CHERISH〜恋綴り〜
星アイびとの涙零れる雨の夜に
催涙雨の降る夜は
君と
貴方と
星になって逢える夜
カチガラスが愛を紡ぐ天の川
君に
貴方に
会いにゆく
広がる雲はふたりを許し
触れる手と手が愛で撫でる
星アイびとの涙零れる雨の夜に
君とぼく 貴方とわたしの アイ物語
★
この二週間、携帯画面を開いては閉じるということを何回繰り返したのか、開くたびに呼びだす番号を見てはこっそりため息をつく。
いまはマンションのなか、姫良独りソファに座っているだけであり、だれも見ていなければこっそりという必要はまったくないのに、自分でもそうなってしまう理由ははっきりしない。
うだうだした気持ちのまま窓の外に目を向けると、ますますすっきりしない気分にさせられる。
日曜日の今日、七夕なのに、生憎と梅雨の最中で、外は朝から雨が降り続け、うっそうとした雲が地上を薄暗くしている。午後三時を過ぎてもいまだ雨が上がるふうではなく、天の川を見ることはできないだろう。もっとも、この都会では地の灯りが邪魔して、見える機会はまずないと云っていい。
好きじゃない雨から目を背けると、姫良はまた手もとの携帯電話に目を落として軽くくちびるをかんだ。
わたしらしくない。
姫良はそうつぶやいて、わたしらしいとはなんだろうと疑問に思う。
人の都合を考えない言動のせいで、わがままと受け取られている。
このまえの誕生会のときもそうだ。
紘斗。
一度会っただけで、話した時間もきっと五分もないのに、顔立ちはその表情まで鮮明に思いだせる。それだけ見ていたということに違いなくて、そう気づくと、姫良はまたこっそりしたため息をついた。
あのときの紘斗に対する第一声が、あまりにも無礼だったことはわかっている。しかめた顔はあからさまに姫良を批難した。それでも撥ね退けられなかったことに驚いているのは、知香たちよりも姫良自身だ。
わがままだということは自分でもわかっていて、姫良としての云い分もある。
そう振る舞ってしまうのは、人のことを考えていたら一歩も動けなくなるから。わがままであることは、拒否されたときの云い訳になる。姫良にできる、泣かないための最小限の処世術だ。
家族がいるかどうかなんて関係ない。人というのは家族がいても所詮、独りで、四六時中、一緒にいられることはないし、全部を知ることもできない。
強がりじゃない。
また無自覚につぶやいて、そのつぶやいたことすら打ち消そうと、姫良の親指が番号を表示したまま通話ボタンを押した。
一回、二回、三回……。コールを数えているうちに無理かもと思い、十回目までと決めた矢先、九回目にコール音が途絶えた。が、通じているはずも、相手が答える気配はない。姫良は姫良で自分で電話したにもかかわらず、あきらめていただけに通じたことに驚いて息を詰める。姫良が口を開くまでの三秒は時空が歪んだのかと思うくらい長かった。
「わたし」
一言だけで黙ると気まずくなるほど、電波を通して冷ややかな雰囲気が届いてくる。
『だれだ』
冷めた声に訊かれて、これまでのわがままは、紘斗にも自分にも融通がきかないということに気づいた。姫良は急いで名乗る。
「姫良。遠野姫良。……電話、いまいい?」
『仕事中だ』
また、だれだ、と訊かれたらどうしようと不安だったなか、その返事にはほっとさせられた。
「日曜日なのに?」
『なんの用だ?』
姫良の問いには答えず、紘斗は用件を急かした。
素っ気なくて怯みそうになりながらも、少なくとも電話が断ち切られることはないという些細なことに気づいた。そこに縋れそうで、持ち前のわがままが顔を出す。
「仕事っていつ終わる?」
『終わった時だ』
「営業やってるくせに愛想ないよ」
『おまえは客じゃない』
本当に愛想がなくて素っ気ない。おまけにおまえ呼ばわりだ。これ以上に押し問答みたいなことを続けても埒が明かないことは確かで、それなら押しきるに限る。いつ終わるかわからないなら、カノジョともきっと約束はないはずだと勝手に決めつけた。
「だったらプライヴェートで付き合って。いまからそっちに行く。仕事が終わるまで貴刀の前で待ってるから。また、あとでね!」
姫良は一方的に云って電話を切った。どきどきして手のひらがひんやりとする。幼い頃の習性は染みついていて、気を抜くことなくピンと背筋を伸ばしたまま、しばらく電話を待ってみた。が、五分たっても携帯電話はピクリとも反応しない。
姫良はふっと肩の力を抜き、今度はため息ではなく笑い声を漏らすと出かける支度をした。
待ちくたびれるくらい待たされるかもしれない。けれど、紘斗は冷たくしても、だめならきっと折り返し連絡してくるはずだと思った。
*
主任という辞令が出て三カ月。やり甲斐もあれば、責任というプレッシャーもある。入社四年目での主任という役付は異例であり、そのぶん特異な目が向く。
適度なプレッシャーは歓迎するところだが、人を使う難しさと判断を委ねられる緊張感は想像以上だ。かといって、引く気は毛頭なく、ひたすらに結果を追及することに尽きる。
休日にこうやって出てくることも多くなったが、美春が“ワーカホリック”と揶揄するほどで苦にもならない。
明日は営業部が合同でやる月曜日恒例の連絡会議があるのだが、今回、はじめて進行の一部を任されることになった。その準備もようやく整う。
紘斗はノートパソコンを閉じると、ふっと息をつく。立ちあがりながら煙草を一本手に取ってそれを咥え、ライターを持って窓辺に向かった。窓の内側にあるちょっとした出っ張りに腰を引っかけ、煙草に火を灯すと、一息ついて外を見下ろした。
遥か下の通りは車も人影も豆粒くらいにしか見えないが、日曜日とあって数えられる程度だ。オフィス街の雨は見渡すかぎりの景を、白と黒が曖昧に混じった無彩色に変える。
そのなかで一つだけ、街灯のもとに鮮やかなピンクが目立っている。時計に目をやると、まもなく五時で、三十分前に見たときから一歩も動いていないことになる。
――猫をあげます。
人に自分の意向を押しつけるところは変わっていないらしい。
また一つ、煙ごと息を吐きだして紘斗は腰を上げる。自分のデスクまで行って灰皿に煙草を押しつけると、携帯電話と財布をジーパンのポケットに入れながら企画室をあとにした。
エレベーターを降り、貴刀ビルの玄関口まで来ると、自動ドアが開く手前でいったん立ち止まった。正面の歩道に、赤に近いくらい濃いピンク色の傘の下、まるで補色のライムグリーンというミニ丈のワンピースですっと立った姿が目に入る。
その雰囲気はキラを思わせる。
いや、キラが姫良に似ているのか。
無視しようとしても拒みきれない。そんな自分をごまかすように失笑を漏らし、そして貴刀ビルを出た。
*
強くなったり弱くなったりという雨の中、何度も傍を通り過ぎていった足音とは違う方向から水を跳ねる音がした。姫良が貴刀ビルのほうを向いたとたん、紘斗の姿が目の前に迫った。
「紘斗! 仕事終わった?」
その質問には答えず、紘斗の目は姫良の顔から足もとまで下りて止まった。姫良も釣られて見下ろす。天気を無視して履いてきたオープントゥの靴は厚底でも、ピンクのペディキュアをした爪先をよく見れば雨粒が載っていて濡れているのがわかる。
「どこ行くんだ?」
その口調はぶっきらぼうだけれど、姫良の誘いに付き合ってくれるらしい。無理だと云われることは覚悟していて、会うことができればいいほうだと自分に云い聞かせていたから、紘斗の問いかけは姫良に自然と笑みを宿らせた。
反対に紘斗は何を思ったのか、姫良の笑顔を見下ろして顔をしかめる。いや、しかめているとは違うのか。いずれにしろ、紘斗のことは知らないことばかりで、到底いまは理解できるはずもない。
「そこ。ミザロヂーで夕ごはん一緒に食べない?」
「行くぞ」
ミザロヂーの方向を指差した姫良を置いて、紘斗はさっさと歩きだした。姫良は慌てて小走りであとを追う。
「あ、紘斗、わたしの名前で席の予約入れてる」
十分もかからないうちにミザロヂーに着き、ドアを開けて待つ紘斗は呆れた素振りで肩をそびやかした。
「おまえ、おれが付き合わなかったらどうしたんだ?」
案内された席に着き、紘斗は受け取ったメニュー表の一つを姫良に手渡しながら、しかめた声で訊ねた。
「んー、適当にお料理頼んで、お持ち帰りして食べる」
「ここはそういうことをやらないって聞いてる」
紘斗が云い、姫良はちょっと考えて、それから口を開いた。
「わたし、あるところのお嬢さまで、だからここは融通がきくの」
よく自己申告する『お嬢さま』なのに、紘斗の前ではちょっと気が引ける。世間一般を鑑みれば背景にある経済レベルは高いのも事実ではある。
紘斗を見ていると、気にしている様子はなく、それどころか『あるところ』と濁した姫良を追求することもない。驚かしたい気持ちもあっただけに、無関心ぶりにちょっとがっかりした。
「決めたか?」
「最初から決めてる。七夕コース。今日、七夕って知ってる?」
姫良は店のほぼ中央に置かれた七夕飾りを指差した。その向こう側が見えないほど大きくて、短冊も多くぶら下がっている。笹の下には小さなテーブルがあって、客が参加できるように短冊と筆が用意されている。
「関係ない」
「そう? ロマンティックな日なのに」
紘斗が肩をすくめたところで店員が注文を取りに来た。メニュー表を引き取っていく店員を見送ると、姫良は紘斗を覗きこむように首をかしげた。
「紘斗のこと、訊いていい?」
「何を」
「いくつ?」
「二十五」
「誕生日は?」
端的な会話が続くなか、紘斗はどうでもいいだろうといわんばかりに首をひねった。
「わたしだけ知られてるし、ずるいと思わない?」
「十一月五日」
紘斗はため息混じりに答えた。
「え、さそり座? やっぱり!」
姫良は驚いたあと、くすくすと笑いだした。
「なんだ」
「相性、よかったんだって思って。わたしはかに座だから同じ水の星座だよ。だから、お互いに呼んじゃったんだよね」
「お互いにって違うだろ。おまえが勝手に声かけてきた」
「おまえじゃない」
「何が」
「姫良。おまえ、じゃなくって姫良って名前があるの」
姫良が主張すると、紘斗はかすかだった眉間のしわをますますはっきりさせた。なんだろうと思っていると、料理が運ばれてきて訊きそびれた。
テーブルには前菜に加えて、七夕ならではの素麺が添えられた。紘斗がそれを指差す。
「七夕って素麺だったか?」
「そうじゃない? 天の川とか、織姫さまの機織の糸をイメージしてるんだって」
「へぇ」
紘斗がはじめてまともな会話を切りだしたことに気づくと、姫良はこっそり喜んだ。
「織姫さまと彦星さまの伝説って知ってる? ふたりとも働き者だったんだけど、結婚したら、仕事しようって気になれないくらい、お互いのこと好きで堪らなくなったって。だから、引き離されちゃったんだけど。一生懸命働いたご褒美に、一年に一回会えるっていうのが今日の七夕。紘斗は日曜日に仕事しちゃうくらいだから、彦星さまみたいで、わたしは織姫さまと同じ、あるところのお姫さま。働き者じゃないけど。それで、紘斗って見た目はさそり座そのものだよね。とことん秘密って感じ。でもホントは情熱家だっていうし、自分ではどう思う? 彦星さまと一緒で織姫さまに尽くしちゃうほう?」
「そういう星座で性格は括れないだろ。女のお遊びだ」
突然、話の方向が変わったことに呆れたのか、紘斗は肩をすくめた。尚且つ、答えも逸らされた。
「冷めてる。じゃあ、いまのカノジョで考えてみて。尽くしてる?」
「おまえには関係ない」
「また、おまえ! だいたいが、女の子がせっかく電話番号教えたのにかけてこないって、冷めてる以上にどうかしてると思わない?」
紘斗は目を細め、気詰まりになるくらい姫良をじっと見据えた。
「どういうつもりだ」
しばらくして紘斗は険しく吐き、それは自身に向けているのか姫良に向けているのか判別ができない曖昧さがある。
「……紘斗?」
「おまえがカノジョの立場だとして、おまえみたいなことをしてくる奴におれが応えたら、カノジョであるおまえはどう思うんだ? そうしたおれは、どう考えても、尽くす、という言葉とは正反対で、おまえの質問はどっちも意味がない」
ただのおちゃらけた会話だったはずが、紘斗は不機嫌そのもので、ただ姫良は戸惑う。
「そっかぁ。わたしはただ会えればいいだけだし、それに紘斗も結局はわたしに付き合ってる。ということは、わたしと紘斗、ふたりとも七夕には相応しくないってことだよね」
姫良はばつが悪く感じた。それなのに、ついふざけてしまう。笑う姫良の顔を見て、紘斗は険しく眉をひそめた。
わがままに加えて、友だちからは真面目さが足りないようなことをよく云われる。それでもいままでは軽くかわせていたのに、いま、心底から後悔した。
その後悔と一緒に、自分の気持ちが一つわかる。
自分らしくなく、電話することをためらっていたのは、拒絶を明確にされたくなかったからだ。
わかったところで、もう遅いのかもしれない。
怖い、と内心がつぶやく。
「短冊、取ってくる」
笑う気力が途切れそうで、梅雨の湿気とは逆に乾いた空気を紛らすように姫良は立ちあがった。両面色紙を半分に切った短冊を一枚だけ取ってすぐに戻ると、先に紘斗へ差しだした。
「おれはいい」
そう答えた紘斗の声は素っ気ないけれど、さっきの険しさはなくなっている。姫良はほっとして、おどけて首をすくめた。
「じゃなくって、名前書くだけでいいの」
紘斗はやがて、小さくため息をついて自分の名を書いた。
「ありがとう。じゃあ……」
テーブルに墨がつかないよう、ペーパーナプキンに短冊の『紘斗』と書かれた面を置いて、姫良は裏に自分の名を書いた。それからまた七夕飾りのところへ行くと、爪先立ってやっと届く場所に“こより”を結びつけた。
クーラーの風で短冊が揺れ、ふたりの名前が入れ替わりで見える。裏と表という背中合わせでも、くっついていればきっと温かいはず。
振り向くと、眺めていたらしい紘斗は姫良を見てかすかに首をひねった。
「よかった」
「何が」
「また来年も一緒に来れそうな気がしない?」
からかった云い方とは裏腹に、姫良は真剣な気持ちで返事を待ったけれど、予想どおり、紘斗は何も答えない。それでも和んだだけ、ずっといい。
それから食事が終わるまでの時間は無難に会話も進んだ。進むといっても、喋っているのはほとんど姫良で、とどのつまり、姫良の大学生活という他愛ない話題が中心になった。
その流れで、紘斗が姫良の通う大学から近場にある国立大学の経済学部に通っていたこと、そこから貴刀に就職したことがわかった。貴刀に採用されるのは難しいか訊いてみると、愚問だとばかりに、大学の受験倍率より遥かに高い、と軽くあしらわれた。
六時半くらいにミザロヂーを出ると、まだ雨が降っている。傘を差して見上げた空は晴れそうにない。雨粒が顔にかかり、姫良は目を瞬きながら水滴をはらう。
ちょうどそのとき、紘斗が支払いをすませて店から出てきた。姫良のほうが都合そっちのけで誘ったにもかかわらず、精算する段になって紘斗は、おれが払う、と云って譲らなかった。
「何やってるんだ」
「織姫さまと彦星さま、見えないなって思って」
「おまえが云うには『好きで堪らない』らしいし、それならかえって雲の上で、ふたりで会えるほうがいいんじゃないのか。別に人が邪魔することないだろ」
姫良は信じられない面持ちで傍に立つ紘斗を見上げた。
「なんだ」
「紘斗ってそういう考え方もするんだって思って」
「そういうって?」
「ロマンティスト」
はっ。
紘斗は可笑しそうに息を漏らした。明らかに笑ったのであって、姫良はまた驚く。
「おれには程遠い。帰るぞ」
紘斗は駅のほうへと歩きだした。
駅まで五分という短い時間も、それから電車に乗っている間も、どこで降りるのか、などという必要最低限の会話しかなかろうが、姫良の浮き浮きした気分はずっと続いた。
帰る方向は一緒で、姫良のほうが駅三つ分だけ近く、まもなく駅に着く頃になって席を立つと、姫良はドアのところに立ちっぱなしの紘斗の目の前に行った。
「でも、一年に一回なんてさみしいと思わない?」
三十分以上も前の話をとうとつに戻すと、紘斗は姫良を見下ろして肩をすくめた。
「さあな」
「だから、また会いにいく」
「そう、暇じゃない」
少なくとも拒絶の言葉ではない。
「わかってる。毎日、会いにいくって云ってるわけじゃない」
ほっとしたあまり、可笑しくもないのに笑い声が出た。紘斗の目が細くなる。ともすれば、睨んだように見えるけれどそうではない。なんとなく何か云いたそうで、けれど、訊ねるまえに電車は止まった。
「着いた」
「うん」
姫良は降りてすぐ紘斗に向き直った。
「今日はありがとう。ごちそうさま。またね!」
紘斗が無言のうちにドアが閉まりだす。と、閉じてしまう寸前。
「姫良、気をつけて帰れよ」
散々おまえと呼ばれた挙句、はじめて名前を呼ばれた。
笑ってうなずいたと同時に電車は動きだす。紘斗の視線は見えなくなるまで姫良から離れなかった気がした。
ちょっとした怖さも生まれたけれど、それは紘斗の笑った一瞬が払拭した。
駅の構内を出ると、姫良はまた傘を差す。
はじめての『姫良』も、はじめての笑った顔も、はじめての不機嫌も、いろんなはじめてが増えるごとに近づいているのかもしれなくて。
そして、好きじゃない雨もまた少し、好きに近づいて。
姫良は濡れるのもかまわず、また空を見上げた。
よかった。
七夕に降る雨――催涙雨は、会えないさみしさでもなくて別れのさみしさでもなくて、織姫さまと彦星さまがだれにも邪魔されず、ふたりきりで会えたという、うれし涙の雨かもしれないと思えた。
− The End. −