CHERISH〜恋綴り〜
パステルカラー
「哲ちゃん、わたし、怒ってるの!」
最近は哲と会うたびに同じセリフを云っている気がする。いや、会うことは少なくなっていて、連絡すら途絶えがちだから、会うたびというよりは話すたびにといったほうが正確だろう。
今日はいままで以上に酷い気分だ。怒っているのを通り越して泣きたくさえなる。
三月の半ば、暖かくなったかと思えば寒さがぶり返すという、いまの季節に同調したような落ち着かない焦燥感は、今朝の起き抜けにあった哲からの電話に因る。
『今日の昼、北海道に行くから一年は会えない』
突然、まるで昼食を食べにラーメン屋さんに行くみたいに淡々と云ったのだ。
北海道は同じ国内だし、いつでも飛んでいけるのだが、何かあったときに、いままでみたいにとても三〇分後に会えるという距離ではない。出発するまえに会えるか、と声をかけてくれたことが姫良にとってはせめてものなぐさめだ。
紘斗も呼べ、と強制的に云われ、姫良から呼びだされた紘斗は、仕事中にもかかわらず応じた。ミザロヂーで合流したときも、食事を始めたいま、姫良の隣に座っている様子からも、紘斗は不機嫌そうには見えない。仕事といっても、今日は土曜日で自主残業だからだろうか。
向かいに座った哲は、姫良の気分おかまいなしにおもしろがった表情を見せる。
「おれもいろいろ考えられるようになったってことだ」
「でも! 今日のことなのに今日になって知らせるって酷いって思わない?!」
「黙って行ってもよかったんだけどな」
その一言だけで哲は姫良の小言放出を止めた。哲ならあり得ることで、気まぐれに電話が来たとき、例えば、いまアメリカだ、と云ってもおかしくはない。
かすかに口を尖らせることで不満を示しながら、姫良は右隣に座る紘斗を見上げた。紘斗までからかうように左側の口端を上げ、それからその目は哲に向いた。
「なんで北海道に居つくんだ?」
「居つくってわけじゃねぇ。東京から離れてみたくなった。けど、一年後はこっちにいるはずだ」
確信に満ちた声に姫良は首をかしげた。あまりに端的な報告に気を取られて、肝心なことを聞いていなかったことに気づく。
「哲ちゃん、北海道に何しに行くの?」
「勉強だ」
「勉強?」
「大学に行こうって思ってる」
「北海道の大学に行くの?!」
「じゃねぇだろ。そうしたら一年で帰られない。脳みそ凍ってるからさ、勉強をやり直さなきゃなんねぇ。金いるし、実云うと去年の六月から、いろんなとこにちょこちょこ建設関係の出稼ぎ行ってた。そんなかで北海道行って、地元に住んでた車好きのオヤジとたまたま会って意気投合ってヤツ。息子が塾の講師でさ、受験勉強に関しちゃ協力してくれるっていうし、そのオヤジが車の整備工場やってて住みこみで働かせてくれるっていうし、おれにとっては渡りに船だな」
姫良は半ば唖然として今更の哲の告白を聞いた。去年の夏くらいから連絡があまりなくなったなと思っていたら、そもそも東京にいなかったのだ。
「おれは余計なこと云ってたらしい」
なんのことか、紘斗はかすかに首をひねって笑い、対して哲は肩をそびやかした。
「んなことねぇ」
ふさいでしまいそうな姫良をそっちのけにして、ふたりは通じ合っているように口を歪めた。
「で、どこ目指してんだ?」
「青南大の経済学部だ。そこ出てる親父から勧められたっていうのもあるし、あそこは成績次第じゃ学費を優遇してくれる」
「ああ。たしかに、青南の経済学部は国立一の京東大より優秀な人材が多いって聞くな」
「哲ちゃん、親父ってお父さんいるの?」
哲が目指すのがどこの大学であろうがどこの学部であろうが姫良にはどうでもよく、ただ、はじめて哲の口から家族の存在を聞かされた気がして、そのことのほうが関心を呼んだ。
違う。関心という言葉は甘すぎる。姫良の中で、哲のことを知りたい気持ちは一年まえから確かになっている。
哲は高笑いをして、ほかの客の目を引く。当の本人はどこ吹く風でテーブルに身を乗りだした。
「姫良、おれが何から生まれたと思ってんだ?」
「そうじゃなくて、ずっと独りだって云ってたから」
なんらかの理由で家族とは疎遠なんだろうと察していたのだが、いまの哲の云い方は良好な関係にあるように思えた。
「嘘は吐いてねぇ。おまえと会うまえ、一時期は音信不通だったし、いまはうまくいってるけど顔合わせるのは年に数える程度しかない。たぶん、おれは“家族”って場所が苦手なんだろうな」
似た者同士。哲が何気なく云ったことにそんな言葉が浮かんだ。
急ぐわけでもなく昼食を終わると、三人そろってミザロヂーを出た。哲が車を止めている駐車場は貴刀ビルとミザロヂーの間にあり、程なく着いた。
「哲ちゃん、何時の飛行機?」
「飛行機じゃねぇ。このまま車で行く」
「車で? 北海道まで?」
「正真正銘の車オタクだな」
驚ききった姫良の横で紘斗はおもしろがった様で口を挟んだ。
「疑ってたのかよ」
「いや、呆れてる」
「おれにとっちゃ、誉め言葉だ」
哲は鼻で笑い、車に乗りこんだ。
車を覗きこむと、哲らしいというべきか、荷物の量はトランクで充分なようで、座席は前も後ろもいつもと変わりなくスカスカだ。
「哲ちゃん、居眠りとか事故とか気をつけて。それから、着いたら電話でもメールでもいいから連絡してくれるよね?」
「ああ。途中、休んでくし、連絡は明日だ。起きて待つなんてまったく無駄だからな」
「わかった」
返事したあと、ちょっと不自然じゃないかと疑うくらいの一秒か二秒、哲は姫良に目を留めていた。それが紘斗に向くと、哲は薄気味悪く片方の口端を上げた。
「紘斗、おれがいねぇからって余裕カマしてんじゃねぇぞ」
「東京離れたいって、哲、逃げてんじゃねぇぞ」
その掛け合いは、“アイツ”から“紘斗”と“哲”に変わったというのに、姫良からしたらわけのわからない挑発に聞こえた。
哲は鼻で笑い、それから傍に立った姫良を見上げた。
「姫良、またな」
「うん。いってらっしゃい!」
窓から出した手を上げ、哲はまっすぐ前を向いて車を出した。
姫良と紘斗は車を追うように駐車場から出ると、まったく視界から消えるまで見送った。
「哲ちゃん、一回も振り返らなかった」
文句たらたらで云うと、紘斗が姫良の背中に手を当てて歩くように促した。振り仰ぐとかすかにその口もとが笑っている。
「桜、見にいく」
紘斗はまるっきり話を変えて強引に誘い、姫良は目を丸くした。
「仕事は?」
「電話あってからハイスピードで仕上げた」
「哲ちゃんのおかげでデートできる!」
うれしさ満面の姫良とは対照的に、紘斗はちょっとだけ眉をひそめる。
「おれの実力だ」
いつにない自己主張が紘斗の口から飛びだす。
「……そうだろうけど?」
どうしたんだろうと見つめていると、紘斗はつと目を逸らし、ため息を吐いて何かを振り払うように首を横に振った。
「前向いて歩かないと転ぶぞ」
まるで子供に対する注意だ。何をどう思ったのか知らないけれど、さっきの紘斗の云い方のほうがよっぽど子供っぽいのに。ほんの少し眉間にしわを寄せて抗議したあと、姫良は云われたとおりに前に向き直った。
「桜ってどこ行くの?」
「去年、行ったところだ」
「紘斗が住んでたっていう町の公園?」
「ああ」
「そこ、子供のときよく行ってたの? お気に入り?」
答えはなく、姫良が歩きながらまた紘斗を見上げると、少し間を置いた後に見下ろしてきた。
「あそこは中学んとき――福岡に引っ越す直前にできた公園なんだ。また東京に帰ってきてからのほうがよく行ってる。お気に入り、というよりは……忘れたくても忘れられない場所になってる」
紘斗の声は淡々としていて、いつものことだが感情の心底が見えない。
「……忘れたいの? 離婚のことがあるから?」
「いや。それが関係なくはないけど、あの場所に対する気持ちは別次元のことだ。強調で云っただけで、忘れたい、と思ったことはない。むしろ――」
紘斗は中途半端に言葉を切ってしまう。姫良は少し待ってみてから覗きこむように首をかしげた。
「むしろ?」
「ずっと支えになってる。忘れたくない場所だ」
紘斗の口調は断固としていてごく真剣だった。
公園に入ると、まえと同じく、姫良の中に既視感みたいな何かが渦巻く。なんだろう。心細さと安堵という相対した自分の気持ちに押され、半歩先を行く紘斗の手に触れた。
姫良の手を握りながら紘斗の目が向く。その表情が可笑しそうに緩んだ。
一年まえ、紘斗がずっとずっとやさしくて穏やかだったのは、姫良が祖母の死で投げやりに沈んでいたからだろうと思っていたけれど、いま、そのせいばかりじゃないとわかった。
この場所では紘斗の雰囲気が微妙に変化する。いつも――自分の家にいてもどこか気を張っているみたいなところがあるのに、ここでは何を云っても怒りそうにないくらいリラックスしてみえる。
そんな紘斗の様に、姫良の心細さも浄化されていくような気がした。
公園の中は日差しを受けて、芝生の緑が自ら光を出しているかのように鮮やかに発色している。親子だとか子供たち同士だとか、楽しそうな声が公園中を心地よく通り渡る。
そのなかで、たぶん定位置なのか、紘斗は止まることなく桜の木に挟まれた池を目指した。
池の周りに咲いた雑草みたいな花たちが、景色をカラフルに彩っている。手を繋いだまま、姫良は池の縁にしゃがみ込んだ。
「紘斗、これ、去年ホワイトデーにもらった花――雪割草だよね。一年まえに来たときも咲いてた」
紫色の花を指差しながら紘斗を見上げると、逆光になっていてよく表情が見えない。
「ああ。……なんで笑う?」
小さく吹きだした姫良に、呆れているような声が降りかかった。
「紘斗、ここがホントに好きなんだなって思って」
紘斗が肩を少し動かしたのがわかった。座って見上げているのも疲れてきて、また花に目を戻した。
「雪割草、わたしみたいって。だから、紘斗のお気に入りの場所にわたしはずっといたのかなって……ちょっと……ううん、すごくうれしくなった」
からかうか、もしくは鼻で笑ったりするかと思ったのに紘斗は黙っていて、そのかわりに姫良の手を一瞬強く包みこんで、それから離れた。
「桜きれいだけど、見るのにはちょっと早かったね」
「また来ればいい」
「うん。……一年、なんだ」
まだ咲きはじめといった桜を見上げながら、姫良はゆっくり立ちあがった。紘斗はすぐ傍にある白いベンチに腰をおろす。
「どうした」
「桜の季節って嫌いだった。やさしそうにしてるくせにお別ればっかり押しつけられてるってイメージがあるから。今年も、やっぱり春は哲ちゃんを連れていった」
「姫良、不安か?」
紘斗は去年と同じセリフを口にした。
「そうでも、去年とは全然違うの。同じ自分なのにどこか違ってる。桜って、一年ていう時間がちゃんと自分の中に在るんだってこと、教えてくれるんだね。一年まえ、紘斗が強引に連れてきてくれなかったら気づけなかったかもしれない。おばあちゃんが死んでしまってすぐは、紘斗がいるから大丈夫って思った。でも、紘斗がいるから何? って思うようになって……」
紘斗の手が姫良の手をつかんだ。桜から紘斗に目を移す。今度は姫良のほうが見下ろす立場だ。
「紘斗、あきらめないでくれてありがとう」
血が繋がっていることは関係なくて、心配してくれる心が傍にあること。それがどんなことより温かい。
「去年は駄々こねてたな」
「……わがまま云ってただけ!」
紘斗はかすかに首をひねりながら静かに笑った。ちょっと癪に障って手に力を込めたけれど、痛みを与えるどころか逆に握りしめられる。
「痛い!」
「もう少し体力つけろよ」
「運動しろってこと? 面倒くさいし、きついからいい」
「やっぱ、お嬢さまだな」
姫良はおどけて首をすくめると紘斗の隣に座った。
「紘斗と一緒だと、家族じゃなくっても春みたいに温かい気分でいられる。パパたちとは木の葉散ってる秋って感じだけど」
「社長が泣くな」
「これでも、せめて“九月”まで戻そうって頑張ってる。哲ちゃんも家族じゃないのにあったかい。またね、って云ったし、来年この桜を見られる頃には近くにいるんだよね。哲ちゃん、もう東京出ちゃったかな」
姫良が云い終える頃、笑っていたはずの紘斗があからさまにため息を吐いた。
「どうかした?」
紘斗は答えることなく首を横に振り、それから奇妙に沈黙してしまう。話す気分じゃなさそうだ。
不思議に思いつつも、紘斗がお喋りじゃないことは百も承知で、姫良は砂場にいる子供たちを眺めた。原色のバケツやスコップが砂の中で賑やかに散らばっている。三カ月後には二十二才になるという姫良が楽しそうと思うのだから、子供たちが笑っているのはあたりまえだ。
幼い頃は自分もあんなことをして遊んだことがあっただろうかと、姫良は記憶をたどってみた。けれど、もともと記憶は薄く、イメージさえも浮かばない。
「姫良」
しばらくして紘斗が姫良を呼んだ。
「何?」
「哲はともかく……おれと姫良が家族になれる方法はある」
「え……――?」
はじめはピンとこなかったが、紘斗の言葉を頭の中で復唱していくうちに、含まれた意味がわかった。姫良は目を見開く。
「それって……プロポーズ……?」
「まずはおれの意思表示だ。延長上でそういうことになる」
果たして喜んでいいのかどうか、迷走しているような云い方だ。
ただ、姫良の中にこそ素直に応えるには迷いがあって、紘斗はたぶんそれをわかっている。こんなふうに一緒にいる時間があたりまえになっていくいまは、そのことのほうがうれしいかもしれない。
それに――。
「うん」
ここに来ると変わる紘斗の色。いつもが黒と見紛うくらいの群青なら、いま笑った顔は春っぽいパステルカラー。
どこよりもこの場所だから。
大事にしたい――そんな心が見えた気がした。
− The End. −