CHERISH〜恋綴り〜
雪割草 〜きみには内緒〜
三月の晴れた午後は暖かく、少し冷たい風が心地よくすらあった。
ありふれた真新しい公園にたどり着くと、幼い子供たちの声が耳に届く。
人工芝生の間に造られたアスファルトの道を奥に進んだ。砂場と滑り台などの遊具が並ぶ場所を通り過ぎると、人工の池がこじんまりとあった。
池の傍のベンチに座ると、僕は制服のポケットから煙草を取りだし、手をかざしてライターで火をつけ、思いっきり息を吸いこんだ。
躰にいいはずのない煙草は、それでも僕をいくらかほっとさせる効能を持っている。
ここに来たのはいいが、いまの気分にはおよそそぐわない、小さなアスレチックや砂場で戯れている親子が目に入った。
これからどうしようか……。
池の水が太陽を受けてキラキラと光る様とは対照的に、僕の心は薄暗く、途方にくれる。
どうしようかと迷うまでもなく、僕の行く先は決まっている。
いまの僕の感情は麻痺してしまっていた。
日頃から不仲だった両親がついに離婚したのは一週間前のことだ。
そんなことはどうでもいい。云い争いを聞かされるよりは、彼らは別れたほうがいいと思っていた。
ただ、自分が両方から放棄されるとは思っていなかった。
どちらにつこうか、という気はさらさらなくて、けれど、どちらかと暮らすんだろうな、という漠然とした気持ちは当然あった。
「ママ、見て、プリンだよ!」
「あ、ホント。おいしそうだね」
一際甲高い声で男の子がうれしそうに叫ぶ。
赤いプラスチックのバケツに砂をたくさん詰め、ひっくり返されてできた大きな砂のプリン。
視線の先で繰り広げられる光景は、僕も昔に経験したはずなんだ。
いまとなっては幻想にも思える、戻ることのない時間がそこにあった。
愛情は無くなるものなんだ――。
ニャン。
弱々しい猫の声が近くで聞こえ、僕はそっちに目をやった。
二匹の猫を抱えた女の子がすぐ近くまで来ていて、そのまま僕の横にすとんと座った。
深く椅子に座った女の子の足は地面に届いていない。公園で遊ぶには少し不釣り合いに見えるピンクのワンピースと赤いカーディガン、白い靴下に黒いお出かけ靴。
それでも、どこかへ出かけた帰りに立ち寄ったんだろうと見当をつけ、なんとなく僕もこの子の親を待った。
けれど、中休みを入れつつ三本目の煙草に手をつけても、一向に迎えにくる気配がない。
女の子は、生まれて間もないと見て取れる二匹の猫を抱いたまま、背を真っ直ぐに伸ばしてただ座っている。
僕は帰りそびれてしまった。
その間に、僕の中に溢れていた悲観と焦燥感が少し和らいだ。
グルルル……。
ニャン。
不意に女の子のお腹が鳴った。それに重ねて子猫が鳴く。
ククッ。
思わず笑った。
女の子に目をやると、長い髪を後ろにまとめているせいで剥きだしになった耳が赤くなっている。
「腹、減ってんの?」
女の子はますます顔を赤らめた。
小さいくせに、感情は一人前のようだ。
「そんなことを云うなんて失礼です。聞こえても知らないふりをするのが大人でしょ」
その姿とおよそ不似合いな台詞は、僕をまた笑わせた。女の子から見たら、十三才の僕も大人に見えるらしい。
「ませガキがなに云ってんだよ。早く帰りな。ママが待ってるだろ」
「……わたしは家出中です」
「は? 家出?」
「そうです」
果たしてその意味をわかっているのか、女の子はきっぱりと肯定した。
「ガキが独りでなにができるっていうんだよ」
「先程から『ガキ』と仰るのは二度目ですが、わたしには姫良という名前があります」
女の子――姫良は『ガキ』とは思えない言葉を並べる。
「へぇ、めずらしい名前だな」
「良いお姫さまって書きます。幼稚園の頃から漢字で書けました」
言葉遣いとは対照的に、幼い子らしく自慢げだった。
僕はまた笑う。
「じゃあ、すげえ誉められたんだろうな」
僕が云うと、姫良はうつむく。
その姿はとても孤独に見えた。
「誉めてもらえません。がんばってるのに誉めてもらえません。ケンローと遊んであげようと思ってるだけなのに、すごく怒られます。だから、最後にまた怒られることをしました」
「ケンロー?」
「一才の弟です」
「最後って?」
「わたしはパパとママから捨てられます」
姫良はその内容とは裏腹に淡々とそう告げた。
「捨てられるって……犬や猫じゃないだろ……」
「でも、わたしは四月からおじいちゃんとおばあちゃんの子になります。わたしを産んだママは、わたしを捨てて死にました。パパといまのママは、おばあちゃんのところにわたしを捨てます。わたしはこの猫と同じです」
子猫がプルッと頭を振る。
姫良の目から零れた涙が子猫の耳に落ちたのだ。
姫良は年相応な仕草で乱暴に涙を拭った。
その姿は認めたくない僕の心の中と重なった。
まだこんなに幼いのに――。
この子のためなのか、それとも自分のためなのか、僕の中に怒りが満ちる。
「待ってな」
姫良を残して公園を出ると、道路の向かいのコンビニへ行った。
パンと缶コーヒーと牛乳と紙皿を買うと、相変わらず姿勢を正しくしたままで待っている姫良のところへ戻った。
「食べな、腹減ってんだろ」
「ありがとうございます」
戻ってくるとホッとしたように姫良は僕を見上げて、素直にパンを受け取った。
「……おまえ、いくつだ?」
「七才です。もうすぐ二年生になります」
「ふーん……じーちゃん、ばーちゃん、嫌いなのか?」
「いいえ、とってもやさしいです」
「なら、じーちゃん、ばーちゃんが心配してるだろ」
「…………はい」
紙皿に牛乳を入れるとその匂いを嗅ぎつけたのか猫が鳴いた。
姫良が猫をそっと下ろすと、二匹は待っていたように牛乳をペロペロと舐めはじめる。時折、ひげに付いた牛乳を飛ばすように首を振っている。
僕と姫良は猫を囲むようにベンチ下にかがみこんだ。
「おれんとこ、離婚したんだ」
なにも報われないとわかっているのに、なぜか僕は姫良に打ち明けた。同じ気持ちを共有したかったのかもしれない。
「りこん?」
「父さんと母さんが家に一緒に住まなくなるってこと」
「……お兄さまはどうするんですか?」
「紘斗、だ。おれもじーちゃんとばーちゃんと一緒に住む」
「……捨てられたんですか?」
子供らしい率直な質問は僕を傷つける。けれど下手ななぐさめよりは、むしろ笑っていられる。
「おまえを産んだママは、どうして死んだんだ?」
「わたしを産んでからぜんそくという病気がひどくなったそうです。わたしのせいです。だから捨てられたんです」
「だれがそんなこと云ったんだよ」
「いまのママです。ケンローが生まれて、遊んであげたくて触ったらすごく怒られました。そのときにママが云いました」
僕は思わず姫良の頭に手を置いた。
「大丈夫だ。おまえを産んだママは、おまえを捨てたんじゃねぇよ。いまのママは嘘をついたんだ」
「嘘……ですか」
「気にすることはねぇよ。おまえはじーちゃんとばーちゃんのとこで可愛がってもらえばいいんだ」
「紘斗は可愛がってもらえますか?」
「……ああ、大丈夫だ」
半ば自分に云い聞かせるように僕は答えた。
僕たちは、しばらく猫たちが牛乳を飲む姿を黙って眺めた。
「猫を連れて帰ったら、ケンローによくないって叱られますね」
顔を上げて姫良を見ると、置いていけば、とは云えなかった。
「……じーちゃんとこもだめなのか?」
その問いかけに、姫良の表情がはじめて無邪気な笑顔に変わる。
「それなら大丈夫です。紘斗、頭いいですね」
それから、
「よかったね」
と姫良は猫に話しかけている。
言葉遣いは丁寧なのに、僕のことを呼び捨てにするとはどういうことだ?
そのアンバランスさが可笑しくて、僕の心の中に笑みが宿った。
目を伏せた姫良を見ていると、幼さのなかにも凛とした姿が一層儚く僕の目に映る。
その傍らに、小さな花が咲いていることに気づいた。池の周りに何種類あるのか、カラフルな花が等間隔に咲いている。
そのなかで、姫良の横に咲く花が僕の目を惹いた。
ここへ来たときには周囲を見渡す余裕さえなくて目に入らなかった、気品さえ漂う小さな紫色の花。
それはきみととてもよく似ていた。
「これ、なんて花?」
おれの補佐についている営業事務の彼女は花好きで、机のすぐ横にある窓枠のスペースに季節ごとの花を飾る。
最近になって置かれていた小さな鉢を指しておれは訊ねた。
あの日に見た紫の花が開いていた。昨日までは蕾だったのに、春を一足先に感じたのか、光を受けて咲いている。
「あ、それは雪割草ですよ。夜になると閉じちゃうんですけど、会社には昼間しかいないからちょうどいいですよね。ほかにもあるんですけど、私はやっぱり紫色が好きかな。花言葉は…………」
よほどこの花を好きなのか、詳しく説明をしてくれた。
やっぱり、この花はきみに似ている。
猫たちがミルクを飲み終える頃には夕刻が迫っていた。
「送っていくから、家に帰れ。家はどこだ?」
「……でんえんちょうふ、です」
僕は驚くとともに、姫良の容姿とその言葉遣いを繋ぎ合わせ、妙に納得した。
先立って歩きだすと、姫良の手が僕の手の中に滑りこんでくる。小さくて温かい。
見下ろすと二匹の猫は姫良の片腕にしっかりと支えられ、少し息苦しそうに見えた。
「一匹、持ってやるよ」
真っ白の猫を姫良から受け取った。
電車に乗っている間、姫良は物珍しそうに車内を眺めていた。
たどり着いた田園調布駅は欧州の民家風で、僕が見慣れている街並みと明らかに違っている。
僕と姫良の接点は二度と繋がらないような気がした。
駅に着いても姫良の手は離れることなく、むしろ、強く握り返してくる。
たぶん、帰りたくないという気持ちが、家にいるという安心よりも強いのだろう。
姫良が思いこんでいるように、僕が大人だったら。
「どっちだ?」
「えっと……あの……こっちだと思います」
道路に出ると、姫良は不安そうに指を差した。
「おまえ、もしかして自分んちがわからないんじゃないか?」
「あの……いつも車でしか外に出たことなくて……」
冗談だろ。
僕は思わず小さくつぶやいた。
「じゃ、電話だ。番号はわかるか?」
ポケットから携帯を取りだして開いた。
「はい。おじいちゃんの家は――」
「まずはパパのところだろ?」
姫良の言葉をさえぎって云うと、その瞳が揺れだす。
「わかった、わかった。じーちゃんとこでいい」
僕は慌てて譲歩した。
同時に、継母はともかく、ここまで自分の娘を不安にさせる父親にも憤りを感じる。
姫良が云うとおりの番号にかけると、すぐに男性の声が応じ、僕は経緯を話してから姫良に携帯を渡した。
姫良が祖父との電話越しの会話のなかでほっとした表情を見せる。
「すぐ迎えにくるってさ。じゃ、な」
猫を渡して駅構内に戻ろうとした僕の手を再び握ると、無言のままに姫良が引き止める。
僕はため息をつき、仕方なく迎えがくるまで付き合ってやることにした。
そして僕はまた、訳のわからない感情に左右されはじめた。
空いた手で煙草を取りだし、咥えた煙草に火をともす。
「ちょっと、きみ……」
不意に声を掛けられ、振り向くと、警察の服を着た四十才くらいの男性が立っていた。
疑いようもなく警官で、僕は自分が制服であったことにいまさら気づいた。
やべっ。
姫良の手を放し、かがんで煙草を地面に押しつけた。
「なにしてるんだ? その子は?」
「……あー、この子のじーちゃんを待ってる」
「この子の名前は?」
「姫良です」
「フルネームだ」
段々と警官の顔が険しくなっていく。
僕はようやく気づいた。
警官は煙草に気づいて呼び止めたわけではなく、誘拐という犯罪を疑って声をかけたのだ。
確かに兄妹というには年が離れすぎて見えるに違いない。加えて僕はいつも、この背の高さがあってか年より上に見られる。
姫良が不安そうに僕を見上げている。
「知らねぇよ」
僕の中の晴れかけていた靄が再び現れ、説明する気さえ失ってしまう。
「ちょっと来てもらおうか」
警官が僕の腕を取る。
冗談じゃない。
「放せよっ」
振り払ったが、またすぐに腕を取られた。
「お嬢ちゃん、大丈夫だよ――」
「紘斗を連れて行かないで!」
大の大人を下から見上げて睨みつけ、自分にやさしく話しかける警官に向かって姫良が叫んだ。
「おまわりさんは悪い人を捕まえるのが仕事です。紘斗は悪い人じゃありません!」
そう云った姫良の瞳から傷ついた感情が読み取れた。
ともに涙がポロポロと落ちていく。
猫もまた鳴き声をあげた。
僕のために傷つく必要はないのに――。
「姫良!」
「どうしたの?」
そのとき、姫良に呼びかける声が同時に二つ発せられた。
「おじいちゃん、紘斗が……紘斗が……」
初老の男性が駆け寄った姫良を抱きとめる。
警官が半ば呆気にとられ、僕の腕を放すと姫良の祖父に事情を説明しだした。
それを聞いた姫良の祖父から、逆に事の経緯を聞かされた警官は恐縮したように僕にひたすら謝った。
その間に、姫良の手がまた僕の手の中に滑りこむ。
僕は……。
「……じゃ、な。姫良」
僕は姫良の手を解いた。
「紘斗にこの猫をあげます」
姫良が僕を見上げて真っ白いほうの猫を差しだした。
「兄弟を離しちゃかわいそうだろ」
「はい。でも紘斗が傍にいたらきっと大丈夫だと思います。紘斗もさみしくないですよね? この子もさみしくないように可愛がってあげます」
自分の腕に抱いた黒い斑点が混じった猫の頭を撫でながら、姫良が笑顔を見せる。
その笑顔を壊したくない気持ちと、この猫を見るたびに僕の心が和らぐなら、きみの温かさを思いだせるなら、連れて帰るのも悪くない。
祖父母と一緒にいる姫良の様子を見て、僕は少し安心した。
彼らは住所と名前を知りたがったが、僕は名前だけ教えた。
接点を作ってしまえば、僕の中に弱さが宿ると思ったんだった。
待たせていたタクシーに乗り込んで帰っていく彼らを見送った。
姫良が後部座席から後ろを向いて手を振り続ける。
僕は……。
堪えていた涙が溢れる。
「悪かったな」
警官が改めて謝ると、僕の背中を叩いた。
別に警官のせいではなかったが、僕自身にもその感情は説明しきれなかった。
「だが、煙草は感心しないな。没収だ」
笑ってそう云った警官は僕から煙草とライターを受け取り、僕の気持ちが治まるまで傍で世間話をしていた。
誘拐犯に間違えられ、補導されそうになった経験は思いだしたくもないが、姫良がおれのために必死に叫んで弁護してくれたことは救いになった。
肉親だからって愛があるとは限らない。
けれど――。
他人だからって愛がないということはない。
きみと再会って――キラと名づけた猫ときみがたまたま再会ったとたん、キラは死んでしまった。
まるで自分の役割を果たしたかのように。
確かに長寿ではあったが、それはただの偶然だろうか。
おれはしばらく恐れていた。
おれの中に育っていく期待と同時に、再び傷つくかもしれない、傷つけてしまうかもしれないという予想図。
「なんで、雪割草なの?」
ヴァレンタインデーのお返しに、と渡した陶器の鉢を手に持って、子供ではなくなった姫良がおれを見上げながら、部屋に迎えるために脇に避けた。
「おまえに似てた。朝になったら花が開くらしい」
「紘斗からは、わたしはこんなふうに見えてるんだね」
不思議そうに姫良がつぶやいた。
そして、少し素直になってきた笑みが見えた。
「ありがとう」
思わず、それに応えておれはキスを返し、強く姫良を抱いた。
「花が潰れちゃうよ」
くすくすと笑いながら、くぐもった声でそう云いつつも、姫良の空いた片手がおれの背に回る。
ヴァレンタインデーの夜、あの告白から、ふたりはこの部屋で一夜を過ごした。
おれにはありえないことに、姫良にはいまだ、キス以上に手を出せないでいる。
たぶん、大人になったおれの中に覚悟が生まれているんだろう。
小さいくせに高貴だったきみは、幼さとともに自信までもなくし、無理した笑顔ばかりが目立っていた。
そんなきみに、本当の笑顔を見せてほしいと願うようになったおれの心には、ふたりの間になにがあろうと耐え守ろうという意志と、そして自信が芽生えた。
おれがきみの信頼を得られる頃には、きみの中に光が溢れ、優しく雅な花が開くだろうか。
これはきみには内緒の物語。
そう…………。
おれたちがともにふたりで生きていく資格を認められた頃、神からのプレゼントが届くだろう。
そうしたら……告白しようか――。
− The End. −
(補足)未成年者の喫煙については後半でフォローしていますので物語とご理解ください。