CHERISH〜恋綴り〜

雨が降りやんでも〜夏夜のおとぎ話〜


 あたしはキラ。
 ずっと腕を捜している。腕以外のことはなにも覚えていない。覚えているのは潰されそうなくらいに抱いてくれた腕。
 あたしはその腕を“ママ”と名づけた。
 どうしてママを捜しているのか。
 その自分の気持ちの意味さえわからない。
 もう老いたあたしはママを恋しがる年でもないのに。

「キラ、来いよ」
 雨が続いているある日、ベッドの上に寝転がった同居人、紘斗が手もとを叩いてあたしを呼んだ。
 いつもより遅く帰ってきた紘斗がお風呂に入ったり、明日の準備をしたりと寝るまでの間、ずっとあたしは近づかず、遠巻きに動きを見守っていた。
 日付が変わるくらいに遅く帰ってくるときはお酒の付き合いか、もしくはメスと一緒だったか。
 あたしをベッドに呼んだということは、今日の付き合いは前者のほうだったんだろう。
 紘斗はメスと交尾した夜は絶対にあたしを呼ばない。
 呼ぶときと呼ばないときがあると気づいたのはいつだったか忘れた。
 どんな違いがあるのだろう。
 そう思ってあたしはその違いを探してみた。
 呼ばれるまで今日みたいに遠巻きに見ていたあたしだったけれど、試しに近づいてみた。
 あたしの鼻は利く。
 お酒を飲んだ日に近づくと、なんだか躰がカッとしそうなニオイがした。嫌いじゃない。普通の日には絶対にしてくれないチュウがあたしを酔わせる。
 気づいたら大の字に寝てたりして、ちょっと恥ずかしい。紘斗に気づかれることもあって、そんなときはあまりの体裁の悪さにあたしは飛び退()く。
 それを見て、ヘンな奴、とつぶやく紘斗の歪んだ笑い方が好き。
 ベッドに呼ばない日は。
 好きじゃない、ううん、はっきり嫌いなニオイがした。鼻をつく、ママとは全然違うメスのニオイがした。つくりもののニオイ。

 紘斗はときどきメスを連れてくる。
 同じメスじゃない。というより、紘斗は同じメスを二度と連れてきたことはない。
 それなのに、どれも鼻をつく。
 あたしは近づけない。
 部屋の(すみ)っこでじっと紘斗とメスを追っている。
 紘斗はそうしているあたしを見返すけれど、絶対にあたしを呼ばない。
 あたしの視線のせいなのか、紘斗は長居させることもなく、メスを連れだす。
 ほとんどのメスはあたしを無視する。もしくはあまりにも隅っこに置き物のごとく座っているせいで、気づかないのかもしれない。だってメスはそれどころじゃなく、盛りのついた“なんとか”みたいに紘斗を追ってる。
『なんとか』っていうのは『なんとか』。それをはっきり口にしたらあたしのプライドが許さない。あたしは盛りなんてつかないし……まあ、それは置いといて。
 たまに余裕のあるメスがいて、あたしに近づいてくる。来ないでって云うのに、あたしの言葉はメスに通じない。
 つい最近、機敏さがなくなってきたせいで逃げきれず、あたしを捕まえたメスがいる。名前はミハルって云っていた気がする。
 そのとたんにあたしはバカみたいに暴れて爪を立てたんだった。
 このメスじゃない。
 ママの腕を忘れそうで怖かった。
 あたしは紘斗を守ろうとしてた。
 なんのために、なぜ、なにから?
 ここでもあたしは答えを出せない。

 紘斗と出会ったのがいつだったのか。
 やっぱりあたしの脳みそは役に立たない。
 いまは箱の中に住んでいるけれど、ちょっと昔はもっと柔らかい香りのなかにいた。
 家の屋根裏でチュウチュウ――紘斗のとは違う種類のチュウと鳴く、すばしっこい丸々としたのを追いかけたり。やたらと毛のない尻尾が長くて、一度だけ踏んづけたことがあるけれど気持ち悪かった。それ以来、捕まえるのはやめて脅すだけにした。だって紘斗のじぃちゃんとばぁちゃんがせっかく作ったごはんの“もと”を食べ荒らしてしまうから。
 外に出て気紛(きまぐ)れに散歩しながら、緑と風の中で眠ったり、時間の流れが穏やかだった。
 たまにうるさいほど追い払っても追い払っても近づいてくるオスがいたけれど、あたしは独りでよかった。
 独りでというよりは紘斗がいるなら、友だちがいなくてもよかった。
「キラ、おまえ、いっつも独りだな。似てるよな……」
 いつだったか一緒に寝転がった緑の上で紘斗がつぶやいた。
 そういう紘斗も独りでいることが多い。
 たまに紘斗のパパが来るけれど、ほとんど口をきかない。
 でも似てるって?
 あたしと紘斗は似てる。でもいま紘斗が云った似てるというのはそういうことじゃないとわかった。
「おまえ見てると、だんだん心配になってくる」
 普段からあまり語らない紘斗はそう云ってかすかに笑った。

 箱の中に移り住んだのは八年前。
 ここに来て以来、暑いということ、寒いということを忘れてしまった。いつも同じ温度で、心地よい紘斗のニオイに満ちている。
 あたしの仲間は住処(すみか)が変わったらストレスで頭がおかしくなると、まるで自分のことのように嘆いて忠告してくれたけれどなんてことなかった。
 あたしは家のニオイより、紘斗のニオイに執着しているのかもしれない。
 紘斗はたまに公園に連れていく。そこはどんな場所とも違う空気があった。紘斗が決まって座る池の周りにあるベンチは、苦手な寒い冬でも温かい。
 外に出るときにいつも紘斗が纏っている(とげ)もそこでは柔らかく身を潜める。
 こっちに来て二年くらいすると、紘斗はヘンなニオイのするものを吸いはじめた。あたしが嫌がっているのを知って、紘斗はわざと口を(すぼ)めてニオイを吹きかける。
 思わずくしゃみをしたくなるようなニオイは部屋から抜けることなく、逃げ回っていたあたしもいつのまにか慣れてしまった。それは紘斗のさみしいという表現なのかもしれないと思うようになった。

 紘斗から呼ばれるままにあたしがベッドに飛びあがると、紘斗はあたしを持ちあげて仰向けになり、自分の胸に載せた。
 紘斗はいつになくジッとあたしを見つめる。
「おまえと……会ったんだ」
 紘斗は意味不明のことをつぶやいた。
「なんでだろうな……接点なんてゼロに近いのに……なんで似てるんだ?」
 紘斗の声にはいままでにない響きがあった。さみしさと疑問と腹を立てているような、いろんな響きがごちゃ混ぜになっている。
 あたしにはわからないとあきらめ、紘斗の上で丸くなると、躰を撫でられているうちに気持ちよくなって眠りに沈んだ。
 それからときどき、紘斗からいままでとは違うニオイがした。
 そのうち、紘斗の棘が少しずつ抜けていること、ニオイがだれのものか、ということに気づいた。


  * * *


 八月も盆を過ぎたが、残暑という挨拶には違和を感じる。ビルの谷間を抜ける風も不快な熱を()き散らすだけで、涼しいとは程遠い。営業に行く先々でだれもが、暑いですね、と口を開く。
 今日の交渉は思いがけずすんなりと進んで、上司への報告も簡潔にすみ、めずらしく六時には会社を出た。
 会社へ戻ってきたときの天気とは打って変わって、黒い雲が押し寄せ、風の流れも速くなっている。
 雨が降らないうちにと急いで駅に向かった。
 八つ目の駅で降りると、そこはビジネス街の殺風景さとは違い、だれもを歓迎しそうな空気感がある。商店街から会社、民家と入り混じった通りを足早に進む。低い建物が多いなか、一つだけ群を抜いた赤い煉瓦の建物を目指した。
 もう少しというところで雨が落ちはじめる。マンションの玄関前の軒下に入りこむ寸前、一粒だった雨がラインになった。
 中に入るまえに頭を振って水滴を払う。
「紘斗!」
 自動ドアを通り抜けようとした矢先、うるさいほどの雨音を()きわけるようにかぼそく声が届いた。振り向いたと同時にずぶ濡れに近い躰が走りこんできた。ぶつかる寸前、肩をつかんで受け止める。
「こんなとこでなにやってる?」
「電車の中で紘斗を見かけて……あとをつけてきた」
「ストーカーだ」
 紘斗が顔をしかめて云うと、姫良は気にするふうでもなく、雫が入るのを防ぐように目を(しばた)きながら肩をすくめた。
「雨、止むかな」
「夕立だからすぐに止む」
「タクシー、呼んでくれる? こっち、はじめて来て、なんて説明したらいいかわかんないし」
 紘斗は返事をしないまま、しばらく姫良を見下ろした。濡れた髪の先から、胸もとでバックを抱えこんだ姫良の腕にぽたぽたと雫が落ちている。
「そのまんまじゃ、タクシーも嫌がるだろ。乾燥機あるから、乾かしていけばいい」
「え……」
「下心なんてない。それを心配してるなら。それにうちには番犬ならぬ、番猫がいる。行くぞ」
 困惑した姫良を置いて、紘斗はさっさと自動ドアを抜けた。姫良は慌てて後を追う。
「猫、いるの?」
「ああ」
「意外。動物を飼ってるなんて」
「……おまえは?」
 何気なく聞こえる質問に姫良はわずかに顔を曇らせた。
「わたし? まえは……猫を飼ってた。三年前に死んじゃったの」
「……ふーん」
 その返事はなにか裏があるような気がした。訊ねる間もなく、エレベーターが七階に止まり、姫良は訊きそびれてしまった。


  * * *


 玄関から金属の音が聞こえると、あたしはわくわくしてその姿を待った。いつもより早い気がする。
 あたしは絶対に迎えにはいかない。じっと部屋の隅で待つ。
 ドアが開いたとたん、あのニオイがした。
 あたしが覚えていたのは腕だけじゃない。ママの香りもちゃんと覚えていた。
 足音が香りを運んでくる。
 紘斗の後ろから入ってきたママはなにかを探すように部屋を見回し、その瞳が背筋をピンと伸ばしたあたしを見つけだして止まった。
「すごい、真っ白! なんだか気取ってるけど可愛い。名前は?」

「……さあな」
『キラ』

 紘斗の声とあたしの声が重なった。
『どうして教えないの?』
 紘斗は不満そうに云ったあたしをちらりと見る。
「名前も付けてないの?」
 ママは呆れたように云うとバッグをソファの横に置いて、部屋の隅にいるあたしに近づいてくる。
「紘斗、抱いていい?」
「人馴れしてないから気をつけろよ。このまえ、そいつ抱こうとして噛みつかれた奴いるから」
 ママが手を差し伸べた。
「大丈夫だよ。怖がってる感じしないし。きれいな猫ちゃんだね。おいで」
 あたしは迷わずその腕に(ゆだ)ねた。香りがあたしを包みこむ。
 やっぱり捜していた腕だった。
「ゴロゴロ云ってる。わたし、濡れてるのに気持ちいいのかな」
 そう云って耳の傍で笑うママの振動が躰越しに伝わった。
 ママの背後で、紘斗がかすかに驚いた表情を見せてあたしたちを見比べている。
「ちょっと待ってろ」
 すぐに肩を小さくすくめ、紘斗はリビングを出ていった。
 覚えているよりやさしくなった腕に抱かれたまま、躰を撫でられるたびにあたしは『ママ』とつぶやいた。
「姫良」

「うん?」
『うん?』

 え?
 紘斗の呼びかけに、あたしとママは同時に返事をした。
 ママはまったく気づいていないけれど、紘斗がくちびるを歪めてかすかに苦笑いしている。
 あたしの名前は……ママと同じ。
「Tシャツ、貸してやるから早く着替えたほうがいい。夏といっても風邪ひかないとは限らないし。タオルはバスルームの棚に新しいのが入ってる。乾燥機の使い方、わかるか?」
「うちにもあるから、たぶん。ありがとう」
 ママ――姫良はあたしを放して頭を撫でると、ふわりと笑って部屋を出ていった。
『どういうこと?』
「やっぱ似てる。おまえの甘えた声も、姫良の笑う顔も……」
 紘斗は当然のようにあたしの問いには答えず、そうつぶやいた。

 しばらくして、ぶかぶかのTシャツを着た姫良が戻ってきた。
 紘斗の横で座って待っていたあたしを見て、
「紘斗、猫ちゃんの写真、撮っていい?」
と訊ねながら、返事を聞くまでもなく姫良はバッグを探っている。
「かまわない」
 紘斗は立ちあがって対面式のキッチンへ入り、セットしていたコーヒーを取りにいった。
 紘斗が戻ってくるまで、姫良は携帯をかざして、あたしの写真を何枚か撮った。
「見て。ほら、きれいに凛々(りり)しく撮れてるよ」
 姫良はそう云ってあたしに画面を見せてくれた。覗きこんだあたしの頭を姫良の手が撫でる。
「紘斗、猫ちゃん、人馴れしてないって云ったけど人(なつ)っこいよ。ね?」
 紘斗は答えないまま、コーヒーをテーブルに置いた。
「……もしかして……噛みつかれたのって彼女? だから番猫なんだぁ。偉いねぇ。あたしは二番目だから噛みつかないでくれるのかな」
 姫良は妙に納得して可笑しそうに紘斗を見やった。
「二番目ってなんだ? ハーレムじゃあるまいし。おれは認めてない」
 紘斗が顔をしかめてあっさりと姫良に返した。
「でもちゃんと相手してくれるし、あたしはそれでいいんだから二番目でいいんじゃない? あ、猫ちゃんが一番目だから、あたしは三番目だね」
 姫良が笑う。
 はじめて見た自分の姿はママとは全然違った。
 でもあたしとママは似てる。
 紘斗の云った意味がいまの姫良を見てわかった気がした。


 それからあたしはだんだんと眠っていることが多くなった。もう目が覚めることはないんじゃないかと思うくらい深い眠りの中に入る。食べることも億劫(おっくう)で、眠っていることのほうが気持ちいい。
 ただひとつ。
 ママの腕を捜していた理由。
 それが見つからないと、眠りの中に委ねきることができない。
 ママにもう一度会いたい。そうしたらわかる気がする。
「キラ、姫良に会いたいか?」
 気づけばなにか云いたげにあたしを見ていた紘斗が、ある朝、躰を撫でながら云った。
『うん』
「わかった」
 紘斗が出かける直前に呼び出された姫良がまにあった。
「……かなり弱ってるから、おれが帰るまで看ててほしい」
 話しながらふたりがリビングに入ってくる。
『ママ』
「なんだかうれしそう」
 弱々しくも呼びかけると、心配ながらも姫良もうれしそうな顔をして、座布団の上に丸くなったあたしの横に座った。
「じゃ、頼む。好き勝手にやっていいから」
「うん。いってらっしゃい」
「……ああ」
 ここでも姫良は気づいていないけれど、云われ慣れていない紘斗は一瞬、見たことのない戸惑ったような表情になった。
 理由の糸口が見えた。
 紘斗が出かけると姫良はあたしを膝の上に抱いた。
「わたしも猫を飼ってたことがあるの。名前がね、笑わないでよ。ヒロト、っていうんだ」
 そう云った本人がくすくすと笑っている。
 その傍らで、あたしの中に、黒斑(くろぶち)の姿が不意に現れた。
 ヒロト……って名前もらったんだ……じゃあ、キラって名前をもらったあたしは……。
「ヒロトって名前の子、何人か知ってるけどなにが違うのかな……紘斗をはじめて見たとたんになんだか……声かけちゃったの。名前を聞きだしたらびっくり。それでなんとなく他人じゃない気がしてくっついて回ってる。ヒロトを飼ったきっかけって覚えてなくて……気づいたらいたんだよね。病気で記憶が飛んじゃってるから。ヒロトって普通、人の名前だし、猫ちゃんにつけないのに……あ、紘斗には内緒ね。プライド、傷つけちゃいそうだし」
 時間は穏やかに流れ、姫良のお喋りの音が心地よい。
「紘斗の彼女、きれいなんだよ。わたしが絶対に持てない自信が見えるの。いいなぁ……違うの。紘斗の彼女になりたいんじゃなくって……あんな女性(ひと)になりたいなって」
 独りで質問を想定して答えている姫良の声に、たまに泣きたくなるような心が表れる。それを消すように姫良のくちびるに笑みが宿る。

 意地っ張り。
 独りでいい。
 でもあたしがいることを忘れないで。
 気づいて。
 似てる。
 ときどきでも紘斗がかまってくれるのなら。
 あたしがずっと紘斗を見ているように、姫良は紘斗のまえに現れる。

 理由が見えてくるにつれ、あたしのまえで光の扉が開いていく。
「大丈夫だよ。紘斗が帰ってくるまでもうちょっとだからね」
 光に気づいているのか、姫良がやさしく囁く。
 それとともに姫良の心があたしの頭に降ってきた。
 温かい雨。
 雨に触れた耳がピクリと動き、その既視感があたしの記憶を呼んだ。

――さみしくないですよね?

 紘斗を守ろうとした理由。
 なんのために、なぜ、なにから。
 姫良のために、姫良のかわりに、さみしさから。
 あたしは姫良に廻り合った。
 捜していた理由。
 そうだったんだ……。
 バトンタッチ。
 今度こそ、姫良が紘斗を守るばんだよ。そうできるのは姫良だけなんだから。

 どれくらい待ったのか時間はわからない。
 玄関が開いて夜のニオイを紘斗が持ち帰る。

「キラ、ありがとう」
 姫良の心とともに紘斗の言葉があたしの中に満ちた。
『紘斗』
 姫良の膝の上にいるあたしの躰を紘斗の手が撫でる。
 光に身を委ねた。

「姫良、悪かったな、付き合わせて。ありがとう」
 紘斗の腕が姫良の背に回った。

 あたしには見えなかったけれど、心に映った。

 雨が降りやむまでその腕は離れない。
 ううん、降りやんでも。

 さみしくないよね――きっと。

− The End. −

【雪割草】と絡んで、大人になった姫良と紘斗が出会って間もない頃の話。
撮ったキラの写真、いずれかの物語のワンシーンに出ています^^

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