CHERISH〜恋綴り〜

ヴァレンタインに誓って


 ブルルルル……。
 隣の椅子に置いたバッグのなかで携帯電話が揺れた。取りだして画面を開くと、限定の着信画像は白く凛とした猫を映している。
「はい」
「あと十分で着く」
「うん、わかった」
 昼間に会う予定が、仕事の都合で夕方の六時に変更させられた。それをすでに五分すぎての電話は用件のみと、端的にすまされてから即、切られた。
 姫良はそっと笑う。いかにも紘斗らしい。
 けれど、いままでとは少し違っている。
 去年なら、遅れたくらいでわざわざ連絡をくれることはなかった。むしろ、姫良をいくら待たせていようが平気な様子でやってきた。
 何が変わったんだろう――紘斗のなかで。
 ふふ……。
 隣のテーブルで一組の男女が屈託なく楽しそうに囁き合っている。
 オフィス街の一角にある店、ミザロヂーは程よい広さで、四人がけテーブル、団体客用の大テーブル、そして八人がけのカウンターがある。黒っぽい木を主体としてセッティングされた店内は、いつものごとく満杯に近い。和洋折衷(せっちゅう)の居酒屋は一目で高級感が見てとれる。
 ヴァレンタインデーの夜は予約していた常連客の恋人たちが多い。そんな穏やかな気配を眺めながら、少し怖い、というイメージが内心に湧く。姫良のなかでもまた変化は始まっている。

 ふと、姫良の背後から手が伸びてきたと思うと物がぶつかり合う軽い音がして、漆黒のテーブルからかすかな振動が腕へと伝わってくる。その音のもと――目のまえに置かれたのは、小さなガラスの器に入ったデコレーションアイスクリームだった。
「悪かった。予定してない仕事が入って」
 去年までなかった謝罪の一言、冷めた目で姫良の相手をしていた紘斗の眼差し、それらはやっぱり以前とは違っている。
 紘斗は姫良の向かいに座った。
「代休なのに、結局、仕事?」
「いつものことだ。主任て立場になると、上からも下からも微妙なプレッシャーあって、自分の力以上のことをやらなきゃいけない」
「出世するのも大変なんだね」
 紘斗は無頓着そうに首をひねった。すぐあとにギャルソンがやってきて、紘斗のまえにコーヒーを置く。
「それで?」
「え?」
「用件。おれを呼びだした理由は何?」
 紘斗からまっすぐに見据えられ、姫良は目を逸らす。紘斗はそうする姫良を見て、険しく表情を変えた。
「えっと……」
 姫良はそうつぶやくだけで、なかなか切りだせない。云いにくそうにしている姫良に気づいても、紘斗は助け舟を出そうとしない。
「カノジョは元気?」
「カノジョ?」
 気づまりになった姫良は話まで逸らしてしまう。けれど、どこかでカノジョとのその後を知りたいと思っている自分がいることも確かだ。
 一方で、紘斗の表情はますますしかめ面が酷くなっていく。
「おまえが美春さんの様子を知ったところでなんの意味がある?」
 冷たく云い返した紘斗の言葉に姫良は逃げだしたくなる。
 その片方で、『美春さん』とそう呼べる関係が終わっていないのなら、まえより近づいているいまの距離感でも怖くない、そんな歪んだ安心も覚えた。クリスマス以来、始まっていた姫良のなかの変化が少し止まる。

 姫良は紘斗へと視線を戻した。
「ごめん」
 謝ると、紘斗は目を細めて何か云いたそうに姫良を見やるが、しばらく待っても口が開くことはない。また不機嫌になるまえにと姫良から喋りだした。
「あのね、おばあちゃんが紘斗に会いたいって」
「おれに?」
「うん。このまえ、成人式のときに紘斗にお祝いしてもらったって云ったら、ずっと会いたがってて。あ、でも迷惑だったら――」
「会っていい」
 一気に捲くし立てる姫良をさえぎり、紘斗はあっさりと承諾した。
「……いまからでもいい?」
「……なるほど……その話、いままでずっと引き伸ばしにしてきたわけか」
 別段おもしろくもない会話で、紘斗は口の端に笑みを浮かべた。その目は少しも笑っていない。むしろ、怒りに近いような気がした。
「行くぞ」
 紘斗はコートを手に取り、さっさと席を立って精算をすませにいこうとする。
 姫良も慌ててあとを追った。
「待って。わたしが誘ったんだから……」
 レジまえで声をかけると見おろしてきた紘斗から一睨みされ、姫良は身をすくめる。
 姫良がコートを着るのを待って、ふたりは外に出た。

 暖冬とはいえ、夜の街は冷たい風が吹き抜ける。二歩まえを行く紘斗が、姫良の風よけになった。が、その背中に怒りが見えて、冬の風より冷たい感触が伝わってくる。
 姫良は自分が紘斗に何を求めているのかわからない。
 クリスマスイヴの夜、あれからふたりは姫良のマンションで一夜をすごした。
 時折、紘斗の大学時代と現在進行形の姫良の大学生活の話をするくらいで、クリスマスにふさわしい曲が流れ続けるテレビ番組を意味もなくつけっぱなしにして眺めていた。そのうち、紘斗は仕事の疲れからかソファにもたれて眠りこみ、姫良もその横でいつの間にか眠っていた。起きたときは朝も遅く、紘斗の姿もすでになかった。姫良にかけられたブランケットから、かすかに紘斗が愛用している煙草の香りがした。
 正月も成人式も一緒にすごしたけれど何も進展していない。というよりは、進展することが怖くて、紘斗への連絡を躊躇(ちゅうちょ)している自分がいる。
 怖い。たぶん……また失うことが。
 『たぶん』というのは姫良の臆病さであり、自分で自分を余計に怖くさせているのかもしれない。ただ、絶えず自身に警告するのは、失うくらいなら手に入らないままがいい、ということ。

 互いに必要なこと以外は一言も発することなく、祖母が入院する病院に着いた。
 消毒液の匂いが消えることのない病院は苦手な場所だ。姫良にとって、病院は病気を治すところではなく、死を迎える場所という感覚のほうが強い。
 母とは長い入院生活を経て病院で離別した。幼い頃のことなので、母の印象は薄く、ただ病院特有の匂いばかりが記憶に残っている。
 母が亡くなってから四年後、姫良は祖父母のもとで育てられることになった。祖父は姫良が十五才のときに病に倒れ、短い入院生活のすえ他界。そして、いままた祖母も……。
 軽くドアをノックして病室に入る。そのあとを紘斗が続く。
 電気がともった個室は夜になると一際ひっそりとし、昼間よりずっとさみしい。
「おばあちゃん、姫良だよ」
 ベッドに近づいてかがみながら声をかけると、祖母が目を開けた。弱々しくも口もとに笑みを浮かべる。
「紘斗を連れてきたの」
 姫良の報告に応えて祖母がうれしそうにうなずいた。
「近く……に……」
 祖母が囁いた。
「紘斗、おばあちゃんが話したいって」
 問うように見ると、紘斗はうなずいて姫良と場所を交代した。
「吉川紘斗です」
 紘斗はためらわず躰を折って、祖母に聞こえるようにと顔を寄せる。
「……………………?」あなたはあのときの?
「……そうです」
「……………………?」姫良のことは本気で?
「はい」
「そう…………………………?」姫良のこと、私はもう心配する必要ないかしら
「大丈夫ですよ」

 かぼそい祖母の囁きは姫良には届かず、紘斗の受け答えしかわからない。
 紘斗は軽く祖母の手を叩き、躰を起こすと再びその場所を姫良に譲った。祖母の目尻に薄らと涙が見える。姫良はそっとティッシュで涙を(ぬぐ)った。
「おばあちゃん、どうしたの?」
 祖母は微笑むだけで何も答えなかった。そうして、体力を使いきったのか、祖母はまもなく寝息を立て始めた。

 しばらく眠る祖母を見守り、それからふたりは病院をあとにして、駅へと並んで歩いた。
「ありがとう」
 不機嫌なのは変わらないようで、紘斗は答えることなく歩き続ける。何を弁解しても拍車をかけるようで、姫良も黙りこんだ。駅まえの待ち合わせに利用されるオブジェまで来ると、紘斗はそのまま駅構内に入っていこうとする。
「待って、わたしはここで……」
 姫良は急いで引き止めた。紘斗が立ち止まって振り返る。そのまえで姫良はバッグのなかを探る。
「これ」
 そう云って、押しつけるようにラッピングされた小さな箱を手渡す。
「ヴァレンタインだし、ホントは煙草なんて吸ってほしくないけど、ライターだったらずっと持ち歩いてくれるかなって思って」
「……それで?」
 紘斗は冷めた声で問い返す。
「それで……って?」
「ヴァレンタインデーって告白する日じゃないのか?」
 戸惑いつつ問い返した姫良に、また紘斗も問い返した。
「紘斗って……そういうのに(こだわ)らない人だって思ってた」
「そのわりに、クリスマスだとか、成人式だとか、ヴァレンタインデーだとか云って、理由をつけてはおれを呼びだしてる」
「それは、わたしの都合。実際、今日はカノジョと会う約束してないでしょ? だから、わたしに付き合ってくれた――」
「おれは、その『カノジョ』っていうのが、どうしてここで出てくるのかがわからないね」
 紘斗は冷たく吐き捨てた。
「…………」
 姫良はつと目を逸らした。怖くて、失うくらいなら、最初からわたしのものにならなくていい。そんな気持ちは紘斗を怒らせてしまう。

「ヴァレンタインデーは女の子が告白する日ってわけじゃないよ」
 姫良は困惑を隠してちゃかした。
「そういうことなら、おれはおまえのばあちゃんに告白してる」
 ジョークにしては口調が真剣すぎて、思わず紘斗に視線を戻した。
「……何?」
「これはあとでもらう」
 紘斗は姫良のコートのポケットに小箱を落とした。
「どうしてここで別れる? おれが怒ってるのがわかるか!?」
 姫良はまた目を逸らした。
「そうやって都合が悪いと、すぐに目を逸らす。なんで、そうやって逃げる?」
 それは知らないうちに身についた処世術だ。できるだけ傷が小さく治まるように。
 逸らした視線のさきに、見知らぬ恋人同士がいまの心に偽りなく腕を組んで、脇を通りすぎる。心変わりしたその腕はいつかほどかれる。片方の意思で、あるいは互いの意思で。
「相手しないうちはうるさいくらいに電話したり、会いにきたりして付き纏ったくせに、応じたとたん、今度は避けてまわる。おれを相手にゲームするな」
「そうじゃなくて……」
 ただ、怖くて……。
「云ってもわから――」
 云い終わらないうちに、紘斗の腕が姫良を捕らえる。
「云うまえに逃げるな」
 紘斗は躰をかがめて、姫良の顔を自分の首もとに強く引き寄せた。姫良の額に紘斗の脈が触れる。しばらくそのままの姿勢でいると、やがて紘斗はうなだれて内心を曝けだした。
「おれは逃げるのをやめた。だから、おまえも……おれがおまえを解るまで逃げるな」
 くぐもった声に潜んでいるのは懇願だろうか。自分に対するそんな感情が紘斗にあるとは思わなかった。
 怖いと感じるよりも応えたいという素直さで、姫良の腕が自然に上がっていく。紘斗に手を回すと、姫良の頭を抱える腕が少し緩んだ。安心だろうか、そのしぐさは、紘斗のなかに同じ傷みがあることを示している気がした。
「……わかった。それまで……わたしのことをあきらめないで」
 つかの間、紘斗の腕に絞めつけられる。そして。
「あきらめない、セイント・ヴァレンタインに誓って」
 紘斗はわずかに顔を持ちあげて、耳もとで約束をつぶやいた。直後、約束を宿したばかりの紘斗のくちびるが姫良へと近づいてくる。
「人が――」
「いまさら」
 紘斗の口端に、偽物でも皮肉でもない、かすかでも本当の笑みが浮かぶ。紘斗はためらいもなく姫良のくちびるをふさいだ。

− The End. −

おばあちゃんが何と言っているのか知りたい方は
「…………」の横を左クリックしたまま引きずってみてください。
そのおばあちゃんのセリフの中で「あのとき」とは第3話【雪割草】の物語でわかります☆

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