CHERISH〜恋綴り〜

天上の花−日願会(ひがんえ)


 洗濯かごを持ってベランダに出ると、洗濯物を干すのが苦痛だった夏の熱気は薄れ、深呼吸したいくらいに心地いい空気に触れた。
 同じ気温でも温度が上がっていく春とは違い、反対に温度が下がっていく秋は爽やかに感じる。空を仰げば夏と秋が混じり合う、行合(ゆきあ)いの雲が軽やかに広がっている。
 なんとなくやさしい気分になれる季節だ。それとも、姫良自身が安穏としているせいだろうか。もとをたどれば紘斗のおかげなんだろう。いや、この“だろう”という曖昧さは必要なくて――。

 独りでに微笑みが宿ったそのとき、リビングで携帯電話の音が鳴り始めた。しわを伸ばしていたハンカチをいったんかごに戻し、急いでリビングに入った。
「哲ちゃん!」
 相手がだれなのか携帯音ですでに判別できていて、姫良は通話ボタンを押すなり、叫ぶように哲の名を呼んだ。電話の向こうから、声にはなっていなくても笑う気配が感じ取れる。
『どうだ?』
「どうだ、って?」
『ああ、何やってるかと思ってさ』
「洗濯物干してる!」
 哲は、今度ははっきりと笑い声を立てた。
『そうじゃねぇだろ』
「わかってる。哲ちゃんが電話してこなくなったから怒ってるの」
『もともと気まぐれだ』
「そうだけど、電話したときくらい返してきてくれてもいいと思わない?」
 姫良が(なじ)ったにもかかわらず、哲は軽く鼻息を鳴らして()なした。姫良にしても本気で怒っているわけではなく、哲はそのあたりをよくわかっている。

『で、どうだった、福岡は?』
 哲の口調からは、連絡が途絶えていたわりに気にかけていたらしいことが聞き取れた。
 もう一カ月もまえのことになるけれど、先月は、紘斗のちょっと遅れたお盆休みを利用して福岡への里帰りに姫良も同行した。
「うん。紘斗のパパがいるところはこっちとあんまり変わらなかったけど、おばあちゃんのところは田んぼがいっぱいで、見晴らしがいいって感じ。ちょうど夏祭りがあって、そのときにおばあちゃんが作ってくれた“よど饅頭”が美味しかった」
『よど饅頭?』
「柏餅と一緒かな。紘斗のおばあちゃんのところは、夏祭りを“よど”っていうらしいの」
『へぇ、よかったな』
 姫良の声から何か滲みでているのか、哲の感想は端的でも本心から云っているとわかる。
「うん。哲ちゃんは何してた?」
『いつもと変わんねぇ』
 それこそいつもと変わらない返事だ。いつまでたっても哲のことはほんの表面のことしか知ることができないでいる。もっとも、大事なのは体裁ではなく内心であり、不思議と姫良は哲の内面に疑問や不信を抱いたことは一度もない。
 ただ、ずっと無理やりに知らなくてもいいと思ってきたのに、最近は知りたいと望んでしまうことが多い。
「ね、哲ちゃん、今日はお墓参りに行くんだけど、一緒に来ない? お彼岸だし」
『“お彼岸だし”っていう理屈を押しつけられるってのがよくわかんねぇけど。ってか、アイツと行くんだろ』
「“アイツ”じゃなくって紘斗! 仲良くなってくれたらいいなって思ってる」
『……仲良く、ねぇ……』
 姫良の言葉を繰り返すという、哲のたった一言は前後に不必要なくらい間がある。
「嫌?」
『いんや』
「もう! どっち?」
『久しぶりだし、付き合ってやる。何時だ?』
「十時にここ出るけど」
『オーケー。迎えにいく。奴には黙っとけ』
「え?」
『プライド高そうだからさ』
 哲は一方的に電話を切った。
「哲ちゃん、意味わからないんだけど」
 姫良は通話時間を示す画面に向かってつぶやき、そして首をひねりながら携帯電話をテーブルに戻した。


 一時間後、姫良がマンションのエントランスを出たと同時に哲の車が歩道に沿って止まった。
「哲ちゃん、『久しぶり』って、紘斗に会いたかった?」
「そんな趣味ねぇっていつか云ったはずだ」
 哲はニタリとして云い、姫良がその意味を理解したのはしばらくたってからだ。
「紘斗にもそんな趣味ないと思う」
「あって困んのは姫良だしな」
「絶対ない」
「――と信じてる」
 付け加えた哲を軽く睨むと、ハンドルに添えた左手が離れ、姫良の頭をつかんでぐるりと揺らした。

 紘斗が住む町の駅まで電車に乗れば各駅停車で二〇分かかるが、哲の車では三〇分だった。歩く時間を考えるとほぼ同じだ。
 到着するちょっとまえに紘斗に電話して、すぐおりる、という返事があったとおり、哲の車が止まる直前に紘斗がマンションから出てきた。
 姫良が声をかけるより先に紘斗の視線が向いた。その目が少し狭まる。気のせいかと思うほどわずかな時間でその表情は消えた。
 姫良が車から降りたところで、近づいてきた紘斗がちょうど脇に立った。
「あ、哲ちゃんを――」
「突撃訪問てやつ。気ぃ緩んでないか見にきてやった」
 姫良が云い終わらないうちに、車から降りた哲がボンネットの向こうから口を挟んだ。姫良でさえわかる挑発的な口調だ。
 目的が紘斗だとわかっていても送迎を買って出たりと姫良に協力してくれることを考えると、敵視しているというわけではないはずが、いざ会うと哲は紘斗を(あお)らずにはいられないようだ。
「何度も云うけど、余計なお世話だ」
 紘斗は姫良の頭上でふっと息を漏らしながら応じた。
 紘斗を見上げてみると、“笑っている”とは表現しがたい。いまの会話は、『仲良く』とは程遠い気がして、姫良はちょっとした困惑を覚えた。
 そんな姫良に気づいているのかいないのか、紘斗が問うような眼差しで見下ろしてきた。
「あ、だから、哲ちゃんも一緒にお墓参り」
「乗れよ」
 哲が姫良のすぐあとを継いで紘斗を促した。
「いいよね?」
 紘斗は言葉ではなく、顎をかすかに上げて応えた。
「よかった。じゃ……」
 そこで姫良はふと考えた。哲が運転席なのは当然だけれど、問題は姫良と紘斗の乗る位置だ。ふたりで後部座席に乗るには、哲を運転手にしているみたいだし、姫良が助手席で紘斗が後ろというのもどこか不自然だ。
「えっと、紘斗は前ね」
 助手席を指差したあと、顔を上げた姫良は車越しに哲と目が合った。姫良の戸惑いを見越しているように哲のくちびるが歪んだ。

「助手席にオトコ乗せる趣味ねぇんだけどな」
 三人ともに車の中に納まったとたん、おもしろがっているのか皮肉なのか、哲が口を歪めたそのままの口調で云った。
「かわってもいい」
 紘斗の声はため息混じりでも至って普通だ。
「冗談だろ」
 哲は鼻先で笑い、ギアをローに入れて車を出した。
 哲の車は国産の高級車らしく、大きくて内装も申し分ない。ただ、いまだにマニュアル車だ。哲の車に乗るようになった高校生の頃、スピードアップするたびに哲の左手がシフトチェンジするのをおもしろく思っていた。いつかそう云ったとき、わざわざオートマだった車をマニュアル車に変えたと聞かされた。姫良にはよくわからないけれど、エンジンを丸々乗り換えたとか云っていた。百万円を超えるエンジンの丸ごとチェンジも、当時、哲は自動車の修理工場でバイトしていて、そこで安くできたらしい。
「免許くらい持ってる。車は持ってないけどペーパーでもない」
 そのとおり、紘斗が借りた車を運転するのに姫良も何度か同乗したけれど、危なっかしい印象は少しも受けていない。
 それを知るはずもない哲は一笑に付した。
「おれは、相手がたとえF1ドライバーでも愛車を任せる気は更々ない」
「へぇ。車に拘ってるのか」
 紘斗は馬鹿にしたふうではなく、普通に興味を持ったようだ。
「おれの世界になくてはならないもんだ。二番目、にな」
「哲ちゃんの一番目って何?」
 姫良は後部座席から身を乗りだした。哲がちらりと姫良を斜め向く。
「姫良」
「何?」
「――じゃなくってさ」
 中途半端に言葉を切った哲の視線はルームミラー越しに姫良を向いて、それから隣の紘斗に流れた。
「カレシに訊いてみな」
「……紘斗は知ってるの?」
 いつそんなことを話したんだろうと考えつつ姫良が訊ねると、紘斗はまた笑っていない“ふっ”を漏らした。
「おれが知るわけない」
 それからへんに紘斗は黙りこんだ。もともとが喋らないからへんというわけでもないのに、姫良はなんとなくそんなふうに感じた。

「仕事、どんなことやってんだ? 姫良に訊いても(らち)が明かねぇ」
 奇妙な沈黙のなか、しばらくして哲が口を開いた。その云い様に納得がいかず、姫良は後部座席で独りくちびるを尖らせる。
「簡単に云えば業務拡張の仕事だ。貴刀グループは扱う商品に制限がないから既存の分野はもちろん、未知の場でも可能性は開かれている。そこからピックアップしてプロデュースするのがおれの仕事になる」
「へぇ。場が貴刀だけに一種の博打(ばくち)だな」
 哲が口にした『へぇ』は、紘斗と同じで関心を持った感じだ。
「営業はそういうもんで、貴刀だろうとほかのとこだろうと変わらない。当然、うまくいくのは一部にすぎないし、無駄になることは多い」
「いままででいちばんのお手柄はなんだ?」
「自分的にってことか、会社的にってことか?」
「違うのか?」
「違う」
 紘斗はきっぱりと云い、赤信号で車を止めた哲が助手席を向いて、まじまじと紘斗を見やった。
「……なるほど」
 哲はつぶやいたあとすぐに車を発進させ、青信号に変わった交差点を抜ける。
 それから祖母のお墓があるお寺に着くまで、姫良そっちのけで、ふたりは紘斗の仕事の話をしていた。


 都心部を離れてから十分、ちょっとした高台にあるお寺に到着した。
 駐車場から三人そろって石段を登っていく。片脇には彼岸花が三色、赤、黄、白と並んで咲いている。石段から長い参道を通り、その正面に本堂があって、そこで参拝してからその奥にある墓苑に向かった。
 遠野家の墓はきれいにする必要もなく、供花も活き活きとしている。大叔父たちも訪ねると云っていたから、きっと姫良たちより早く来たんだろう。
 そしてすぐ横には貴刀家の墓がある。姫良の母、紗夜が独り眠っている。四年と満たなかった結婚生活、加えてその後半は病床に()して実家にいることが多く、父は見知らぬところに眠るよりも慣れ親しんだ場所がいいだろうと考えたらしい。
 物心ついたときは母の墓はここにあり、姫良はそれをあたりまえのように思っていたけれど、中学三年に入ってまもなく祖父が亡くなったときに、知香から、“貴刀家”のお墓じゃないのね、と云われてはじめて普通じゃないことに気づいた。
 自分のように母もまた遠ざけられてしまったんだろうか。しばらく姫良はそう思っていた。
 祖母にも訊けないままでいたら、祖父の一周忌を迎える頃、祖母が話した昔話のなかでその経緯を聞かされたのだ。父の中に母への、少なくとも思いやりはあったとほっとした。祖父母が亡くなったいま、母も両親と一緒にいられてよかったんじゃないかと思う。
「手桶と柄杓(ひしゃく)を借りてくるね」
「独りで大丈夫か」
「うん。ずっと小さい頃から毎月来てるから」
 紘斗がうなずくのを見届けて姫良はお寺に戻った。

   *

 紘斗は預けられたバッグを左手に持ち替えながら、姫良の背中を見送った。
「おれならついてくけど、そう過保護ってわけでもねぇんだな」
 哲は推し測るような云い方をした。
「物事には段階ってのがある」
 紘斗が要点のみで切り返すと、哲は片方の口端を皮肉っぽく上げた。
「仕事みてぇだな」
「おまえ、仕事は何やってるんだ?」
 哲の挑発には乗らず、逆に紘斗は訊ねるきっかけをつかんだ。哲は自分のことに触れてほしくないのか、車の中では取りつく島もないほど質問されるばかりだった。
「姫良から聞いてるだろ。自動車関連の仕事をフラフラやってる。修理工場とか部品工場とかガソリンスタンドとか」
 哲は肩をそびやかした。
「もう二十四だろ。定職就く気ないのか」
「おっさんくせぇ説教はいい」
「説教じゃない。大事にしたいものがあるんなら、付随してちゃんとすべきだっていう気持ち湧くだろ」
「おれにそういうアドバイスするって相当余裕あんだな」
「おれは姫良の目を疑いたくないだけだ」
 敢えて“余裕”に関しては触れずにいると、紘斗の言葉の意味を考えていたらしい哲はふとニタリとした。
「つまり、だらしないおれとおまえが同等であっちゃ困るってことだ。大したプライドだ」
「そういうことじゃない。そこらヘンによくいるフラフラしてる奴とおまえはどこか違う気がしてる」
 紘斗の言葉を受け、哲は高々と笑いだした。が、すぐに笑い声は止んで、その表情をがらりと変えた。見かけからくる迫力とは違う、心底からのうっそうとした様子が窺える。その雰囲気どおり、哲は陰にこもった声で口を開いた。

「なぁ、電話一本で世の中を変えちまう連中がいる。まあ、それは大げさだとしても、現実、ちゃんとしてたってだれかの手によってすべてが一瞬にしてゼロになることも、最悪、ゼロ未満になることもある。ちゃんとやるってのは一見立派でも無駄にすぎない。てきとーにやり過ごしてるほうが得策だ」
「……そんなこと考えてるのか。それこそ無駄だって気がするけどな。利口じゃない」
「どんなにいい奴だって、どんなに悪い奴だって行き先は一緒だ。地獄だとか天国だとかいうのは、生きてる者の希望的な幻想の枠を出ない。それならてきとーなほうが利口だ」
「冷めてるな」
「現実を知ってるからな」
 どんな現実を知っているのか、普通に『冷めてる』と形容するには哲はどこか違っている。
「どこかにある現実をどれだけ知ろうが、それは余計なことだ。自分がここにいること以上の現実はない。そこで手に入れたいものを手にしているかどうか、もしくは、そうなるべきものを目指しているかどうか。それで行き先は変わってくる。適当にやってる奴は気楽そうに見えるけど、その実、楽しいと思うことも色褪せていくのが早い。そのさきに残るのはなんだ?」

 かつて――つい一年まえまで、紘斗には後にも先にもたどる道はなかった。独りでいては何も残らない。目の前にあるものすら閉ざされている。
 なんのために――父の手助けになるなら。そういうきれいごとを背負(しょ)っていた。頂点を目指せば何か得られるかもしれない。そういう漠然としたものを見て、身近なことをやり過ごしてきた。それらといつも背中合わせにあるのは、投げやりでいつ堕ちてもおかしくない足もと。
 それぞれに背景は違う。だが、おそらくは哲も同じだ。

「何も残らなくていいだろ」
 哲はうんざりしたように云い、首をかすかに振った。紘斗は目を細めて見やる。
「おれもそう“お利口さん”じゃない。ただ、おれから云わせれば――。……まあ、おれが云うことじゃないか。冷めてるとラクなところあるし、けど、それは一種の“逃げ”でもある。おまえなら、どこかで区切りがつけられるだろ」
「大して話したことがあるわけでもねぇのに、“おまえなら”っていう根拠はなんだ」
「姫良だ」
 紘斗の一言に、哲はおもしろがって笑う。
「区切りつけろって? おれがてきとーなほうが安心できんだろ」
「何が」
「盗られる心配なくてさ」
「おれにはそんな心配するほどのみみっちさはない」
「やっぱ余裕か」
「違う。おれは姫良をわかってるってことだ」
「云いたいのはそこか。案外、大したことないらしい」
 紘斗は首をひねり、哲が薄ら笑って応じたとき、戻ってくる姫良の姿を捉えた。
 なぜか猫を連れていて、姫良は手に持った柄杓を猫じゃらしのように扱って猫をからかっている。
 黒斑の猫――いまだにその名は聞けないでいるが、姫良はあの猫とあんなふうに戯れていたんだろうか。紘斗はふとそんな意味のない情を抱く。それこそ、いまの哲からすれば無駄な思考というに違いない。けれど“意味のない”ことなどではない。
「仕事の話に戻れば、おれがやってることはほとんどが無駄になっても、違うところで活きるってこともあるんだ。それが、『自分的に』と『会社的に』っていう違いだ。そのときはどうにもならなくても、そこに懸命さがあるならどこかで繋がる。そしたら……何かを残せるか、じゃなくて、自分の中に残していたいと思う」
「……それ仕事の話か? ま、おれがおまえに云いたいのは、大したことあってもらっても困るってことだ。姫良に関する限り、余裕は必要ねぇからな」
 紘斗が短く笑い声を漏らすと、次いで哲も皮肉じゃなく笑った。

   *

 姫良が戻ると、紘斗と哲は何を話していたのか、いや、何やら話していた様子ははっきりしているが、その内容を聞けないままピタリと会話が止んだ。姫良はふたりをかわるがわる見つめた。
 それぞれにかすかに緩んだ口もとを見れば、云い争いをしていたわけじゃないことは確かだ。もっとも、云い争いをする“もと”なんて何もないはずだ。
「持ってやるよ」
 哲は云いながら姫良から手桶を取りあげた。
 紘斗が道を空け、お墓の前に姫良を促す。姫良はお墓に水をかけ、線香をあげてからお参りをすませた。
 心配しないでね――祖父母、そして母へのそのいつもの呼びかけは、今日は必要ない気がした。

「姫良、おれは先帰るぜ」
「え、哲ちゃん、もうお昼だし、一緒にごはん食べていかないの?」
 立ちあがったとたんに哲はさっさと身を翻して、姫良は急いで引き止めた。
「知りたいことは知った。じゃな」
 振り返った哲は紘斗をちらりと見やって云うなり、前に向き直ってすたすたと歩いていく。
 こういうときは哲のことを酷く頑固だと思う。気を変えようと思ったところで絶対にきかないのだ。
「哲ちゃん、今日はありがとう。気をつけてね!」
 後ろ姿に呼びかけると、哲は背中を向けたまま片手を上げた。
「わたしも知りたいことあるのに」
「何が?」
 姫良の不満そうな独り言に紘斗が反応した。
「哲ちゃん……。ううん、いいの。それより仲良くなれた?」
 姫良は紘斗の問いに答えかけてやめた。哲には哲のテリトリーがあって、それを侵すことで哲が離れていってしまう可能性もある。
「仲良く? アイツと?」
「だから、『アイツ』じゃなくって哲ちゃん!」
 今朝とは立場が変わっただけの同じ言葉を云ったことに姫良はおかしくなった。紘斗は呆れたように肩をすくめ、独り笑いだした姫良を見下ろす。
「返してこなくちゃ」
 姫良はかがんで足もとに置いた手桶と柄杓を取ると、紘斗が横から取りあげた。
「ありがとう」

 ふたりで歩きだすと、ふと紘斗が姫良の足もとに目をやる。
「猫、懐いてるな」
 姫良も紘斗の目を追って自分の足もとを見下ろした。ともすれば転びそうなくらい、猫は足もとに纏わりついている。
「お寺の猫なんだよ。和尚さんは飼ってるわけじゃなくて居ついたって云うんだけど、見かけたら餌やったりってかまってるらしいから、野良でも普通に懐いちゃうと思う」
「全部がそうとは限らない。キラ――」
 紘斗は不自然に呼びかけたあと、言葉を途切れさせた。
「何?」
「いや。おれの猫は最後までだれにも懐かなかった。じいちゃん、ばあちゃんは別にして、ほかの奴が餌やろうとしても寄りつかないし。こっち来てからマンションに閉じこもりっぱなしだったから余計にな」
「そうかな。わたしには普通の猫に見えたよ。あ、ちょっとツンとしてたところはあったけど」
 白猫には“吾輩は猫である”並みに本当に名がなかったのか、紘斗は飼っていた猫を『猫』としか呼ばない。紘斗にしろ、姫良が自分の猫を『猫ちゃん』としか呼ばないことを、もしかしたら不思議に思っているかもしれない。
「おまえと似てた」
「そう?」
「ああ」
 からかっているのだったら姫良もおちゃらけられるのに、いまの紘斗の声は淡々としていて、どう反応していいのか戸惑う。紘斗が頭上でふっと息を漏らしたけれど、それが笑みだったのか、見上げたときは普通の表情しかなかった。
 ただ、以前の“普通”だった冷ややかさは消えて、紘斗の表情はいま本当に普通で、そこにどんな感情があっても怖さはなくなった。
 手桶と柄杓をもとの場所に戻すと、住職に声をかけてからお寺をあとにした。

「彼岸花、黄色とか白とか、はじめて見たな」
 紘斗は石段をおりる途中で足を止め、振り返って彼岸花を上まで一通り眺めた。
「赤だけだとちょっと毒々しい感じするし、実際、毒持ってる花だけど、色とりどりで並んでると可愛い。“死人花”とか“幽霊花”とか、あんまりいい呼び方ないんだよ。でも、和尚さんが“天上の花”って呼ばれてること教えてくれたの」
「天上の花?」
「うん、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)って別名あるでしょ。おめでたいことの兆しに天から降ってくる花なんだって」
「へぇ」
「今年のお彼岸はわたしもそんな気分」
 そう云うと、紘斗が姫良を向いて息を吐いた。それは笑ったに違いない顔だ。

 去年の今頃は、近づきたくて離れていたくて、そんな相反した気持ちがあった。
 もっと近づいていたい。いまはそれだけ。
 哲を知りたいと思うようになったのも、きっと紘斗に対してのそんな気持ちと相俟っているんだろう。

 石段のいちばん下までおりて、姫良はついて来た猫を抱えてお寺のほうへと方向転換させた。お尻をそっと押すと、猫は三歩進んで姫良たちを振り返る。にゃあ、と一度おっとりした声で鳴いてから石段を上っていった。
「わたし、真っ白の猫ちゃんみたいに紘斗に懐いてる?」
 姫良はとうとつに話をもとに戻して訊ねてみた。
「そうでなくちゃ割に合わない」
 冗談なのか本気なのか、そこにある意味はなんなのか。まるっきりわからなくて、姫良は笑いながら空を見上げた。
 天上から降ってくる花を想像したとたん、花は紘斗の笑みに変化(へんげ)して姫良のくちびるに落ちてきた。

− The End. −

* 彼岸会 … 春分と秋分の日前後の3日を入れた7日間のこと
  仏教語の「彼岸」は「日願」からという説あり。参考:Wikipedia

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