CHERISH〜恋綴り〜

Hello, Dear.


 噂には聞いていたが貴刀邸は紘斗の想像を超えた洋館だった。昭和四〇年代に建てられたというがその趣は戦前にあった華族の豪邸を思わせる。一成が話した復活への闘魂――財閥解体から伸しあがってきた貴刀のプライドかもしれない。
 一メートルの塀の上に二メートルはありそうな錬鉄(ロートアイアン)の柵があり、個人の家にしては広すぎる敷地内をぐるりと取り囲んでいる。防犯のためだろうか、なかは丸見えで柵をよじ登ることはできても、頂上は狭い間隔で錬鉄が大きく外巻きになっていてまず乗り越えることは不可能だ。貴刀邸は建物まで含めて野球場くらいの広さがありそうだ。
 門さきに来ると、タクシーは人専用の出入り口から出てきた守衛に止められた。車窓からなかを覗いた守衛は、紘斗を怪しい(やから)でも見るようにじろりと眺めまわし、何を気取ったのか、もしくは、それに伴いなんらかのデータをその頭にインプットし終えたのか、躰を起こすと紘斗に向かって敬礼した。再び覗きこみ、隣に座った姫良を見れば強面を穏やかに変える。
 即座に門扉が開かれ、タクシーは敷地内に入って洋館へと続く道をゆっくりと走った。
 車道を境に、右側は石畳と天然砂利を使った自然色のアスファルトが広がり、左側は一面の芝生と噴水やらオブジェ、背の低い木がぽつぽつと程よく配置されている。その景色を一言で表すなら“優雅”だろう。建物の奥へと目を向けると、こっち側とは別の庭園があるようで、洋館はほぼ敷地内の中央に建てられていると見当をつけた。
 夏まっさかりの盆休みだが、車道の両脇には花壇が造られていて、グリーンとカラフルな花の色がわずかに真っ昼間の暑さを和らげる。

 紘斗がため息をつくと姫良がおもしろがって覗きこんできた。紘斗の手のひらに姫良の手が忍びこんでくる。
「呆れた?」
「おれはこぢんまりしたところがいいかもしれない」
 うやむやに云うと、姫良が紘斗の手を心持ち強く握った。
「わたしもそう思う。せっかく同じ家のなかにいるのなら、すぐお喋りできるほうがいいから」
 姫良らしい答えだ。
 今日は盆参りの一環として、姫良の母親である紗夜の墓参りをしたあと、貴刀家を訪れた。
 貴刀家への訪問については、なぜか一カ月もまえから紘斗のほうに“里帰り”の話があり、姫良に伝えたのだが、最初にその話をしたときははっきり渋った。一成が紘斗を使ってくることも気に入らないようだった。
 八月に入って再度さり気なく口にしてみると、のり気ではないものの、去年が紘斗の実家に帰省したこともあり、『今度はわたしの番かな』と遠まわしな返事で受けいれた。いまもはしゃぐ感じではないが、憂うつでいっぱいという雰囲気もない。紘斗は“大丈夫か”とかいうことはあえて云わないことにした。
「あれは?」
夏生(なつき)の家」
「財閥の時代からずっと仕えてるっていう?」
「仕えてるっていうよりは貴刀を取り仕切ってるっていったほうが正確かも」
「へぇ。普通の家よりでかいな」
 それは洋館の斜め後方の場所にあって、景観が損なわれないようにだろうか、貴刀家と同じく洋館の構えで、別館にも見える。
 正面を見やると、エントランスに近づくにつれ、一人めは黒服の男性、二人め三人めは女の子と男の子、四人めはすらりと背の高い少年、というふうに次々と人が現れた。その光景はどこか滑稽(こっけい)で、そう感じるのは姫良も同じなのか、くすくすと笑う。

 タクシーが止まり、紘斗たちが降り立つのと、迎えに出た彼らが短い階段をおりてきたのは同時だった。
「姫良お嬢さま、おかえりなさいませ。吉川さま、ようこそお越しくださいました」
 黒いスーツを着た男性は六〇代だと思われた。四十五度をすぎるほどの一礼でふたりを迎える。
「夏生、ただいま」
「お邪魔します」
 姫良が気安く応じるのに続いて紘斗が会釈すると、夏生は堅苦しい表情を一転させ相好を崩す。
「紹介するね。さっき話していた夏生家の家長の夏生泰生。隣が夏生の孫になるんだけど、今月十才になったばっかりっていう四年生の結礼(ゆらい)と二年生の大智(だいち)
 夏生家の姉弟は躾けられているようで、おずおずとではあるがきちんとした姿勢でお辞儀をする。
「こんにちは」
 挨拶言葉を交わしながら、持ってきたお菓子を渡すと、緊張が解けたようで幼い顔いっぱいに笑顔が咲く。
 そして、紘斗は姫良の異母弟、貴刀健朗を向いた。いつものことながら健朗と対面すると、穏やかな様とは裏腹にいつも挑むような気配を感じる。
「吉川さん、いらっしゃい」
「遠慮なく伺わせてもらった。お邪魔するよ」
「どうぞ。僕が案内します」
 健朗は十六才でありながらも物腰は柔らかであり、自分が同い年だった頃を思い浮かべるとどう努力しようと及びもつかないノーブルな出で立ちだ。はじめて会ったのは一年くらいまえになるが、その間にも健朗は急速に大人びた。背の高さも紘斗に迫っている。
「姫良、おかえり」
 あらたまって云う健朗の顔に、姫良にしか向かわない、慈愛とでもいうべきか、そんな表情が浮かぶ。
「健朗、これ紘斗とわたしから。好きそうなTシャツ」
 姫良が包装された箱を健朗に渡した。そこは少年らしく、「サンキュ」と素直にうれしいという面持ちを見せた。
 これまで外で数回ほど食事会をしてきて貴刀家と慣れ親しんだ感はあるものの、はじめて家を訪ねるとなると手土産の一つも必要だろう。そこまで考え至ったのはいいが、何不自由ない富豪なだけに贈り物は下手なことになりかねず、紘斗にしてはめずらしく迷った。
 それを助けたのは姫良だ。先週、買い物に付き合っていたとき、ふと姫良が通りかかった店に目を留めた。健朗に似合うかも――その一言に紘斗はのった。
 紘斗は泰生にケーキの入った箱を手渡し、それを見届けた健朗が手招いた。
「じゃあ、どうぞ」
 紘斗がうなずくのを確認すると、健朗は夏生が開けたドアから家のなかに入って先導した。後ろからはちょこまかと夏生の孫たちがついてくる。泰生がたしなめるものの、健朗は気にしているふうでもない。姫良が云っていたとおり、使用人というよりは親戚のような関係に近い印象だ。

 家のなかは外観と違わず、西洋風の調度品で着飾られていた。かといってちぐはぐな派手さはなく、多すぎることも少なすぎることもなくシックに纏められている。靴を脱ぐ必要もなく、薄らとマーブル模様をしたぴかぴかの床が続く。模様ではなくまさに大理石(マーブル)だろう。
 健朗は奥へと進み、突き当たりにある両開きの扉を開いた。室内をざっと見渡すと、ばかに大きい楕円形のテーブルが陣取っている、こぢんまりとした部屋だった。
「姫良ちゃん、おかえりなさい。紘斗さん、いらっしゃい」
 軽やかな第一声を発した早苗とともに一成が迎えに出てきた。挨拶を交わして案内されるままテーブルに着席する。紘斗と姫良は隣同士で、反対隣に健朗、姫良の向こうに一成、斜め向かいに早苗と座った。隣といってもその間はもう一人が余裕で入りそうなくらい空いている。
 心細いんじゃないか。そんな干渉しすぎともいえることを思いながら姫良を見やると、ちょうどその目が紘斗を向く。姫良が小さく笑い、紘斗のほうが落ち着かされたかもしれない。
 結礼たちの父親、夏生洋助が給仕役のようで、前菜がそろえられると乾杯から食事は始まった。

「会長夫妻はご不在ですか」
「里帰りを兼ねて軽井沢の別荘に出かけた。毎年恒例でね」
「里帰り?」
「母が長野出身でね」
「同行されないんですか」
「夫婦水入らずというのもいい。めったにないからな」
「父さん、親子水入らずじゃないんですか。でないと、僕は邪魔者ですね」
 健朗がちゃかすと笑い声にさざめいた。そのなか、早苗が呆れたようにテーブルの上で手を広げる。
「健朗、あなたはお盆休みになると部活がないとかいって聖央くんたちと遊びほうけちゃうんだから、いないのも一緒でしょ。紘斗さん、健朗が家にいるのは今日くらいなのよ。姫良ちゃんが来るからって」
 健朗はサッカー少年で、キーパーをやっている。一年生ゆえにまだレギュラーというわけにはいかないようだが、その高校は全国レベルという。
「そのとおりです、母さん」
 早苗がからかっても健朗はどこ吹く風であっさりと認めた。早苗はオーバージェスチャーで肩をすくめる。彼女はそういったしぐさもまったく違和感がない華やかな女性だ。
 姫良を見やると、その口もとに困惑した笑みが浮かんでいた。貴刀家と会うたびに感じるのだが、おどけたりふざけたり、時には怒ったり拗ねたりという、そんな感情が姫良から一切消えてしまう。あるのは、いま見せている取り繕った微笑みだ。
「姫良、ライバル多いな」
「……ライバル?」
 からかってみたが、姫良は意味がわからないようで、場に打ち解けるよりも目を丸くして紘斗を見つめた。
 確かに、健朗は弟であり対象外だろうし、哲は姫良にとって“天使”というし、おまけで紘斗と哲は仲がいいと思っている。いや、仲が悪いわけではないが――。
 紘斗は肩をすくめて姫良の疑問をすかした。
 ほかの三人には通じているらしく、一成は口を歪め、早苗は忍び笑い、当の健朗はやはり挑むように顎をしゃくった。

「そういえば姫良ちゃん、卒業祝いにアクセサリー一式どうかしら。質のいいピンクダイアモンドが入荷したんだけど、姫良ちゃんのイメージなのよね。いつか店に来ない?」
 早苗はわだかまりなく軽快に姫良に話しかける。その実、早苗は息を凝らして姫良の返事を待っているに違いない。
 姫良もまた微笑で困惑を消し去り、おそらくはよく考えもせずにうなずいている。あとでため息が零れそうだと紘斗は予感した。
 一方で早苗はうれしそうに笑い、それから在席者の顔を一巡した。
「ついでに宝石の話していいかしら」
「かまわんが……」
「いいよ」
 ためらって答える一成の後押しをしたのは姫良だ。反対隣を見やると健朗は辟易した顔をした。見間違いかと思うほど、紘斗と目を合わせた瞬間にそれは消えてしまう。
「ありがとう。知っておくといいのは冠婚葬祭で使う真珠。女性には必要でしょう。本物とプラスティックを見分けるには珠と珠を擦り合わせてみるの。つるつるして引っかかりが感じられないのはプラスティック。本真珠は生きてるものだからちょっとざらざら感があるの。色も変わっていくし。押し売りで騙されたっていう人、けっこういるのよ。姫良ちゃんの場合はうちで調達すればいいんだから間違いないけど」
 早苗は茶目っ気たっぷりに首をすくめる。
 ミザロヂーのみならず、早苗は高級宝石店も営んでいる。もともと実家が貴金属を扱う会社を経営していて、それが幸いしたということだ。どちらも一般人向けとは云いがたいが、それなりの経営手腕を持っているのか上客が多く、うまくいっているという。
 その自信もあるのだろう、それからの食事会はほとんど早苗の独擅場(どくせんじょう)と化した。

 食事のあとは別の部屋へと繋がる扉が開放され、そっちの部屋へと移動した。テラスがあって、そのさきには正門からはよく見えなかった庭が広がる。小高くなった場所があったり、休憩舎があったりとちょっとした公園のようだ。
 テラスは風通しがよさそうに感じるが、この時季、暑さが和らぐことはないだろう。と思った矢先、食事のときはいなくなっていた夏生姉弟が駆けこむように現れた。
「姫良お姉ちゃん!」
「そうだね。遊んじゃおう。健朗もね」
 姫良は結礼の呼びかけに張りきったふうに答えた。
「オーケー」
 即答した健朗はテラスを開け放つ。そこから子供たちが一気に駆けだし、姫良と健朗が続いた。
「あらあら」
 早苗の口ぶりは呆れた様だが、表情は楽しそうにしていて、姫良たちを見送るようにテラスへとついていった。
 外から入りこんでくる風とクーラーの風が混じり合って心地よく室内の空気を循環させる。
 室内に残った紘斗と一成は、最近の円高の話から経済を中心に対話を発展させていった。日本を代表する企業のトップだけに、一成の話は興味深く、紘斗にとってはこれ以上にない仕事上の糧になる。

 そういうなか。
「紘斗くん、今日はありがとう」
 一成はとうとつに感謝を口にした。
「……なんのお礼ですか」
「紗夜の墓には行ったかな」
「はい。ここに来るまえに」
 一成は深くうなずき、重々しく語りだした。
「十八年まえ……紗夜の初盆は姫良の楽しみだった」
「楽しみ?」
 意外な言葉に思わず問い返した。
「私が云ってしまったんだよ。盆は紗夜が帰ってくる日だ、とね。姫良はその年まだ四才だ。その言葉をまともに受けとってもなんらおかしくはない。紗夜が帰ってくるのをずっと待っていた。そして、私が嘘つきだと云いながら泣き寝入りした。いまだに後悔している。それが姫良の信頼を損なった発端かもしれない。遠野家に引き取られて以来、今日の日に姫良が帰ってきたことはない。君がいてくれることで姫良が“今日”帰ってもいいという気持ちになれたのなら……いや、そうだろう。私は二重に安心している」
「二重に?」
「姫良の傷が癒えつつあること、姫良に君という存在があること、だ。そういうことで私が心配することはもうないだろう? もちろん、普通に心配するというのは絶えないが」
 紘斗は吹くように息を吐き、一成は怪訝そうに紘斗を見やった。
「何が可笑しい?」
「いえ。遠野家のほうの姫良のおばあさんにも同じことを訊かれました」
「ああ……会ったことがあるんだったな。それで、君はなんと答えたんだ」
「大丈夫ですよ」
「なるほど」
「では社長、お墨つきをもらったということでいいんですね」
「なんのことだ」
「姫良をいただきます。すぐにではありませんが」
 一成は豪快に笑いだした。
「交渉の好機を逃さないとは、やっぱり君は大したもんだ」
「畏れいります。煙草を吸ってもいいですか」
「かまわん。私にももらえるかな」
「どうぞ」
 煙草に火をつけ、一息吸いこんで吐きだした。一成が同じように一服するのを見計らい、紘斗は口を開いた。

「社長、一つお訊きしていいですか」
「なんだね」
 紘斗の慎重な声音を受けて一成もまた低い声で応じた。
「奥さんと姫良がうまくいかなくなって、なぜ姫良の御方(みかた)ができなかったんです?」
「優柔不断な私のみっともなさだな」
 自らを嘲るような口ぶりで、一成はまた煙草を一服すると、それから語りだした。
「紗夜は幼少の頃から許婚として私の傍にいた。それが当然でなくなった日、姫良とともに私も傷ついたのかもしれない。姫良が生まれてから、紗夜はほとんど病院にいた。当時は……いないということが理解できなかったかもしれない」
 そこで一成は詰まったようにいったん口を閉じた。
 二度も発せられた曖昧な『かもしれない』は、もしかするといまだに信じられないという気持ちを抱えているのではないかと思った。紘斗が黙って付き合っていると、一成は何かを断ちきるように首を横に振り、そしてさきを続けた。
「貴刀を後継するために親の云うまま、紗夜が死んでわずか一年余りで早苗と結婚した。紗夜のことが整理つけられていなかった私は早苗をかまわなかった。健朗が生まれるまで、早苗は姫良を可愛がっていたし、姫良も“早苗ママ”と呼んで早苗を慕った。健朗が生まれてからはじめて早苗の不安は現実になったんだろう。私は姫良を抱くことはあっても、健朗を抱くことはなかったんだ。それが姫良につらく当たらせてしまうことになった原因だ。姫良がつらい目に遭っていることを知っても私は早苗を責められなかった。そして、姫良を抱くこともやめた。それで早苗の気がすむだろうと判断した。いまではすべての自分の行いが間違っていたとわかる。最初からだ。紗夜の死が認められるまで、私は断固として早苗との結婚を拒むべきだった。人間として未熟だ。傷つけることしかしていない、私はまったく無責任な男だ。……君はそうじゃないらしいが」
 一成は沈んだ口ぶりから最後は一転しておどけた口調になった。良心的に解釈すれば、その経緯を云い訳にしたくないがためだろう。
 紘斗は、当然だと答えるかわりに首をひねって示した。それを察した一成はため息まがいで笑みを漏らす。
「社長、おれを通してじゃなく、いつか直接、姫良にそう話してもらえませんか」
「聞いてくれるかね」
「社長の努力如何(いかん)でしょう」
 一成はまたもや笑いだす。その笑い声に釣られてか、テラスにいた早苗が室内へと戻ってくる。
「紘斗くん、早苗との結婚を拒むべきだったという考えは変わらないが、誤解しないでくれ。延期するべきだった、という意味だ。早苗には内緒で頼む」
 一成が耳打ちした。次に笑ったのは紘斗だった。

「楽しそうね。笑うとおなか空くでしょう。いただいたケーキ、準備してくるわ」
 早苗は笑い声の原因も追究せず広間を出ていった。
 それは彼女の身についてしまった対処法なのかもしれないと紘斗はふと思う。早苗と初対面のとき、彼女自身からも姫良とのことは聞かされ、一成の話はそれを裏づけた。そして、早苗もまた後悔している。
 すれ違いを修復するのは難しいとあらためて感じる。だが、少なくとも貴刀家は、できないとあきらめるにはもったいない。
「おれもちょっと外に行ってきます」

 紘斗は煙草を灰皿に押しつけ、それからテラスに出ると、丘へと伸びる小道を進みながら、「姫良」と呼んだ。姫良は子供みたいに駆けてくる。
「何?」
「鼻、赤くなってる」
 日焼けした鼻に少ししわを寄らせて姫良は笑う。
「それだけ?」
「行こう」
 紘斗は肩をそびやかして休憩舎を指差した。そこまで行くと、小高くなっていて風の通りがよく、屋根もあって心なしか涼しい。“コ”の形に設置された椅子に姫良と膝を突き合わせて腰かけた。
 洋館のほうを眺めると、高低差がそうあるわけではなく、テラスから伸びる適度にくねった小道が気持ちまでも緩やかにする。
「ここならわざわざ公園に行くまでもなかっただろうな」
 姫良が斜め向かいから首をかしげて覗きこむ。
「え?」
「……いや、あの公園よりこっちの庭のほうが広いんじゃないかってことだ」
「わたしはあの公園のほうが好きだけど」
 姫良は首をすくめた。おどけているが本気でそう云っているのはわかる。
「姫良」
「何?」
「貴刀の家でおまえのお気に入りの場所……もしくは気に入ってたのはどこだ?」
 姫良はなぜそんなことを訊くんだろうという顔で首を傾けた。その片方で昔のことを思い巡ったようで、姫良はふと顔を曇らせる。
「姫良?」
「あんまり覚えてないかも」
 そう云ったときはいつもの表情に戻っていた。そして、静寂を思わせる笑みを浮かべて続ける。
「病院にいたイメージが強くてお母さんが家にいたことも曖昧なの」
 姫良はそれだけ云って、結礼たちが暑いのをものともせず芝生の上を駆けまわっているのを眺めた。しばらく待ってみたが、早苗と仲が良かった頃の思い出もあるだろうに、そのことには触れることもない。

 姫良は月命日の墓参りを欠かさない。心底で絶えず母親を求めていることを、いま姫良が云ったことで、もしくは云わなかったことで知った。
 早苗をママと呼ぶほど慕ったにもかかわらず――もしかしたら本当に母親として安心しきっていたのかもしれず、それなのに。
 そして、抱きしめてくれなくなった父親。
 姫良がどれだけ傷ついたのか。それはあの日あの公園にいた姫良を見て嫌というほど知っている。一成が紘斗に打ち明けたことも、姫良にとっての救いにはならないかもしれない。
 あの日よりももっと幼い姫良が待ち続けた母親との思い出は、記憶にさえ定かにはないのだ。一成が語った姫良の姿を思うと胸が痞える。
 おれが云えることは、助けになれることはなんだろう。時にそんな無力さが紘斗のまえに立ちはだかる。
 ただ――。
『おかえりなさい』
『帰ってきたことは――』
 ここに来て何度も聞く“帰る”という言葉。
 少なくとも、“こんにちは”ではなく“おかえりなさい”で始まることに期待を抱く。もしかしたら、“ただいま”と返す姫良も気づいて理解もしている。

「姫良」
 呼びかけると応えて姫良がこっちを向いた。
「姫良、昔の記憶を怖がることはない」
 姫良の戸惑った眼差しが紘斗をまっすぐに見上げてくる。
「紘斗?」
「それとも、おれは役に立っていないか」
「……役に立つとか、紘斗のことをそんなふうに考えたことないけど」
 姫良はどう応じるべきか迷うようにしていたが、やがて、からかいを含んだくるくるとした眼差しでそう答えた。
「それはそれで光栄なんだろうな」
 紘斗は口を歪めた。姫良のくちびるにも笑みが広がる。
 紘斗が云ったことは果たして姫良に通じているのか。通じていなくてもいま笑みが零れるということは、たとえ糸一本でもふたりは確かに繋がっているのだろう。

 そこへふいに人影を感じた。目をやると健朗で、紘斗を見ると顎をかすかに上げて自己主張を見せ、それから姫良を向いた。
「姫良、相手してやってよ。吉川さんとはいつでも会ってるだろうからさ」
 健朗は親指を立てて背後を差した。云い方は柔らかでも、ちくりとした嫌味を感じなくもない。姫良はそんなことを露ほども思っていないようで、可笑しそうに健朗を見上げている。
「わかっ――」
「お茶の時間よ!」
 姫良の返事は早苗の声にさえぎられた。
「お茶、って……さっき食べたばっかりだろ」
 健朗が独り言のようにつぶやいた。
「健朗、出てるよ」
 姫良が立ちあがって、忠告するように云った。
 何が出てるのか、直後に健朗から文句たらたらの表情が消えたことで察した。そういえば食事のときも普段にない表情が上って消えた。どうやら、紘斗が時折感じていたことは間違っていなかったようで、健朗には表向きの顔とは別の顔があるらしい。
 そして、姫良はそれを知っているのだ。健朗が姫良に害を及ぼすことはないだろうが――。
 姫良のくすくす笑いに追われるように健朗は「行こう」と、すぐさま背を向けて洋館に向かった。
 そのすきに紘斗は姫良を抱く。
「紘斗っ」
 叫び声が終わらないうちに姫良を離した。振り向いた健朗があからさまに顔を険しくした。見なかったとしても察したのかもしれない。口を歪めてみせると、健朗はハッとしたように不快さを消した。
「見られてない。それに公認だ」
「公認?」
 紘斗は肩をすくめて答えず、姫良の背中を押して健朗のあとをゆっくりとついていった。

「紘斗」
 少し歩くと姫良が呼びかけてきた。普段の口調よりもただ真剣な声だ。
「何?」
「ありがとう」
 紘斗が足を止めると、姫良も足を止める。うつむけた顔がしばらくして紘斗へと上向いた。ためらった面持ちのあと。
「きっと、紘斗は役に立ちすぎてるからわたし、わかってないかも。でも、そうじゃなかったら今日はここに来てなかったってこと、わたしはわかってるから」
 その意味を、一成から話を聞かされなかったら、紘斗が正しく把握することはかなわなかっただろう。
 薄い記憶のなかで、“今日”というその気持ちだけは鮮明に残っている。そのことは、幼かったゆえに姫良自身もうまく説明できないに違いない。
「充分だ」
 紘斗がうなずくと、姫良はここに来てはじめて本物の笑顔になった。また公認事を繰り返す。今度は叫び声のかわりに笑い声が耳もとで揺れた。


 姫良の記憶――そのなかにおれもつらい記憶としてある。
 姫良が怖がらなくなったら。
 いつの日か、おれがいた記憶を思いだすこともあるんだろうか。
 その時には、いまのような笑い声が聞けるように――そう願う。

− The End. −

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