CHERISH〜恋綴り〜

Smiley smile


 貴刀ビルの十五階からは、オフィス街とあって五月の新緑は見えないものの、見上げた空は雲一つなく青を(さら)していて、窓越しでも風から冷たさが抜けたように感じる。正午を過ぎて、太陽が真上近くにあり、地上まで晴れ晴れと明るい。

「紘斗、叫びたい感じしない?」
 姫良は窓の外に向けていた目を正面に座った紘斗に移した。紘斗はおにぎりをつかんだ手を止め、いきなりなんだ? とばかりに眉をひそめる。
「だって、もったいない。お休みの日でお天気もいいのに仕事だなんて。だからせめて、気持ちいいーっ、って叫んだら爽快かなって思って」
「帰りたいんなら帰っていい。友だちとどこか――」
「そういう意味じゃない。それに、仕事を放りだすつもりはないから」
 取りようによっては侮辱的なことを吐いた紘斗を、姫良は不満たっぷりにさえぎった。
「本心で云ったわけじゃない」
 紘斗はちょっとした間を置いた(のち)、首をひねりながらそう云った。どういう意味かを考えた姫良は、しばらくしてその答えを見つけだし、声を出して笑った。紘斗がちょっと目を細めて、今度は姫良のほうが首を傾けた。
「どうかした?」
「なんでもない。おれに残業させたくなければ早く食べて仕事だ。ほかの奴もそろそろ戻ってくる」
「わたしはもうおなかいっぱい。それより“仕事”っていい響き」
 姫良がおどけて肩をすぼめたのに対し、紘斗は呆れたように肩をすくめた。


 今日はクリスマスのときのようにただ昼食を一緒にするために来たわけではなく、ちゃんと貴刀で働くためにいる。
 ゴールデンウィーク中とはいえ海外は平日だ。貴刀は世界を市場としている以上、まったく連絡不能にするわけにはいかない。営業部は必然的に交代で出勤することになり、加えて月末月初が重なって事務的にも集計などがたいへんらしい。
 それは年末年始もそうで、貴刀ではこの期間、派遣会社から人力を得ることが慣例化している。今回はそこに姫良も紛れこんだというわけだ。
 外ではアルバイトを認めそうにない姫良の父親、貴刀一成(かずなり)も自分の管理下にいれば心配いらないだろうからやってみてはどうだ。そう提案したのは紘斗だ。ついこのまえ、アルバイトができないと愚痴ったことを覚えていたらしい。
 紘斗は自分が連絡してもいいと云ったけれど、下手をすれば紘斗の立場をまずくしてしまう。それくらいのことは考えられるし、一成と話すのは苦手でも姫良は自分で連絡を取った。
 有無を云わさず却下ということも予想していただけに、説得の必要なく一成が了承したときは拍子抜けした。貴刀の身内であることを伏せたいという姫良の意を()んで、そのための根回しも買って出てくれた。
 事務的な仕事はもちろん初心者で、いざ決まるとわくわくするよりは不安でいっぱいになった。
 紘斗はそれに気づいて。
「いい加減にやることじゃない。けど、ミスが社運に影響するような仕事を派遣にさせるわけないだろう」
 と、もっともな指摘をした。
 ある程度パソコンが扱えればいいと云うし、紘斗のセクションで働けるように一成が取り計らったことで姫良も少しは気がらくになった。
 紘斗と初対面のふりをするのはたいへんで、それ以上に仕事は緊張したけれど、二十八日から五日間という契約をなんとか無事に完遂(かんすい)した。終わってみればデータの入力作業がほとんどで、数字を間違わないように気をつければいいというくらいだった。

 今日はゴールデンウィーク後半の初日で、この営業企画室は三人の当番のうち、一人が紘斗だ。
 派遣としてのノルマは果たしているけれど、昨日、仕事が終わってすぐ人事部の派遣担当者に呼びだされ、訳がわからないうちに姫良だけ一日延期が云い渡されて今日に至る。紘斗に報告したら、姫良のように驚くわけではなく、反対に訳知り顔で肩をそびやかした。
 延期になっても苦痛ではなく、むしろ休みじゃなかった紘斗と一緒にいられることになってラッキーだ。
 ラッキーなことはもう一つある。
 今回のようなアルバイト的なことはともかく、例えば姫良が貴刀の社員になって紘斗と働くというのはまず実現しそうにない。貴刀一成の娘だからという条件より、貴刀に入社できるかという能力の問題だ。
 貴刀で“職場”を目の当たりにすると、それがどれだけたいへんかがわかる。常に責任と背中合わせだ。紘斗に至っては、主任という立場上まさに現場を(にな)うわけで、それ相当の有能さを求められている。上からは成果を追求され、下には動いてもらわなくてはならない。
 やるまえから無理だとあきらめるのもどうかと思うけれど、姫良が貴刀で社員として働く図はまず思い浮かばない。それがこの一週間、仮にも上司と部下という立場で仕事をできたわけで、姫良は“遠野”になって以来、はじめて貴刀一成の娘でよかったと思ったかもしれない。


 紘斗は手にしていたおにぎりを一口で食べきり、続けてもう一個、そして最後に残った卵焼きをつまんだ。
「お弁当、美味しかった?」
 姫良は紘斗を覗きこむようにして首をかしげた。
「ああ。こういう素朴なのは食べないから」
「素朴、って誉めてる?」
「いちいち揚げ足を取るな。中学のとき、親が離婚したって云っただろ。ばあちゃんに負担かけたくないってのがあって高校はずっと学食だった。大学はこっちで独り暮らしだし、当然外食だ。だからこういう手作りの弁当はガキの頃以来だな」
 紘斗はなんでもないことのようにしている。その実、打ち明けられた経験はさみしすぎて、姫良はどんなふうに応えるべきなのか迷った。けれど、その戸惑いは一瞬で消える。
 姫良もまた似たような境遇であり、ふと何かを打ち明けて、そのときに自分だったらどう反応してほしいだろうと考えたとき、ただちゃんと聞いてくれるだけで、知ってくれるだけでいいと思う。
 姫良は笑みを浮かべた。
「よかった。お嬢さまも少しは使えるでしょ?」
「ああ。仕事も上々だった」
「ホント?」
「プリンタに紙をつまらせたり、書類をばらまいたり、コピーが裏返しだったり――」
「紘斗!」
 姫良の失敗を並べ立てた紘斗を途中でさえぎった。紘斗が可笑しそうに片方だけ口端を上げる。
些細(ささい)なことだ。そうだろ?」
 それでも姫良が落ちこんでしまっていたことに紘斗は気づいていたらしい。こんなふうにからかいつつなぐさめられると、やっとすっきりできた気がする。
「うん」
「最初はパソコンのまえで固まってたけどよくやった」
 しつこくからかわれたけれど、紘斗がお世辞を云う人ではないことを知っているだけに姫良は素直にうなずいた。
「ありがとう」
 かすかに笑った紘斗は卵焼きを食べたあと、やるぞ、と姫良を促した。

   *

 紘斗から云われるままに雑用的な仕事を引き受けて、姫良は時計を見る余裕もない。そのなかで紘斗が人使いが荒いということだけは認識した。
 頼まれた仕事のうち、最後になった文書作成を終わり、プリントアウトして紘斗に渡した。時計を見ると針はもう六時を差している。外を見れば薄暗くなりかけていて、あっという間に時間はすぎていた。紘斗の手を(わずら)わせないようにと、それだけ集中していたのかもしれない。
「終わりだ」
 チェックをしていた紘斗はうなずいて一発オーケーを出した。ほぼ同時に、離れたところで仕事をしていた、紘斗の先輩二人が席を立った。
「吉川、おれら、さきに帰るぞ」
「こっちも終わります」
「じゃ、おさき。遠野さんも一週間お疲れさま」
「お疲れさまです。お世話になりました」
 姫良は席を立って挨拶を返した。
「遠野さん、可愛いから吉川に襲われないように気をつけて。忠告しておくと、かなりのモテ男だし――」
「余計なことですよ」
 紘斗は顔をしかめ、脅迫じみた声で(いさ)めた。
「はいはい。じゃ、お疲れ」
 姫良は困惑しつつも、明らかにおもしろがっている彼らに一礼して見送った。出ていったあとは室内がへんに静かになって、紘斗のため息が大きく響く。
「わたし、可愛いって。紘斗もそう思う?」
「帰るぞ」
 微妙に気まずい空気を一掃しようとふざけたのに、紘斗はそれにのってくれるどころか、見事に無視された。

   *

 会社の玄関を出ると、姫良はほっとため息をつく。
「お疲れ」
 姫良が(ねぎら)いの言葉をもらえる機会はそうそうなく、とりわけ紘斗にそうしてもらえるとは思いも寄らなかった。見上げると、口もとがわずかに緩んでいる。
「ありがとう。紘斗も、お疲れさまでした」
「よかったか?」
「うん。すごくいい経験になった。ホントにありが――」
 紘斗がふいに立ち止まり、姫良は途中で言葉を切った。紘斗の向こうに黒塗りの車が止まっていて、その後部座席の窓がおりていく。顔が覗くまえからそれがだれであるのか、姫良には見当ついた。
「姫良、乗りなさい。吉川くんも」
「パパ! いまからごはん食べに行くの。だから――」
「だから食事に誘っている。もちろん招待だ。だめかな?」
 姫良では(らち)が明かないと判断したらしい一成は、奥の席から覗くようにして紘斗を(うかが)った。問いかけというよりは、断れないような押しつけがましい云い方だ。
 紘斗はちらりと姫良を振り向いてまた一成に目を戻した。
「かまいません。甘えさせていただきます」
「紘斗」
「いいから」
 紘斗は止めようとした姫良をさえぎりながら後部座席のドアを開け、姫良は背中を押されて渋々とシートに納まった。VIP車は後部座席も間仕切りがあって二人しか乗れず、必然的に紘斗は助手席に乗りこんだ。
 運転手がいる手前、下手なことは口にできず、車中は気づまり極まりない。
「姫良、風邪か?」
 乾いた咳がちょっと続いて、一成が躰を起こした。
「ううん。喉が乾燥してるんだと思う」
「姫良」
 紘斗が振り向いて声をかけた。それだけで安心できるような声音だ。
「うん」
 姫良がうなずいて短く返事をすると、紘斗もうなずき返してまえに向き直った。

 車は貴刀ビルからそう遠くない場所で止まった。幅広い歩道の向こうに、英国風の煉瓦(れんが)造りでいかにも高級といったレストランがある。一成の行きつけの店で、何度かお祝いに(かこつ)けて“家族ぐるみ”で食事に来たところだ。
 一成が先立って向かい、紘斗は背中に手を添えて、気が進まない姫良を連れていく。頭上から、大丈夫だ、という囁き声がしてちょっと緊張が抜けた。
 給仕から個室を案内されて、姫良の隣に紘斗、ふたりの正面に一成という位置でテーブルについた。給仕が引いてくれた椅子に腰かけながら姫良は気分が重くなる。
 一成がどういうつもりかわからず、ましてやこの三人で会話が弾むとは到底思えない。せめて周りに人がいれば沈黙も紛れただろうに。
「姫良、仕事はどうだった?」
 ワインが注ぎ渡り、前菜が据えられたところで一成が口を開いた。情報は耳に入っているはずなのに、あえて訊く理由はなんだろう。
「なんとかほかの人と同じようにやれたと思う」
「君はどう思う?」
「心配される必要はありません」
 いきなり振られても紘斗は動じることなく答えた。一成はうなずいて、紘斗のまえの料理を手のひらで指し示す。
「遠慮なく食べてくれ」
 それを合図に食事が始まったのはいいが、姫良はあまり食が進まない。どうなることかと思った沈黙は、紘斗と一成のお堅い経済の話で紛れているという、姫良にとっては唯一の救いだ。
 当たり障りなく食事は進んで、メインの和牛ステーキが運ばれてきたあと、一成はテーブルに肘をついて顎のまえで手を組んだ。そうして、ちらりと視線を向けられた給仕は個室を出ていく。

 一成はそれまで社交辞令的だった眼差しを硬く変え、紘斗を見据えた。
 一成の顔立ちは、生粋の日本人にしては彫りが深く、体格もよく、普通にしていても大きさを感じさせる。加えてこの眼光の鋭さを向けられれば、大抵の人は怖じ気づく。
「君に訊ねたいことがある」
「どうぞ」
 紘斗の声は至って穏やかだ。紘斗はナイフとフォークをお皿に置き、姫良はそれを見て、一成が本題に入るのを紘斗が待っていたことに気づいた。姫良も紘斗に(なら)ってナイフとフォークを置いた。
「仕事については“心配する必要はない”らしいが、“君”のことはどうなんだろうな?」
 一成は試すように何かを云い含んだ。
「はっきり(おっしゃ)っていただいけませんか」
「女にだらしないとあっては不愉快だ」
「確かに、誉められないようなこともあります。ですがいま、以前のことが自分自身に後ろめたくはあっても、姫良に対して(やま)しいことは何一つありません」
 紘斗は眉一つ動かさずに答えた。逆に一成が眉を跳ねあげる。
「口先ではどうとでも云える。次は君の両親のことだ。離婚しているそうだな」
 まさかとは思わなくもなかったが、問いただすまでもなく一成が紘斗の身元調査をしているのは歴然とした。
「パパ!」
「姫良、いいから。私の両親は、いまはそれぞれに家庭を持っていますし、ほとんど連絡は取り合っていません。父は福岡に戻って地元の不動産会社に勤めています。母は横浜のほうで暮らしているはずです」
「姫良は私の娘だ。それがどういう意味かわかるかね?」
「どういうことでしょう」
「父親は不動産会社の事業に失敗したと聞いている。娘の財産を当てにしてもらったら困るということだよ」
「パパ、酷いっ!」
「姫良」
 紘斗は立ちあがりかけた姫良の腕をつかんで引き止めた。
「紘斗……」
 姫良は憤りのあまり、くちびるが震えてそれ以上は言葉にならなかった。自分を見上げている瞳に動揺は見られず、姫良のほうが励ましを受けた。紘斗はうなずいてみせ、それから一成に向き直った。
「事業の失敗は、取引先である建設業者の不正に()るものでした。規模を大きくしたいという一心でしたから、それを見抜けなかった、あるいは世間で云われたように見逃したという父の落ち度は否定できません。ただ、父が自分で完済するつもりであることは確かです。大企業とはいかないまでも、父もそれなりに経営者としてのプライドを持っていますから。貴刀社長ならその気持ちは通じるはずです」
「父親に似て君も野心家なようだ。貴刀では、君の年で主任というのは異例のことだよ。娘を利用して貴刀のトップに立つか?」
「紘斗はおばあちゃんのお葬式までパパが貴刀だって知らなかったのっ。それに、紘斗はそんなずるいことしない!」
「姫良」
 姫良の握りしめた手に紘斗が手を重ねた。うつむいた姫良の目から涙が落ちて、紘斗の手の甲で弾ける。紘斗が痛いくらい強く姫良の手を(くる)んだ。
「どんなに野心を抱えていようと、姫良に対する気持ちはまったく別次元のことです。おれは、このさきもふたりでいることを考えています。口先ばかりで大事だと見せかけて、その実、幼い娘を不安にさせて放りだして、いまだに娘を泣かすようなことをする。おれはそういう男ではありませんよ。なりたくもない」
 紘斗はめずらしく声を荒げ、自分が受けた言葉を皮肉りながら返し、最後は吐き捨てるように付け加えた。
 個室内は空気に重さを感じるほどの沈黙が満ちた。
 一成は手を組んだまま微動だにせず、紘斗を見据えている。紘斗は怯むことなく、それどころか一成の眼差しに挑んだ。

 やがてどう整理をつけたのか、姫良の手を包んだ手が緩み、紘斗は短くため息をついて沈滞した空気を払った。
「本音とはいえ、不躾(ぶしつけ)すぎました。すみません」
 紘斗の無遠慮な言葉に一成は眉を跳ねあげ、しばらくじっと見たのち、太い声で短く笑った。
「なるほど、本音か」
 つぶやいてまた一頻(ひとしき)り笑うと、一成は大きく息を吐いた。
「私は無粋(ぶすい)だったようだ。せっかくの食事を不味くしてしまってすまんな。食べてくれ。姫良、すまなかった」
 すまない、という言葉が二回繰り返されて、姫良は顔を上げた。まず紘斗を向くと、その口もとが片方だけ上がっていつもの笑みが見えた。ほっとして一成に目を移し、姫良は曖昧にうなずいた。
 すると、一成の肩から力が抜けたような印象を受けた。
「姫良、貴刀の仕事なら私の許可はいらない。また機会があれば連絡しなさい」
「うん」
「大学はどうだ?」
「三年になって授業は少なくなったからラクになってる。ほとんどの子はもう就職に向けていろいろ始めてるみたい」
「この景気でいまは就職活動も早くなってるからな」
「日本経済は正念場だ。我々が(こら)えて打破しなければ倒れる。私が貴刀に入った頃はまだまだ成長期でね。跳ね返ってくる結果にはわくわくしたものだよ」
「社長、財閥解体からあと、初期の貴刀のことを聞かせていただけませんか」
「ああ、かまわない。敗戦したのは祖父が三十四才のときだった……」
 紘斗が本気で昔の貴刀を知りたいと思ったのかどうかはわからないけれど、気をよくしたらしい一成は食事中、姫良が見たことのないくらい延々と喋っていた。紘斗が要所要所で相づちを打ったり質問を返したりする一方で、姫良は聞いてばかりで終わった。
 それでも退屈というよりは、紘斗と一成がだんだんと砕けてきているように感じて、姫良の(つか)えた気分も治まっていった。

 *

「パパがあんなにお喋りだなんて知らなかった」
 レストランのまえで一成を見送り、車が見えなくなると小さくつぶやいた。紘斗がかすかに息を漏らして笑ったのがわかる。外はもう暗くなっていて、見上げた紘斗の顔は外灯で影ができているものの、口端が上がっているのが見えた。
「話の流れ上、訊いてほしいんじゃないかと思って話題を振ってみた」
「ホントに訊きたかった?」
「人に喋らせておけばラクだろ。話させるほど相手が見えてくるし、すきもつかみやすくなる」
 紘斗らしくて姫良は笑った。
「紘斗ってあまり喋らないし、どうやって営業やってるんだろうって思ってたけど、それが紘斗のやり方?」
「貴刀に興味があるのは事実だ」
 紘斗は肩をそびやかして答え、それから姫良の手を取って歩きだした。
「飲み直しだ」
 その言葉に紘斗を覗きこんだ。
「緊張した?」
「しないわけない。二重のプレッシャーだ」
「二重?」
「社長であり、おまえの父親だろ」
 姫良はまた顔を曇らせた。
「紘斗、ごめん。パパが余計なこと――」
「余計なことっていうよりは、かなりの親バカだ」
「え?」
「こそこそしないで、娘の反感を買おうが、その娘のまえで問いただすっていう正々堂々さはさすがに貴刀社長だ。姫良、娘を盗ろうって男がどんな奴かって気にするのは、親としてあたりまえのことだ」
 そう云われて、紘斗が覚悟していたような印象を受けたことを思いだした。
「もしかしてパパがこうするかもしれないって考えてた?」
「姫良だけ一日延期ってあからさますぎる。おれたちと話すきっかけを探してたんだろう。おまえに云っても了解するわけないってわかってるし。だろ? それなら一緒にいるところを見計らって突撃したほうが簡単だってことだ。おれも早いうちにって思ってたし、ちょうどいい機会でもあった」
「早いうちにって何を?」
「けじめだ。周りからあることないこと吹きこまれるより、直接話したほうがいいに決まってる」
 姫良が首をかしげると、紘斗はため息まがいに笑った。
「例えば、親父のこととか、“女にだらしない”こととか」
 姫良は思わず立ち止まり、紘斗もそれに倣った。
「だらしないの?」
「美春だけじゃないことは確かだ。成り行きばかりで、おまえとみたいに気持ちがあって付き合ったことはない」
 そう云ってから、なぜか紘斗はため息をついた。
「何? わたしはまえのことなんて気にしてない。紘斗を見ててだらしないって思ったことないし」
「そうじゃなくて、云い訳してるみたいだろ。社長に(あお)られて云い返したことも、ガキみたいだったって反省してる」
 紘斗は自嘲するように笑った。
「そんなことない。わたしはうれしかったよ」
「おれもうれしかったかもしれない」
「え?」
「おれを疑ってない」
「紘斗は紘斗だから、疑うことなんてないよ」
 いつかと似たセリフを云うと、紘斗は可笑しそうな笑みを漏らした。
「離婚は親父が金策してる最中だった。もともと仲がよかったわけじゃないし、会社が危なくなってそれに拍車がかかった。社長に云ったとおり、親父はいまでも返済してる。働きだしておれが援助するって云っても断られた。そこは親父のけじめだろうし、だから親父のことでもだらしないことでも、姫良に心配かけることはない」
「心配してない。それより紘斗がそういうことを話してくれるっていうのが断然うれしい」

 姫良が心底から笑って見上げると、紘斗のしかめたような顔に見下ろされた。正確に云えば、しかめた、というのとは違う。なんだろう。昼に会社で見た表情と同じだ。
「姫良」
「紘――っ」
 何をするつもりか、気づいて止めようとしたときはすでに遅く、場所を(わきま)えず、紘斗が姫良のくちびるをふさいだ。
 一瞬よりはちょっと長いキス。
「行きたいとこあるか?」
 歩きだしてまもなく、紘斗が訊ねた。
「わたしの部屋、このまえのワインが残ってるよ」
「決まりだ」
「わたしって可愛い?」
「襲うつもりはない。心配しなくても」
 ずれている会話に笑いだすと、紘斗の手が姫良の肩を強く引き寄せた。

− The End. −

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