってはぐらかした姫良に向かって、知香はてんで呆れたとばかりに首をかしげた。

 道路を横切ってミザロヂーのある通りに入ると、ライトアップされた銀杏の木に迎えられた。ビジネス街とは思えない幻想的な佇まいだ。銀杏の葉はまだ緑色だが、そのうち一気に金色(こんじき)に変わるだろう。
 通りの奥へと目をやると、ミザロヂーのまえあたりでまた紘斗の姿は消えた。
 追っても追っても距離が縮まることはない。それは姫良が望むことなのに、立ち止まって振り向いて、そんなことを願う。
 追いかけてミザロヂーに入ると、今日はビジネスマンという客層がメインのようで、店内は落ち着いた雰囲気だ。お喋りをする声は低く、くぐもって聞こえる。そのなか、グラスにビー玉を落としたときのような、軽やかな笑い声が混じり、温かい空間を演出している。
 平日でも人が多いというのは、ミザロヂーではいつものことだ。いまはそれが姫良にとっては絶好のコンディションでもある。

「どうするの」
 知香が耳打ちした。それに答える間もなく、顔見知りの給仕がやってきた。
「遠野さま、いらっしゃいませ。申し訳ありません。ただいま空席が――」
「あ、よければ」
 姫良が口を挟むと、お辞儀をしていた給仕は背を伸ばす。
「どう致しましょう?」
「ん――っと……」
 戸惑う給仕を尻目に姫良は店内を見渡した。程なくその姿を探し当てる。
「いま来たカップル。そこに同席したいんだけど」
 姫良が指差す方向を向き、目を戻した給仕は困惑顔になった。
「お約束でしょうか?」
「してないけど、知り合いなの。ちょっとだけだから。知香、ココモ・コーラでいい?」
「いいけど大丈夫なの?」
「わたしはメロン・ボール。それからテーブルにボランジェ」
 知香の心配した声をよそに姫良がお酒の注文までしてしまうと、給仕はプロフェッショナルに一礼した。その実、ため息をつきたい気分だろう。

 奥に案内されて、給仕が立ち止まったと同時に、姫良はその横から顔を覗かせた。
 メニュー表を見ていた紘斗は、なんだ、という面持ちで顔を上げた。給仕に向けるつもりだった目は、さきに姫良を捉える。あからさまに瞳には怪訝さが浮かんだ。あるいは邪魔だといわんばかりの眼差しだ。
「“お兄ちゃん”、ちょっといい?」
 給仕が何か云うまえに、知香がよく口にする発音を真似て姫良が呼びかけると、紘斗の眉間に縦じわが寄る。不機嫌な口が開くと――。
「妹さん?」
 美春がさきに声をかけた。
 紘斗は一人っ子と聞いた。美春もそれを知っているとしたら――いや、知らないほうが不思議な気もするけれど、そうだったらアウトだと思っていたのに、彼女の声に不審そうな響きはない。
 波風を立てたいわけではなかったから姫良はほっとうなずいて、美春に続き紘斗の矛先を制した。
「はい。姫良です。一緒させてもらっていいですか。デートの邪魔はしたくないからちょっとだけです」
 最後はちゃめっ気を出して付け加えると、美春は空いた席に手のひらを向け、「どうぞ」と促した。すっと伸びた手はきれいだし、首をかしげたしぐさからいちいち優雅だ。
「ありがとう。お邪魔します。お兄ちゃん、こっちは小学校からの友だちで早瀬知香。知香、わかるだろうけど、こっちが紘斗、それから、カノジョの前田美春さん」
「はじめまして。すみません、すぐ帰ります。姫良が紘斗さんに誕生日のプレゼントを渡したいそうだから」
 知香は思いもしない事の次第に舞いあがっていて、紘斗と美春をかわるがわる見ながら余計なことまで云う。
「知香」
 “時すでに遅し”ながらも姫良は呼びかけたあと、がっかりとため息をついた。
「そういうことだろうな」
 紘斗は呆れ返った様で応じた。
 かすかだろうと紘斗の驚く顔が見たかったのに、姫良は知香を制しているうちにその瞬間すら逃してしまった。サプライズは台無しだ。
「そういうこと! さきにメニュー決めて」
 姫良は開き直って投げやりに勧めた。正面の席に着いた知香が、ごめんというかわりに胸の下でちょっとだけ手を合わせた。
 一方で、紘斗は素気なく姫良を一瞥して、「だそうだ」と美春を促す。
 成り行きを見守っていた給仕は、「お決まりになりましたらお呼びくださいませ」と、おそらくは肩の荷をおろして立ち去った。

 まもなく、紘斗が注文をするのと入れ替わりに、頼んでおいたカクテルとシャンパンがやってきた。
「わたしからだから遠慮しないで」
 紘斗のため息が聞こえるくらい、給仕はシャンパンの栓を静かに開けた。グラスに注がれるのを待って、「誕生日おめでとう」という美春の艶っぽい音頭で乾杯した。
「これ、高いわよね」
 一口だけ飲んだあと、美春がテーブルの真ん中にあるシャンパンボトルを指差す。
「よくわからないけど、たぶん。美味しいって教えてもらったから」
「だれに――?」
「姫良、もうプレゼントはもらった。早く飲んで帰れ」
 美春をさえぎって紘斗が無情に云い放つ。姫良は笑って首をかしげた。
「シャンパンはプレゼントじゃなくてデートへの差し入れ。紘……お兄ちゃんへのプレゼントはこっち」
 呼び捨てしそうになって慌てて云い直しながら、姫良は背後に置いたバッグを取った。なかから十五センチ真四角の紙袋を取りだすと、紘斗のまえに置いた。
「なんだ?」
「いま開けてみてもいいけど」
 いかにも気が進まなさそうな視線が向けられる。
「紘斗、開けたらいいじゃない?」
 美春が後押しをしたことで、紘斗は渋々とプレゼントに手を伸ばした。

 紘斗が手を打って喜ぶなどとはもちろん思っていなかった。身内――哲も姫良にとっては身内みたいなもので、そんな身近な人以外で、男の人への畏まったプレゼントなんてはじめてのことだ。紘斗なら、ともすれば迷惑がるだろうとも思った。それでも買ったのは、何か理由がないと忙しさにかまけて会えないとわかっているから、誕生日だといって会う口実が欲しかったのだ。
 向かいの知香は当惑した顔で姫良を窺う。少なからず気分は沈んでいるけれど、いつもそうするように姫良は笑って見せた。

 紘斗は斜めかけにしたリボンをほどき、シールを剥がしてなかの小箱を取りだした。ふたを開けると、ブラウンとシルバーという、ノーブルなツートンカラーのバングルが収まっている。
「姫良」
 その声はやっぱり喜んでいるふうではなく、むしろ険しい。
「あ、あのね、アクセサリーは趣味じゃないかなって思ったけど、シックだし、紘斗のきれいな手には似合いそうだったから」
 姫良は早口でまくしたてた。紘斗はますます目を細めた。
「そういうことはどうでもいい。高価なものをもらって喜ぶ奴はいるけど、おれは違う。自分が働いて買ったっていうんならまだしも、おまえ、まだ学生だろ。このワインだって開けてなきゃ返したいくらいだ。これは持って帰れ」
 テーブルは気づまりな様相でしんと静まった。
 姫良は紘斗が押しやったプレゼントを見つめるだけで顔を上げられず、息することさえままならない。
「酷い!」
 沈黙を破り、小さく叫びながら抗議したのは、姫良ではなく知香だった。とっさに顔を上げると、ずっと成り行きを見守っていた知香は酷く顔をしかめている。
「知香、いいよ」
「よくないでしょ。だって姫良は苦手なお義母――」
「知香!」
 鋭く知香の名を呼びながら姫良は席を立った。
「姫良……」
「帰るよ。じゃ、またね。美春さん、お邪魔してごめんなさい」
 まずは知香、そして紘斗に向け、最後に美春に会釈した。
「謝ることないわよ。会えて光栄だわ。ワイン、ごちそうさま」
 美春のお礼に「いいえ」と再び会釈すると、姫良は知香を待たずにプレゼントを持って席を離れた。
「せっかく……!」
 知香は云いかけ、それをため息に変えた。背後から「お邪魔しました」という、知香の慇懃(いんぎん)無礼な挨拶が姫良にも届いた。


 *


 早瀬知香が姫良に追いつき、なぐさめるためか、磁石がくっつくように躰を寄せる。紘斗が短く息を吐くと同時に前菜が運ばれてきた。

「驚いた」
 普通なら気まずいという雰囲気をものともせず、給仕が去ると美春がつぶやく。驚くというよりは興じている印象を受ける。
「何が?」
 気分を一掃するかのように首を軽く横に振って紘斗は問いかけた。
「いろんなことに気をまわしてるくせに淡々としてるのは紘斗のスタイルだってわかってるけど。いまのはそれ以上……というより全然違う。紘斗って非情になれるのね。妹だから遠慮なくてそうなれるんだろうけど」
「美春が大学生のときにこういうワインが買えたかって話だ」
「普通に買えないわね」
 美春は肩をすくめる。そして何か思い当たったような顔になって、「そういえば」といったん言葉を切った。
「なんだ?」
「紘斗って妹いた? 全然、聞いたことないんだけど。それに、あの子たち、ここの常連よ。いつだったかしら、云ったでしょ。夏だったかな? そこで騒いでた子たち。明らかにお嬢さま集団。知香って子は早瀬って云ってたから、早瀬自動車じゃない? 吉川っていうのは思いつかないんだけど、紘斗ってもしかしてどこかの――」
「違う。そうじゃない。おれの両親はずっとまえに離婚したんだ。どっちも再婚してる」
「なるほど。姫良ちゃん、お母さんのほうに行っちゃったんだ。紘斗って呼び捨てするのも離れているせい?」
「……だろうな」
 美春は良くも悪くも頭がまわる。紘斗が普段から自分のことを話したがらないと知っていて、自分でいいように誤解した。
 面倒くさい弁解から逃れて、紘斗にとっては具合がいい。そう思ったところで、ふとした自分の言葉が引っかかった。
 弁解……?
 何もない姫良との間に弁解という言葉は不適合だ。
「でも、あんなふうに追い払うなんて、妹さんじゃなきゃ泣いちゃうわね。私だって泣かないまでも傷つくわ」
 つと、紘斗はナイフとフォークを持とうとした手を止めた。そして、ため息をつき、椅子を引いた。
「紘斗?」
「すぐ戻る」
 紘斗は席を立って店の出入り口に向かう。

 だれにもおれの弁解は必要じゃない。
 ただ、あのとき――おれのために傷ついた姫良が“さみしい”ことに苛立つ。


 *


 精算を終えて、一度も紘斗のほうを振り向かないままミザロヂーを出ると、横に並んだ知香は不満を丸出しにして息をついた。おかげで姫良のため息は掻き消された。
「知香、何を食べる? おなか減っててなんでもかんでも食べたい気分だけど」
「わたしは怒り心頭で食べる気分じゃないんだけど」
 知香のつっけんどんな答えは御方(みかた)である証拠で、姫良を心強くさせ、美春には敵わないという惨めさを追い払った。

 美春はしぐさにしろ、気遣いにしろ、そつもなければ嫌みもない。張り合うつもりはないけれど自分の至らなさが目立って、加えて紘斗を不機嫌にさせたのを見られたことに滅入っていた。
 そんな自分のかわりに知香が(あらが)ってくれたことも救いだった。
 紘斗はまた会ってくれるだろうか。
 その不安を飛ばすように、姫良は薄らと笑い声を漏らした。

「知香が怒る必要ないでしょ。紘斗はいつもあんなふうだから慣れたよ。それに、云ってることはそのとおりだって思う」
「お人好し。あれは男のヘンなプライドだよ。イイ男だと思ってたんだけど。妹じゃないってばらして一波乱くらい起こしちゃえばよかったのに。哲ちゃんのほうが――」
「姫良」
 突然、姫良は名を呼ばれた。

 空気の抵抗を縫ってくるような通る声は確認するまでもなく――立ち止まって振り向くと紘斗がそこにいた。

「気をつけて帰れよ」
 ちょうど二本の銀杏の間隔ぶん離れているところから紘斗が声をかける。
「うん」
 返事した声は届いたのか、姫良がうなずいたあと、紘斗はそこに少しだけ留まってからミザロヂーのなかに消えた。
 それだけで。

「……いまの何? ……というより……」
 知香がきょとんとした声で云い、次には首をかしげる。姫良はくすくすと笑った。
「たぶんね、紘斗はやさしいんだよ」
「……というより、ひねくれてない? やっぱり紘斗さんも『じゃあ、何?』みたい」
 知香は意味不明なことを云って独り小さく吹きだした。不満が収まったのは確かだ。
「知香、おなか減ってきたでしょ。どこの店に行く?」
「略奪愛よりも、無理やり離れていることのほうが悲劇なんだから。それなら一緒に食べられるお鍋がいいわ!」
 知香は訳のわからない運びで食べたいものを主張した。
「このさきに新しくできた店あったよね」
「ちょっと距離ない? タクシー、呼ぶ?」
「歩いていいじゃない。銀杏の木がロマンティックだし、店に着く頃にはあったまってるかもね」
「女同士でロマンティックなんて間が抜けてる」
「そう? わたしは知香のこと、好きだけど」
「そんな問題じゃないでしょ。そう云う相手が間違ってることは確かだって云っておくから」
 姫良は笑ってあしらった。

 照明に照らされ、夜のなかに浮かびあがる銀杏は、闇に身を捧げるようで遠近感をぶれさせる。振り向くとやっぱり銀杏だけが目立つ。戻るべきなのに戻れない、進もうとしても見知らぬ場所ばかりで目的地を見いだせない――そんな異世界へと誘うような街路だ。
 それは姫良のなかにある紘斗への距離感に似ている。
 振り向いてと願わなくても、呼び止められることがあって――それだけで。そんな気持ちが生まれるのなら、なおさら戻ることはかなわない。
 姫良は、もう一度、と振り返った。それは幻想的な(かげ)のせいだろうか、ずっと以前、こうやって振り向いていた記憶がぼんやりと浮上する。
 その向こうに見ていたのはだれだったのだろう。
 その姿が闇に閉ざされているのは、それが夜だったからなのか、ただ単に、記憶の底に沈んでしまって見えないということなのか。

 紘斗。
 呼び慣れた名がそっと口から飛びだした。

− The End. −

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