CHERISH〜恋綴り〜
Silvester 〜 Happy New Year
煉瓦ふうの赤っぽい壁のマンションは遠目からでも目立っていて迷うことはない。
エントランスの前まで来て遠野姫良は立ち止まった。
両手に抱えた重箱の入った袋を階段の途中に置くと、バッグから携帯を出した。
いつもより暖かい冬なのにクリスマスの日と同じく、大晦日の今日も例年のように風が冷たくなった。
少しドキドキしながらコールボタンを押した。クリスマスまえまでのドキドキとは微妙に感情が違っている。
呼びだし音が止まった。
「紘斗?」
『ああ』
「そっちに行っていい?」
『ああ。どれくらいかかる?』
「えっと……いまマンションの下にいるの」
『はっ。おまえらしいな。キー解除するからすぐ上がってきていい』
電話の向こうで吉川紘斗は呆れたように笑って云った。
姫良が紘斗と出会ったのは夏を控えた半年前。
それ以来、姫良は紘斗に付き纏っている。
紘斗には彼女がいたが、紘斗の中での比重は軽いようで専ら呼びだされる側のようだ。姫良に対しても同じで、紘斗はまるで邪険に扱うがけっして拒むことはない。
その距離感は姫良にとってはちょうどいい。
けれどクリスマスの夜。
あの日、紘斗は違っていた。
いつも受け身でしか動かなかった紘斗が、はじめて自らの意思で姫良のところへやってきた。
わたしの中に宿ったのは、紘斗への依頼心と、相反して認めたくないという戸惑いだった。
そしていま、追い返すどころか紘斗はあっさりと姫良を歓迎した。
エレベーターに乗りこんで紘斗がいる七階のフロアでドアが開くと、余計に鼓動が早くなった。
ドアベルを押すとまもなく紘斗が出てくる。
「入れよ」
姫良は少し硬くなってうなずくと中に入り、持っていた紙袋を無言で紘斗に差しだした。
「なんだ、これ?」
「お鍋のセットとおせち料理。ミザロヂーで用意してもらったの。夕食、食べてないよね?」
「まだ六時すぎたばかりだ。お子様じゃあるまいし、そんな早くから食べないだろ」
「……用事……ない?」
ブーツを脱ぎながらためらいがちに姫良が訊くと、紘斗は少し眉をひそめた。
「あったら追っ払ってる」
姫良は紘斗らしい率直な言葉に笑うと、少しだけ気が抜けた。
姫良は紘斗のあとを追い、廊下のいちばん手前にある左側のドアからLDKの部屋に入った。
「じゃ、お鍋用意するね。って云っても材料入れるだけなんだけど」
姫良は遠慮もなく対面式のキッチンに入りんだ。
紘斗は流しの後ろにある背の低い棚に置いた袋から材料を取りだした。流しの下からカセットコンロと鍋を出してダイニングテーブルに持っていった。
「おまえ、どこの金持ちの “お嬢さま” なんだ? クリスマスのときもそうだったけど、ミザロヂーは普通こういうことに応じないだろ?」
ふたりで鍋を突いていると不意に紘斗が訊ねた。
「……秘密! 謎が多いほうが飽きないでしょ?」
姫良はおもしろそうに紘斗を見ると、紘斗はどうでもいいように肩をすくめた。
姫良は紘斗の傍にいられる時間を引き延ばすようにゆっくり食を進めた。
紘斗はそれを知ってか知らずか、つけっ放しにしたテレビに見入ったりして、姫良のペースに合わせてくれた。
片付けを終わって時計を見ると八時半を過ぎている。
姫良はソファに置いたバッグを取りあげた。
「じゃ――」
「おまえ、あのおせち、おれ一人に食べさせる気か?」
云いかけた姫良をさえぎると、ソファに座って煙草を吸っていた紘斗は、ダイニングテーブルに置いた二段の重箱を顎で指した。
「……えっと……」
姫良はどう解釈していいのか困惑して、なんと云うべきかも見当さえつかない。
「どうせ独りなんだろ?」
「……どうして……独りって知ってるの?」
そう訊ねると、紘斗はかすかに顔をしかめた。
「マンションに独りで住んでるし、ここに夕食食べに来るってことは実家に帰るわけでもなさそうだから、そうなんだろって見当つけただけだ」
紘斗は理由を整然と述べた。
隙のない返答のなかに姫良は別の理由を感じないわけでもなかったが、それを訊ねたところで紘斗が答えないことはわかっている。
「帰ってまた来るよりは泊まっていけばいい」
「……でも……」
「初詣って云ってまた来るんだろ?」
やさしくなっていく紘斗と泊まるという意味に、姫良の瞳はますます困惑に揺れる。
そんな姫良を見て紘斗はクッと笑った。
「お子様に手を出すほど飢えてない」
「……紘斗、酷い!」
紘斗にからかわれたせいで姫良の気がらくになった。
ソファは長いのが一つしかなく、横に座るのも居心地が悪い気がして、姫良は紘斗の足もとの床に座りこんだ。ムートンのカーペットがふかふかで暖かく姫良を包む。
「紅白、見ていい?」
「……今時、定番見るってめずらしいな」
「家族と紅白見るのっていいなって思わない?」
「……」
紘斗は答えなかった。
自分のことについてまだ多くを語らない紘斗も、実家に戻らないということは、もしかしたら “家族” と縁遠い人なのかもしれないと姫良は思った。
「独りではつまらないから見ないけど、今日は紘斗がいるから……」
「見ればいい。“家族ごっこ” 付き合ってやるよ」
それは皮肉でもバカにしたものでもなかった。
「うん」
姫良は素直にうなずいて番組を変えた。
緊張はあったものの、姫良は自分がいるべき場所に納まっているように思えた。
それとともに惑いはじめた姫良の中に隠れている幼いままの姫良。
彼女とはどうなったの?
訊きたい気持ちと知りたくない気持ち。別れていてほしいけれど、これ以上に紘斗と深入りしていくのも怖い。
たぶん、この日に姫良がここにいて、彼女がここにいないということがすでに答えとなっている。
ふたりでテレビを見ている間、ほとんど姫良から話しかけるばかりだった。
紅白が終わってジルベスターコンサートの生中継に切り替えた。ラヴェルのボレロの演奏が終わると同時に新しい年が明けた。
「紘斗、あけましておめでとう」
「おめでとう」
姫良が後ろにいる紘斗を見上げて云うと、紘斗も応えて立ちあがる。
「行くぞ、初詣」
「うん。どこ?」
「近くでいいだろ?」
紘斗らしい選択に姫良は笑う。
マンションのエントランスを出たとたん、道沿いに通り抜ける冷たい風に曝された。
「さむっ」
「こっち」
紘斗は姫良を振り向いてそう云うと、先立って行った。
紘斗の空いた左手が目に入り、姫良は小走りに近寄って自分の右手を滑りこませた。
ただそれだけのことなのに、紘斗は驚いたように姫良を見下ろす。
「紘斗の手、暖かいね」
姫良は戸惑ったが手を解くのもヘンな気がして、それを払拭するように笑った。
「……心が冷たいって云いたい?」
「そんなことないよ」
ちゃんと付き合ってくれてやさしい。
口の端をかすかに上げて笑んだ紘斗の手が、姫良の手を軽く握り返した。
まもなく着いた神社は人も少なくこじんまりとしたところだった。
奥へ進んで神殿前まで来るとお賽銭を入れ、紘斗が鈴の緒を引く。
「願い事、多すぎじゃないのか?」
いつまでも手を合わせている姫良を紘斗がたしなめた。
「紘斗はなにをお願いしたの?」
「教えたらご利益ない」
「ふーん、願い事あるんだ」
「……おまえ、おれをなんだと思ってるんだ?」
「紘斗だ!って思ってる」
「なんだ、それ」
つぶやいて紘斗はさっさと戻りはじめる。
姫良は神殿に一礼すると紘斗を追った。
「手……繋いでいい?」
「さっきは訊かなかったくせに」
「うん、て云ってくれそうにないから」
「わかってるなら、訊くな」
クスクスと笑いながら姫良は紘斗の手に触れる。
「手を繋ぐの、はじめてなのになんだか紘斗の手って懐かしい感じがする」
「……はじめて……か。薄情な奴」
紘斗は小さく吐いた。
「え、なに?」
「こっちの話」
行き交う人は近所の家族がほとんどのようだ。人が多いところよりはこんなところのほうがかえって互いが親密に見える。
そう考えて、自分が思っているより紘斗との距離が近すぎると気づいた。
姫良の手を包みこむ紘斗の手が温かすぎて、かえって不安になっていく。
鳥居を出ると紘斗の手を離して立ち止まった。
「姫良?」
「やっぱり……このまま帰る」
「わかった」
紘斗はうつむいた姫良を見下ろしてあっさりと返事した。
姫良が顔を上げると、いつものように紘斗の表情からはなにも読み取ることができない。
怒っているようでもないが手を繋ぐのはためらわれ、黙ったまま姫良は紘斗のあとに従った。
マンションに着くとほぼ同時に、紘斗が携帯で呼んでいたタクシーが到着した。
タクシーのドアが開き、すぐに乗りこもうとして姫良は躊躇した。
矛盾した気持ちが交差する。
これ以上近づきたくないけれど、どこかに遠く離れてほしくもない。
クリスマスの日みたいに……。
紘斗に向き直ると躰が触れるほどに近づいて顔を紘斗の胸に預けた。
「なにやってるんだ?」
紘斗は姫良の肩をつかんで離した。
「ごめん……今日は初詣まで付き合ってくれてありがとう」
拒否されたことに傷ついたにもかかわらず、ごまかすように姫良は微笑んで紘斗を見上げた。
紘斗はそんな姫良をじっと見下ろす。
「おまえはもっと自分がやってることをわかるべきだ」
そう云うなり、紘斗はつかんだままでいた肩を引き寄せ、姫良を強く包んだ。
耳もとに紘斗の確かな鼓動を聴いた。
ねぇ紘斗、神様にはお願いしてたんじゃなかったんだよ。お願いは必要ない。紘斗がこうやって付き合ってくれることで叶ってる。
だから、今日はたくさんのありがとうを云ってたの。
紘斗が腕を離した。
「暖まっただろ」
クリスマスの日に会いに行った姫良の口実を使って紘斗はつぶやき、姫良の背中を押してタクシーに乗るように促した。
「じゃ、またな」
「うん」
タクシーのドア越しに手を振ると紘斗はうなずいて答えた。
語らない表情の奥深くで、紘斗はなにを想っているんだろう。
怖がって離れても、いまみたいにずっとその腕でわたしを繋ぎ止めていて。
− The End. −