CHERISH〜恋綴り〜
トナカイの鼻
おれが姫良に出会ったのは二十才の梅雨明けだった。
十七才だった姫良は駅前のベンチに独りで座っていた。
肩を越えたくらいのまっすぐな黒い髪と着ている服の清楚感が、普通にいる少女とは違っていてどこか気品を漂わせている。
当時つるんでいた、というよりは奴らが勝手におれの周りに群がっていただけなのだが、走り仲間と待ち合わせしたロータリーに止めた車の中から、なんとなく気になる彼女を眺めた。
声をかけようという気はなく、なんだろう、同じ孤独の匂いがした。
こういうのを動物の勘というのか。
一時間くらい経つと彼女は帰っていった。
それから金曜と土曜の夜、彼女を見かけることが多くなった。だれかを待っているふうでもなく、ただそこに座って人を眺めている。
危ねぇな。
見る者によっては、いや、たぶんほとんどがそうだろうが恰好のナンパ対象だ。すでに何人もの奴が声をかけている。
彼女はそうされても相手の顔を見ることもなく口を開くこともなく、無視することであしらった。
定位置にいない夜はなにかあったのかと思うほど彼女を見かけるのが習慣づいた頃、おれと彼女に接点ができた。
十二月、クリスマスが近づく夜、いつものように声をかけられ、あまりのしつこさに彼女が立ち去ろうとしたとき、明らかに柄の悪そうな男たちの一人が彼女の腕をつかんだ。
彼女は怯むことなく男を睨みつけるが、周りの四人の男たちが囃したてて腕をつかんだまま連れて行こうとする。
「放して!」
「こういうのが目的なんだろ? お高く留まってんじゃねぇよっ」
彼女は抵抗しているが男の力には敵わずにズルズルと引かれた。
周りにいる大人は遠巻きに見て助けようとしない。
気持ちはわかるが。
しょうがねぇな。
独りつぶやいて、バイトで稼いで買った中古車のセルシオから降りた。
「哲さん」
後ろに止めていた車から走り仲間が窓を開けておれを呼び止めた。
「大丈夫だ」
男たちへ向かうと、彼女を引きずっている男の手首をつかむ。
「女にこんなことすんじゃねぇよ。嫌がってるだろ」
「なんだと……いてぇっ、やめろっ」
手首を少し捻ってやると、悲鳴を上げて男は彼女の腕を放した。
「なんだ、てめぇ。おれらにケンカしかけてんのか」
血の気の多そうな男が一歩前に出ると、その体格で威嚇する。
生憎だがその程度で動じるおれじゃない。
「相手になってやろうか?」
右の口端を小気味よく上げておれは逆に煽った。
こういう奴らは一回ぎゃふんと云わせないとまた同じことをやる。
「てめぇ、ナメてんのか ――」
「おれらも加勢しますよ、哲さん」
男の怒声に重ねて、走り仲間がずらりと十人くらいおれの背後に回った。
一気に立場は逆転し、帰るぞ、と囁く声が聞こえるなり彼らは身を翻した。
そこにつかまれた腕をかばっている彼女が残った。
「おまえ、こういう目に遭いたくなかったら二度とこんなとこで時間潰ししてんじゃねぇぞ」
「姫良」
「はぁ?」
「名前、おまえ、じゃなくて姫良。……?」
姫良はおれを見上げて首を少しかしげると無言で訊ねた。
「哲」
答えると姫良は、あたりまえのことだが、はじめて笑みをおれに向けた。
「哲……哲ちゃん。ありがとう」
その『哲ちゃん』という響きがガキみたいで恥ずかしくもあり、なぜか姫良のなかに自分の場所を認められたような感覚もあった。
一足早く、姫良というサンタから『哲ちゃん』というプレゼントをもらった気分。
姫良はその後もおれの忠告を聞くことなく夜の駅に現れた。
ただ違ったのは姫良がおれに話しかけるようになったことだ。しばらく話し相手になると帰っていく。
それを繰り返しているうちに走り仲間とも馴染んで、姫良を乗せて走ることも多くなった。
姫良がサンタなら、さしづめおれはトナカイだろう。
お喋りになった姫良は生い立ちを語った。
姫良は義母とうまくいかずに、幼い頃から祖父母の家で暮らしていた。
祖父は二年前に他界していて、半年前に可愛がっていた猫も死んだ。その頃から、祖母が寝た後、姫良はこっそりと家を抜けだして駅で時間潰しをはじめたようだ。
「人を観察するのっておもしろいんだよ」
可笑しそうに云った姫良に、最初に感じた同じ匂いを思いだした。
姫良といる居心地のよさは似た者同士であるからこそのものだった。
おれの本名は織志維哲。
十才のときに母は事故死し、父親を知らないおれは祖父母と暮らしはじめた。
その五年後、父と名乗る男が突然にやってきて半ば強引に引き取られた。
母は父のことを多く語らなかったが、言葉の端々になんらかの感情が見え隠れした。
訊ねてはいけないような気がしていたおれは、結局は母の他界で何一つ知ることなく、このまま過ごしていくものと思っていた。
父の名が八掟哲と知ったとき、同じ字をおれの名につけた母の父に対する想いが見えた。
なぜいまなのかという反抗を覚えたが、未成年者だったおれは逆らうこともできずに八掟の家に移り住んだ。
そこには四年前に結婚した妻とその三才の子供、叶多がいたが、二人ともそれなりに歓迎してくれた。とりわけ叶多はよくくっついてきた。
たまに連れて行かれる八掟の本家である有吏家へ行くと、その重々しいような雰囲気をなんとなく異様に感じたものの、八掟家自体は贅沢することもなく、かといってお金に困ることもない程度のごく普通の家庭だと思っていた。
十八才になるまでは。
高校三年になると同時に、父はあらたまっておれを応接室に呼びだした。
進路の話かと思いきや、
「実はおまえには有吏家が決めた許婚がいる」
ときた。
「……は……なんだよ、それ?」
そのあとに続けられた経緯は、おれの存在を含め世間の規律を欺くようなものだった。
有吏本家の下に分家は要所要所に送りこまれ、人知れず監視することで歴史に触れる地位に位置していた。
なぜそこまでの結束が可能なのか。
それは常に一族間であらゆる選考が繰り返されているからに違いない。
幼い頃からそういう教育を受けてきた連中からすれば、奔放に見えていたであろうおれはまるっきりの異端児だ。
有吏家に集うたび、どうりで胡散臭く目を向けられていたはずだ。
おれはこのとき、はじめて知った。
父にも許婚がいたが母と出会って有吏家の指示に逆らい、けれど結局は一族を捨てきれずに母とのことを貫きとおせなかったこと。
母の意思でおれが生まれたこと。
母が亡くなったあと名乗りでるまでおれの資質を監視していたこと。
有吏一族がなんだ? おれはなんだ?
おれは家を飛びだした。
そうしたところで、その気になればおれを探すことは容易なことに違いない。
世間が常識と思っていることと、有吏家の存在というズレ。
そのギャップを埋めることができずに、しばらくはホームレスみたいにその日暮らしの生活を送った。
一年もした頃、とある公園に寝転がっていたおれのところに祖父母がやってきた。
やっぱりおれは監視されていたらしい。
事情を知らない祖父から、情けないだの、母親に合わせる顔がないだの、散々な言葉で罵られたが心配も感じ取れた。
所詮、有吏が鍵を握る世と知ったいま、なにをやっても虚しさを禁じえない。
そんな力が本当に在るのなら、もっと世をよくできるはずだ。
けれどそれは偽善であり、傲慢という以外のなんでもない。それこそ世間の存在を無にするのと同じだ。
おれはどうする?
祖父母の家に戻り、一年遅れて高校を卒業したあとおれはずっと探し求めた。
探し求めているものがなにかさえわからずに。
バイトしながら好きな車を走らせているうちに仲間ができたが、だれにも云うことのできない秘中の秘は苦しく、おれに “哲” と名乗らせて孤独にした。
維哲にも哲にもなりきれず中途半端だったおれ。
そんなおれが姫良と出会った。
姫良が呼ぶ “哲ちゃん” はおれの中にだんだんと形を成していく。
それがどういうことなのか気づかないうちに姫良は吉川紘斗と出会った。
紘斗には彼女がいるらしいが、姫良はおかまいなしに付き纏っている。
それでもおれは気づかなかった。
気づいたのはあの日、クリスマスの前夜。
クリスマスが来るたびに、今日は家族と過ごす日なんだよ、という姫良は、そう云いつつ毎年、独り、あの駅で人を眺めている。
そう知っていたおれもまた姫良がいる駅に向かう。
それを繰り返した四回目のクリスマスイヴ。
昼間に紘斗と会っていたにもかかわらず、姫良の孤独は消えなかった。
不毛な恋を黙って受け入れる姫良は、祖父母の家で暮らすようになった頃からたぶん、自分の位置を見失っている。
八掟の家を出たときから自分の価値をなくしたおれと同じように。
けれど紘斗は現れた。
視線を感じて振り向いた先に、その背景はゼロでも一度会ったら忘れないような雰囲気を持つ紘斗が近づいてくる。
その印象は強さと秘められた可能性を感じさせる。
そしておれと同じ孤独もその中にあった。
そういう紘斗がここに現れたということは。
よかったな、姫良。
そう思うと同時に生まれた喪失感。
おれはこのとき、姫良に恋していることを知った。
同じ孤独を持ちながら、おれが “紘斗” になれなかった理由。
それは確かな足もと。
すれ違う寸前、おれは足を止めた。
紘斗も同じく足を止める。
「半端な気持ちならこれ以上姫良に近づくな。このまま帰れ」
そう云うと、紘斗はかすかに笑った。
「姫良のことならおまえよりわかってる」
余裕綽々にそう吐いて、紘斗は姫良のところへ向かっていく。
完敗だ。隙がない。
姫良はしばらく自分に逆らっていた。
それが手に入れたいものであればあるほど失うことを畏れている。だからこそ、自分の想いが届いたことを認めたくなくて姫良は紘斗から逃げていた。
あの日、紘斗が宣言したように姫良のいちばんの理解者は紘斗だったのだろう。
紘斗があきらめることはなく、三年後に姫良は “吉川姫良” となった。
その間におれは足もとを確かなものにするために大学へ入った。
紘斗に惹かれ、その影響で経済学を学ぶなか、姫良の父親が最高経営責任者であり、その後継者と期待される紘斗が所属する巨大企業、貴刀グループ本部で実践の場を提供された。
互いに意気投合しはじめた紘斗の誘いだった。
おれは認められたのか。
それは定かでないが、おれは紘斗を見込んでいる。
これほど世界に君臨する企業ではあり得ない世襲も、それが紘斗なら株主も認めるだろう。
それくらいの器があると確信を持っている。
そして父とも和解した。
結局おれは将来の経済界トップという要所についたわけで、自力でつかんだ成果と引き換えに、父から有吏家への進言もあり、許婚の話はご破算になった。
よくよく考えてみれば、母が他界するまで父は結婚をしていない。
それは父なりの清節だったのかもしれないと思うようになった。
「哲ちゃん、この子たちを寝かせてくるね」
三才の女の子と二才の男の子をソファから下ろしながら、二十九才になった姫良が変わりなく『哲ちゃん』と呼んでおれに話しかける。
「ああ」
「ほら、哲ちゃんにご挨拶は?」
姫良に急かされると子供たちはたどたどしい言葉で、おやすみなさい、と笑みを零しておれに巻きつく。
そのあと、
「あたしも一緒に眠っちゃうかもしれないからいまのうちに。メリークリスマス」
と同じように姫良が少し力を込めておれを抱いた。
姫良と紘斗は結婚してからクリスマスには必ずおれを呼びだす。
邪魔したくないと断っても姫良は、クリスマスは家族と過ごす日なんだよ、とお決まりのセリフを吐いておれを強制的に参加させる。
姫良が家族に拘る理由は痛いほどに知っている。
そして紘斗もまた、両親から放棄されたという孤独を持ち、それゆえに家族を大事にしている。
その “家族” に “哲” というおれが受け入れられているということ。
探し求めていたもの。
それがどんなにおれの力になっているのか、姫良は気づいているだろうか。
子供たちは父親にも同じことをすると、姫良に纏いつくようにして部屋を出ていく。
「哲、おまえ、おれの奥さんに抱かれてなにニヤついてんだ?」
そう云われておれは慌てて顔を引き締める。
「たまには貸してくれてもいいだろ。紘斗、おまえはなんでそんなに余裕があんだよ」
「余裕なんかない。余裕があったらおまえを打ん殴って放りだしてる。その逆だ」
紘斗は笑うと、クリスマスシャンパンが入ったグラスをおれに渡した。
「逆だって?」
「正直、覚悟したいまもまだ迷ってる、貴刀を継ぐこと」
「おまえにはそんだけの力量がある」
「そういうことじゃない。姫良のことだ。地位につくからには姫良を優先できない事態もある。上に立つ、というのはそういうことだろ?」
「は? お惚気かよ」
おれが笑うと紘斗もクッと笑みを漏らした。
「哲、おまえはおれの保険だ」
「なんだ?」
「おれが動けなくなったら、おまえに動いてもらう。任せられるのはおまえしかいないって思ってる。姫良のことも含めて。だから姫良からおまえは取りあげられない」
「ずうずうしい奴」
「闘い続けるのはきついが、おまえとなら走り続けられる」
それが巨大であればあるほど、それらに忠実であればあるほど、トップは途切れることのない決断のなかで孤独になっていく。
「有吏末裔のおれが一目置いてるんだ。バックは任せろ」
「有吏を嫌ってたんじゃないのか?」
おもしろがるような紘斗の問いに、おれは肩をすくめた。
大学を卒業後、紘斗が正式におれを第一補佐として抜擢したとき、有吏のことをおれの実情とともに打ち明けた。
それがおれを認め、頼ってくれた紘斗に対する忠誠の証だった。
紘斗はさほど驚くふうでもなく、
「おまえもたいへんだな」
と鼻で笑った。
その軽い一言はかえっておれを楽にさせた。
同時に、こいつは動揺することがあるのか? と思った。
ああ、そういや一回だけ、いや二回だけそういう姿を見た。
子供が産まれるとき。
どちらかというと子供よりは姫良の安否を確認するまでは落ち着かないようで、無事に終わったことを知らされると決まり悪そうな顔を見せる。
ビデオにでも録っておくべきだったと思う。
姫良に見せたかったな。
まあ一緒に付き合ったおれも、そう気が回らないくらい動揺してたんだろうが。
どちらかがダウンするまでおれと紘斗は飲み続けた。
今回はおれの勝ちだ。
深夜、眠った頃に姫良が毛布を持って起きてくる。
リビングで寝転がったおれと紘斗にそっと毛布をかけた。
ホームレス生活の経験はちょっとした空気の違和でおれを目覚めさせる。
おれは眠ったふりをして、毎年恒例となったサンタからのプレゼントを待った。
「哲ちゃん、いつもありがとう」
そのつぶやきとともにサンタの愛がおれの額に落ちてくる。
姫良。
トナカイの赤い鼻のように、おれにとってはなんの役にも立たず、むしろおれを無にするような力も、姫良と紘斗のために役立つのなら、ふたりを乗せておれは走り続ける。
どんな道も、どこまでも。
それくらい、おまえらを愛している。
− The End. −