CHERISH〜恋綴り〜

Now is A l l 〜桜景色〜
 

 正午を過ぎて外に出るとやわらかな風がふんわりとカールした髪を揺らし、それとともにかすかに春の香りが躰に纏わりつく。
 マンションから駅まで向かう途中の歩道沿いにはパンジーやチューリップなど、春の花を色とりどりに散りばめた鉢がずらりと並んでいる。
 三月にありがちな強い風が通りを抜けると、桜の花びらが薄手の淡いピンク色のコートに張りついた。
 先のほうに桜の木が見える。あと二週間もすれば四月になって桜も満開になるだろう。
 姫良は花びらを(はら)うとポケットから携帯を出して、歩きながらコールボタンを押した。

『はい』
 三回目の呼びだし音が途切れ、かわりに紘斗の事務的な声が聞こえた。
「仕事中……だよね」
『なんだ?』
 あたりまえだと顔をしかめていそうな声だ。
「お昼、一緒にどうかなと思って。まだ食べてないでしょ?」
『今日は出られない。いろいろと予定が詰まってる』
「社員食堂でいいよ。ご飯くらい食べるよね?」
『どこにいる?』
「いま、マンションを出た」
『わかった。ちょっと遅れるかもしれない』
「うん」

 相変わらず、誘うのは姫良のほうからばかりだ。
 紘斗の仕事が忙しいだけに平日は会うのもままならず、誘わなければ休日まで働いていそうだ。
 けれど一日のうちに最低でも一度は声が聴きたいし、できれば会いたい。つまり、必然的に電話を待っているよりはかけてしまうぶん、どうしてもそうなる。紘斗にとってみれば、逆に誘う機会を奪われているのかもしれない。
 そう考えて、姫良は独り笑った。

 紘斗が姫良を受け入れたときに生まれた、新たな畏れはだんだんと姫良から払拭されていく。
 暖かくなっていく季節の移り変わりと同じように、姫良の中も温かくなっているようだ。

 駅を出るなり、人の流れにかまわず立ち止まって、姫良は群青の空を見上げた。
 遠くは春霞でぼやけているが、とりわけ、こんなに空が青く広がって天気がいいと、姫良のなかにある別れというイメージの春でも、前途洋々な未来しか思い浮かばない。

 ビジネス街を通って貴刀本社ビルに入ると受付の前を通り過ぎ、奥にあるエスカレーターで二階に上がった。
 このフロアは一般にも開放された食堂で、ほかのフロアとは切り離された空間として設けられ、一階のエスカレーターからしか入れないようになっている。
 昼休みももう一時近くになっているせいか、食堂も余裕で席取りができた。
 少し色のついたガラス張りの食堂は明るい。夏ならクーラーがきいていても遠慮するところだが、このぽかぽか陽気は歓迎するところで、姫良は窓際を選んで紘斗を待った。
 通り行く人を見下ろしたり、エスカレーター付近に目をやったりと繰り返しているうちに紘斗が来た。入り口のトレイが置かれている場所で食堂内を見渡している。

 姫良が近づくと、紘斗はトレイを二つとって一つを差しだした。
「どうしたんだ、急に?」
「わたしはいつも急じゃない?」
「まあな」
 器に入った惣菜(そうざい)が並んでいて、ふたりはそれぞれに好きなものを選び取って進んでいく。温かくして食べるものはちゃんと保温庫の中に入っていて、安いながらもここの料理は美味しいとの評判だ。
「いま、休み中でちょっと退屈してるの」
「おまえはアルバイトする必要ないからな。いい社会勉強の機会になるけど」
 取り終えた紘斗がさっさと席へ向かうと、姫良も急いであとを追った。

「一度、やったことはあるの」
 席についた紘斗は手を止めて問うように少し目を見開いた。
「続かなかった?」
「ううん。ファーストフード店だったんだけど楽しかったよ。ああいうところがどこもそうなのかは知らないけどけっこう規則が厳しくて、お客さんの対応とか、紘斗の云うとおり勉強になった。でもパパに見つかっちゃったの」
「それで辞めさせられた?」
「うん」
 姫良が気に喰わないように鼻にしわを寄せると、紘斗は笑った。
「おまけに気の毒なくらい、どうして身上書をしっかり調査しないんだって責めるし。普通にそこまでやらないでしょ? それ以来、かえってアルバイト先に迷惑かけるからできないの」
「お嬢さまなりの苦労があるらしいな」
「いつもは知らないふりしてるのに、本当に知らないふりしてほしいところで首を突っこんでくる」
 ()ねて云った姫良だが、そこにはさみしさも混載していた。
「心配してるってことだけは素直に受け取れよ」
「紘斗はわたしがなにやっても心配しなさそうだよね」
「……なにがいいたい?」
「へんな意味じゃなくて……動揺するところって見たことないから、どんなことがあっても受け入れるんだろうなって思ったの」
「なるようにしかならないからな」
「冷めてる」
「表面上はそう取られがちだけど、もっと奥を深く考えてみろ――」

「姫良ちゃん?」
 紘斗が云いかけているところへ、姫良は不意に知った声に名を呼ばれた。
 姫良が顔を向けると、貴刀本社の常務である市川が少し太った躰を小さく揺すって近づいてくる。
 市川は貴刀グループの現最高経営責任者(CEO)、つまり姫良の父親と同期入社で、貴刀家とは家族ぐるみで付き合いがある。
 紘斗はまだ姫良と貴刀の繋がりを知らない。
「おじさま、今日はここでお食事なの?」
「家内が風邪をひいてしまってね。たまには社員食堂も趣きが変わっていい」
 市川は常務という地位を得ても庶民的な感覚は失わず、姫良に対しても特別な物云いや扱いはけっしてしない。
「こんなところで会うとは思ってなかったよ。社長は――」
「あ、おじさま! パパには内緒にしてほしいの」
 紘斗が切れ長の目を(いぶか)しく細めて状況を見守っているなか、余計なことを云われるまえにと、慌てて姫良は市川をさえぎった。
 市川は姫良の向かいに視線を移していく。
 紘斗は当然、常務を知っているわけで、目が合うとほぼ同時に立ちあがった。
「営業企画室主任の吉川です」
「ああ、知ってるよ。優秀な社員の噂はかねがね上層部まで届いている」
「紘斗、市川のおじさまはパパのお友達なの」
 その遠回しな紹介を聞いた市川はなにやら思い至ったように、ただでさえ細い目をさらに細めてニコニコしだした。
「邪魔したね。君たちはお互いに目が高いようだ」
 姫良がかすかに顔をしかめると、市川は笑って立ち去った。

「……どういう意味なんだ?」
「え……なにが?」
「目が高いって。おまえがどっかのお嬢さまだからなのか?」
「うん……たぶん」
 市川の含んだ云い方に気づいた紘斗は、謎を解こうといろんなことを繋ぎ合わせているようで、姫良は困惑しつつうなずいた。
「立場的にはだれから見たって逆玉には違いないだろうな」
「そう思われるの嫌?」
「人がどう思おうと関係ない」
 不安そうに訊ねた姫良は返事を聞いてホッとしたように笑った。
「嫌味じゃないんだよ」
「常務の云い方はまずそうは取れないような口調だった。気にしてない。どっちかっていうと、おまえの正体のほうが気になる。遠野っていう資産家は知らないし」
「遠野は死んだママの実家の姓なの。パパとは違う名前だから」
「ふーん」
「……なにも訊かないんだね」
 興味なさそうにしている紘斗は、ともすれば逆になにもかもを承知しているようにも見える。
「だいたいの想像はつくから。無理やりに訊くようなことじゃないだろうし、話したいときにはおまえ、嫌でも聞かせるだろ?」
 姫良は曖昧に首をかしげた。
 たまには――。
「訊いてほしいか?」
 心のつぶやきが聞こえたかのように紘斗のタイミングがよすぎて、姫良はクスクスと笑いだした。
 紘斗からすると姫良の反応は意味不明で、呆れたように肩をそびやかす。

 紘斗が食べている間、姫良はほとんど独りで喋っていた。
 姫良の前にはほぼ手付かずの状態で料理が並んだままだ。
「おまえ、喋ってばっかりだ。おれはもう戻らなきゃならない」
「うん。いまから食べるよ」
「一緒に食べようって云ったくせに」
「だって、ご飯は一人で食べられるけど、お喋りは一人でしたってつまんないし」
 紘斗はハッと息をつくように短く笑うと立ちあがった。
「じゃ、またな」
「うん」
 後ろ姿を追っていると、紘斗がふと立ち止まって振り向いた。
「姫良、今度の休み、桜を見に行こうか。まだちょっと早いかもしれないけど」
 一瞬、驚いた姫良だったがすぐにうなずいて、くちびるがうれしそうに笑みを形づくった。
「ホント云うと、桜の季節って好きじゃないの。でも好きになれそう」
 紘斗は口の片端を上げて笑むと、手を軽く上げて仕事に戻っていった。



 次の日、出勤したとたんに姫良を示す携帯音が紘斗を呼びだす。
 いくら姫良でも、なにかあったのでなければ電話をかけるはずのない時間帯だった。

『もしもし……』
 姫良の消え入りそうな声が届き、言葉が詰まったように途切れた。
「なにがあった?」
『……おばあちゃんが……今朝早く……亡くなったの』
 そう告げた姫良の声が震えていた。
「わかった。いろいろやんなきゃいけないことがあるだろ。いまからそっち行く」
『ううん、大丈夫。パパがやってくれるから』
「おれにどうしてほしい?」
『仕事……終わったら来てくれる?』
「わかった。無理するなよ」

 早めに仕事を切りあげ、紘斗が葬祭場に着いたのは六時になろうかというところだった。
 遠野家と札のある受付で記帳したあと会場に入ると、まず姫良を確認した。
 うつむきかげんで、見た目は冷静に振る舞っている。いつもは肩より少し長い髪をふんわりとおろしているが、いまはそれをまとめているせいか、喪服姿の姫良は一層小さく見えた。

 そして横に立つ長身の、おそらくは父親であろう人物に目を移した。
 ? どういうことだ?
 自分に疑問をぶつけた瞬間、すべてに納得がいった。

 焼香をすませると、まず姫良の父親であり、貴刀最高経営責任者である貴刀一成(かずなり)の前に立って一礼した。
 社員の顔を覚えているのか、ほぼ同じ高さにある目が思い当たったように少し驚きを映して挨拶が返ってきた。
 姫良の前に進むと顔を上げた瞳は、当てにたどり着いたかのようにかすかに潤んだ。
「大丈夫だ。まだいるから」
 そう囁くと姫良は声もなくうなずいた。
 そして姫良の横に、おそらくは義理の母親とその息子が付き添っていて、紘斗に向かって頭を下げた。
 こじんまりとした通夜の儀式が終わると、姫良が近づいてきた。

「来てくれて……ありがとう」
「座れよ」
 隣の椅子を指差すと、素直に姫良は座った。
「朝早くに……病院から電話があって……昨日はいつもと変わりなかったの……」
 紘斗は姫良の顔を自分の肩に引き寄せた。
「こういうときは泣いたって恥ずかしいことじゃない」
「……覚悟してたから……」
 紘斗の首もとに顔を(うず)め、くぐもった声で答えた姫良の躰が小さく揺れた。
 ずいぶん長い時間、姫良が顔を上げることはなかった。
「おばあちゃんと最後……会ってくれる?」
「ああ」
 紘斗がためらいなくうなずくと、泣き()らした赤い目が少し笑みを浮かべた。
 (ひつぎ)の窓が開けられると、穏やかな永眠(ねむ)りがそこにあった。それぞれに想いを抱き、しばらくふたりは無言でその場に(たたず)んでいた。
「明日の式も出てくるよ」
「うん」

 帰り際、ずっとこっちの様子を(うかが)っていた一成の前で紘斗は止まった。
「君は営業企画室の――」
「はい。吉川紘斗です」
「姫良とは……」
「お付き合いさせていただいています。挨拶が遅れました」
 紘斗は浅く一礼すると、失礼します、と声をかけ、姫良の手を引いて外に出た。
 夜はまだ肌寒く、姫良はぷるっと震える。
「今日は夜通しになるだろうけど、ちょっとは親に任せてちゃんと眠るんだ」
「うん……パパのこと……」
「あとでいい」
 不安そうに見上げた姫良の顔を紘斗はじっと見つめ、つと、顔を下ろした。
 くちびるが姫良の頬の冷たさを知る。
 顔を上げると、今度は姫良の頬を手で包んで撫でた。
「いまの、不謹慎だって思うなよ」
 姫良はホッとしたように微笑んだ。
「うん。ありがとう。ちょっと元気出た」
「ああ。じゃ、また明日な」



 姫良の祖母が亡くなってから二週間を過ぎ、月は四月に変わっていた。
 張り詰めていた気持ちがだんだんと緩んでいくにつれ、紘斗の前で姫良から笑顔が消えていった。
 年度末の時期は仕事が忙しく、休みも潰れるなかで毎日、どんなに遅くなっても姫良のマンションを訪ねるせいか、姫良からの電話もめったにない。
 灯りを絶やさないようにと遺骨を預かっている親族の家に顔を出すくらいで、姫良は外に出ることもなく、友達が訪ねてきたとき以外はほとんど独りで過ごしている。
 四月になってはじめての日曜日、やっと休みが取れて朝から姫良のマンションを訪ねた。姫良は玄関口でびっくりして、ラフなシャツとジーンズに薄いコートを羽織った紘斗を見上げた。

「今日は休み?」
「いいかげん休みたくなった」
 姫良のくちびるの端がかすかに上がる。
「出かけるぞ」
 紘斗が云うと、姫良は首をかしげた。
「桜、見に行く。きれいなのは今日が限界だろ」
「桜、嫌い」
 最近お決まりになってきた不機嫌な様に変わり、姫良はそっぽを向いた。
「姫良……」
「春も嫌い。花、バカみたいにカラフルに咲いてるけど、どうせ散っちゃう。なんにもならないから」
「嫌いでもいい。行こう」
「やだ」
「……じゃ、ばあちゃんとこだ」

 姫良は駄々をこねた子供のようにうつむいて動かなかい。根気強く紘斗が待っていると、不意に音を立てて息を吸った姫良が()きこみはじめた。
「病院、行ったのか?」
 しばらく止まらない咳は最近になってやたらと多い。背中を撫でながら訊ねると、姫良は咳の合間に首を横に振った。
 やがて治まると、姫良は一つ大きく深呼吸をした。
「大丈夫……小さい頃の病気の名残なの。……バッグ取ってくる」
 姫良は廊下の突き当たりにあるリビングに行ってすぐに戻ってきた。

 電車とバスを乗り継いで、姫良は普通よりは少し大きい純和風の家に紘斗を案内した。
「ここのおじいちゃん、おばあちゃんの弟なの」
 紘斗がいきなりで一緒に訊ねてもさほど驚くふうでもなく、老夫婦に温和な笑みで迎えられた。
 紘斗自身、中学のときに両親が離婚し、姫良と似たような境遇で祖父母と暮らしてきたために、老夫婦との会話も苦痛ではなく、どうせならと昼食まで勧められて甘えることにした。

「間違っていたら申し訳ないが……もう十年以上も前になる。迷子になった姫良の面倒を見てくれたのは……紘斗くん、きみかな」
 昼食の準備へと大叔母とともに姫良がキッチンにこもったとたんに、紘斗は大叔父の松兼卓史(まつかねたかし)に訊かれた。
「……はい」
「そうか……姉から姫良がその男の子とまた会ったんだと聞いて……」
「それがどうかしたんですか?」
 云うべきか迷っているような卓史にさきを催促した。
「あれから姫良は何度か家出を繰り返して……」
「家出?」
 紘斗は顔をしかめて問い返した。
「家出というよりは……きみを探してた」
「おれを……?」
 一瞬、愕然(がくぜん)として卓史から目を逸らすと、紘斗はうつむいて強く目を閉じた。
「おれは……あの二日後に引っ越したんです」


「そうだったのか……最後に家出した日は雨が降りだして……ちょうどいま頃だった。春とはいえ、まだ肌寒い。肺炎を(わずら)って数日は危ない状態だった。高熱の影響か、目が覚めた姫良はきみとの記憶を失くしていた。あの頃は姫良にとってつらい時期だった。限度を超えたぶん、自分を守るにはなにかを切り捨てなければならなかったらしい。ほかとは繋がっていないきみのことを忘れることがいちばん簡単だったということだ。もしくは記憶に残れば耐えられないほど君を支えとしたのかもしれん。医者はそう云っていた。あの母親は喘息(ぜんそく)持ちだったんだが、その時を機に姫良もまた発作を起こすようになった。原因は精神的なもので、躰にはなんの問題もなかった。いつの間にかその発作もなくなったが……あの子なりに処理できるようになったんだろう」


 紘斗は顔を上げ、奥のキッチンで大叔母と楽しそうに料理をしている姫良の後ろ姿を追った。
「いま……はじめて後悔しました」
 やりきれない気持ちが抑えられないまま紘斗はつぶやいた。

 独り立ちできていなかった自分に、あの時にできることはない。それでも――。

「後悔することはない。その気持ちだけで充分だ。姉もそう思っている」
 穏やかにそう云って、卓史はまた顔を伏せた紘斗の肩を励ますように叩いた。

 やがて姫良たちが料理を(たずさ)えて戻ってくると、四人で団欒(だんらん)しながら昼食を取った。
 こういう雰囲気での食事は久しぶりのことで、姫良は楽しい時間に感じた。この馴染み深い空間に紘斗がともにいることの安心感からかもしれない。

 一時過ぎに家を出てバスで駅まで行くと、今度は紘斗が先導した。
 行き先がマンション方面ではないことに気づいて、姫良は繋いでいた手を引いた。
「いいから。たまにはおれのわがままに付き合え」
 強引に云うと、姫良はまた拗ねた表情に戻ったが、無言のままでも逆らうことはなく紘斗に従った。

 三つ目の駅で降り、手を引かれるままに街中を通って十分くらい歩くと、紘斗は脇道に入った。
 両脇にある建物を一つ過ぎ、その向こうに公園があった。人工芝生の間にあるエンジ色のアスファルトの歩道を通って奥に進む。程よい広さのなか、子供たちが歓声を上げながらアスレチックの滑り台で遊んでいる。歩道を挟んだ反対側では砂場で(たわむ)れる子供たち。
 ずっと奥に進むと二本の桜の木の間にこじんまりとした池があって、姫良が嫌いと云ったカラフルな花が、池の周囲に隙間のないほど並べられていた。
 そして等間隔にある白いベンチ。

 姫良の足がふと止まる。
「どうした?」
「……ううん。なんとなく来たことある気がしたの」
「……公園はどこも似たようなもんだ」
 なにか迷っているような表情を浮かべた紘斗だったが、すぐに肩をすくめてそう云った。
「うん」
 紘斗に促されて、姫良は桜の木の近くにあるベンチに座った。

「子供の頃、この近くに住んでたんだ」
 姫良は隣に座った紘斗の横顔を見上げた。
「親が離婚してからこの町を離れた」
「離婚?」
「そう。いまはこっち出てきて完全に独立してるけど、おまえと同じように、親父の実家がある福岡のじいちゃんとばあちゃんのところで暮らしたんだ」
 紘斗が淡々と告白すると、姫良は紘斗の手に自分の手を滑り込ませた。
 紘斗は驚いたようにその手を見下ろして、それからふっと笑った。
「じいちゃんは三年前に死んだけど、ばあちゃんはまだ元気にしてる」
「……怒ってない?」
「なにが?」
「パパのこと。黙ってて……」
 葬儀から何日か経った頃に紘斗には事情を打ち明けた。
 そのときは紘斗の反応が怖くてどう思っているか訊けなかった。
「怒ってない」
「やっぱり動じないんだね。つまんない」
「これでも驚いてる」
 姫良が不満そうに云い、反対に紘斗は可笑しそうに笑う。

 そして空は晴れ渡り、上着もいらないような暖かさのなか、姫良がコンコンと軽く咳を繰り返す。
 脇に置いたコートを姫良にかけると、寒くないよ、と紘斗に戻した。

「姫良……ばあちゃん、いなくなって不安か?」
「……わからない。ただ……無条件で受け入れてくれる場所がなくなった気がするの。大叔父たちはやさしいけど、それでもやっぱり気を遣っちゃうし……それに……」
「なに?」
「人と人ってどんな形であっても、結局は離れ離れになるんだなって思ったら全部が色褪せた感じ。紘斗のこと、すごく好き。でもいつか……」
 姫良は言葉を切ってうつむいた。
「……姫良、“明日”ってなんだ?」
 紘斗が訊ねると、姫良は顔を上げて問うように首をかしげた。
「え? ……えっと……」
「おまえが云う『いつか』と同じだ。つまり、未来」
 紘斗は姫良から目を離して正面を向いた。
 砂場で遊ぶ親子。
 ここに来る度に見る風景はあの日からいつも変わりない。


「よく“明日こそは”とか “明日になったら”って云うけど、待っている明日に準備されてるものなんてない。それよりも明日のことは明日に任せて、いま、()ることを感じて、いま、できることを、やりたいことをやったほうがずっとラクだし、ずっと得なことだと思う。未来(さき)を思うことに意味なんてないんだ。“いまがすべて”だ。いまがよければいいとか、未来がどうでもいいと云ってるつもりはない。おれだって考えることもある。ただ、いま、ここに、おまえとおれとこうやって向き合ってることのほうがおれは大事だって思う。そういういまを大事にしたいって思う。明日っていう日は追いかけてばかりでつかまえることはできないけど、いまはずっと続いている。いまの瞬間がすでに永遠のなかにいる。このまえ、なるようにしかならないって云って、おまえは冷めてるって云ったけど、逆だろ?  なるようにしかならないから、この瞬間をベストで(のぞ)む。おまえに対してもおれはそう臨んでる。完璧を求めて全部を頑張るわけじゃない。いま目の前にある大事なものを見逃したくないだけだ。いつまでって約束は不可能だ。明日のことなんてわからない。けどいまが続く限り、おまえに対するいまの気持ちを持ち続ける自信はある。いまが繋がってきて、おれはおまえとここにいる。その“いま”を“明日”に惑わされて捨てたくない。姫良……おまえと出会ってそう思うようになった」


 そう云って紘斗が振り向くと、姫良の瞳から大粒の涙が零れる。
「なんで泣く?」
 紘斗の腕が姫良を引き寄せた。
 姫良の涙が止まるまで紘斗は静かにそうしていた。
 時折、子供の悲鳴ともつかない歓声が響き渡る。
 やがて姫良は紘斗の首もとに埋めていた顔を上げ、紘斗の肩に顎を乗せた。
 風が吹いて桜の花びらが舞う。

「桜、きれい」
「この桜、まえはなかったんだ。福岡にいる間に植えられたらしい」
「春も好きになれそう」
 耳もとでつぶやいた姫良の声に笑みを感じた。
 紘斗は躰を離して、姫良の瞳をまっすぐに捕らえた。
「姫良、動じないからといって心配してないわけじゃない」
「うん……ずっと困らせたよね……」
「それでも無理やり笑ってるより、本心を見せてくれるほうがいい」
「市川のおじさまが云うとおり、わたしも目が高いよね? 紘斗を好きになってよかった」
 紘斗は声を出して笑った。

 そのときまた風が強く吹き、桜を舞い散らす。
 群青の空を背景に、満開になった桜の木から眩しく降り注ぐ花びらを見上げて、姫良のくちびるに笑みが広がる。

「姫良」

 呼ばれて紘斗まで視線をおろすと同時に、紘斗の手が頬を包みこんで引き寄せられた。

 見つめた瞳には熱が宿っている。
 瞳を閉じた次の瞬間に、姫良のくちびるに紘斗の熱が溢れた。

− The End. −

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