CHERISH〜恋綴り〜
クリスマスの涙
オフィス街のなか、ビルの谷間を通る風はだんだんと頬の温度を奪っていく。遠野姫良は淡いグリーンのマフラーを引きあげて顔を埋めた。
しばらく陽気が続いていたのに今日はめずらしく雪が散らついている。今日は二十四日。恋人たちにとって特別の日だということを考えると、タイミングとしてはこれ以上にないシチュエーションだ。あいにくと、姫良は暑さよりも寒さのほうが苦手なのだが。
いくつものビルが建ち並んでいるなかで一際高くそびえる貴刀ビルに入ると、寒さから開放されてふっと肩の強張りが解ける。ほっと一息ついて、姫良は受付嬢が待つコーナーへと向かった。
「遠野ですけど、営業企画室の吉川紘斗をお願いします」
受付嬢は「お待ちください」と条件反射のように受話器を取りあげた。その間にも隣の受付嬢が別の来客の応対をしている。
今年も一週間を残すのみで、そのためか日曜日にもかかわらず働く人は大勢いるようだ。後ろに並んだビジネスマンも気忙しい様子を覗かせている。
「吉川は後ほど連絡を差しあげると申しておりますが」
思ったとおりの反応だった。だからこそ携帯電話での事前連絡は取らなかったのだ。
「貸して」
姫良は人差し指で受話器を示し、手を差しだした。受付嬢は電話の向こうに変わる旨を伝えたあと、姫良に受話器を渡した。
「そっちに行っていい?」
「仕事の邪魔するな」
それぞれの主張はほぼ同時に互いの口から発せられた。姫良はくすっと笑う。
「邪魔しないよ。気分転換に付き合ってあげるだけ」
「休みの日にわざわざ仕事をしている意味がわかってるのか?」
紘斗は素っ気なく退けようとするが、これで引きさがる姫良ではなかった。
「妹がせっかく来てるのに追い返す気?」
姫良がたたみかけるように云い返すと、電話越しにため息が漏れてくる。
「妹じゃない」
「否定しなかった」
「面倒くさかっただけだ」
「凍えそうなの。ちょっと暖まってっていいでしょ。順番待ってる人が怒ってるよ。じゃ、変わるからね」
拒否を聞かされるまえに受話器を受付嬢へ戻した。何やら二、三言の会話を終えたあと、受付嬢は許可証を手渡してくれた。
「ありがとう。場所はわかります。それから、お昼くらいに吉川さん宛てで届け物があるので通してくださいね」
姫良は胸もとに許可証を留めながらエレベーターへと向かう。乗りこむとすぐ十五階のボタンを押した。扉が閉まる。
少しどきどきしながらエレベーターの数字ボタンが順繰りで光るのを見守った。受付嬢のにこやか仮面の下に少し怪訝そうな表情が宿っていたのを思いだす。
人気あるんだ……。
姫良は独り笑った。
十五階に到着すると、姫良は迷いなく紘斗がいる部署のドアをノックした。返事がないとわかっているから了解を待たずしてドアを開ける。
「怒ってる?」
「わかってるなら訊くな」
「せっかくのクリスマスなのに機嫌悪い!」
「だれがそうさせたんだ」
「カノジョとデートできなくて拗ねてるの?」
デスクに着いた紘斗は、その端整な顔を冷ややかにして姫良を睨み見る。
「帰れ――」
「ごめん。邪魔しないよ。仕事してて。寒さが取れたら帰るから」
最後までは聞きたくなくて、姫良は目を逸らしながら口早にさえぎった。紘斗がこっちを窺っていることはわかる。姫良は無頓着なふりを努め、入り口の横にある応接セットにバッグを置くと、次はコートとマフラーをソファの背にかけた。
姫良がソファに座るとあきらめがついたようだが、それでも紘斗はあからさまにため息をついて、仕事を再開した。
一方で、姫良はバッグから本を取りだして読み始める。その実、本の向こうに見える紘斗の仕事ぶりを覗いた。
書類をめくったり、パソコンと睨めっこをしたり、姫良から見れば考えられないくらいの速さでデータを入力したり、本当に忙しくしている。休日ともあってセーターにジーパンでは、やっていることと少し不釣り合いに見えた。
「ね、手伝ってもいいけど?」
「部外者に頼めるか」
うるさいとばかりに一喝される。
そう部外者でもないんだけどな……。
紘斗の不機嫌さに顔をしかめながら姫良は内心でつぶやいた。
「ねぇ――」
「邪魔してる」
あまりの態度に、無理押ししたのは自分だとわかっていてもさすがに腹が立つ。姫良は紘斗に近づくと、咥え煙草を抜きとった。
「吸いすぎ」
灰皿と煙草ケースも取りあげる。
「コーヒー、淹れてくるよ」
「勝手なことするな。ここはおまえんちじゃない」
「わかってる。ちゃんときれいにしておくから。これでもコーヒーくらいはつくれる」
そう云った声は震えている。悟られないうちに姫良はぷいと背を向けて部屋を出た。
程なく給湯室を探し当てる。コーヒーメーカーをセットすると、気分とは裏腹にポコポコとした温かい音が満ちていく。
怒らせるためにここへ来たんじゃないのに。ただ……一緒にいたかったんだ。わたしはいつも部外者でだれの場所にも帰れない。
そんなふうにさみしくなるのは今日だからなのか、まったくほかのことに気を留めないでいると――。
「おい、ケータイ鳴ってた」
突然、背後で紘斗の声がして、姫良の肩がびくっと揺れる。
「うん」
返事はしたものの、姫良は背を向けたままでいた。
「ケータイ」
「うん、そこに置いてて。コーヒーできたら持っていくよ。ミルクだけだったよね」
それでも紘斗は戻らず、かわりにため息を漏らした。
「悪かった。イライラしてるのはおまえのせいじゃない。このところ忙しすぎて、いろいろ煮つまってて」
「うん、平気。邪魔してるのは事実だし」
「……姫良、コーヒーはもういい。なんか食べにいくぞ」
ちょっとした意地っ張りをやめて姫良はようやく振り向く。
そこに紘斗が予期していたものは見えなかった。それどころか、姫良の瞳にあるのは得意げな笑みだ。
「一緒に食べようと思って、もう頼んである。ミザロヂーが出前してくれるって」
姫良は澄まして計画を告げた。
「あそこは出前とかやらないだろ」
「わたしがどこぞやのお嬢さまなのは知ってるでしょ」
あっけらかんとそう告げる姫良を見ていると、はめられたにもかかわらず、紘斗はいまさら怒る気にはなれなかった。
姫良が頼んでいた昼食は出前と呼ぶにはあまりにも大がかりだった。
二人の給仕がミーティング用のデスクにテーブルクロスを敷き、手際よくサラダ、スープ、チキンのチーズソテー、デザートのクリスマスふうショートケーキと次々にセッティングしていく。
極めつけはシャンパン、と思いきや。
「あれはシャンパンもどき! ただのジンジャエール。仕事で飲めないだろうから、せめて雰囲気だけでもと思って」
と、姫良はおもしろがって紘斗を見上げた。
給仕が帰ったあとはふたり向かい合わせで座る。
「乾杯! このゴージャスランチはわたしからのクリスマスプレゼント!」
紘斗は渋々と乾杯に付き合う。
「おまえ、こういうのはカレシとやれよ」
「そのまえに、いたら紘斗に会いになんて来ないよ」
食べ物をつつきながら姫良はぷっと吹いた。
「セルシオの奴はどうした?」
「あ、哲ちゃん? 哲ちゃんはそういうんじゃないの。うーん……波長が合うというか……一緒にいてラクなの。お互い干渉しないし。カレシとか面倒くさいよ。会いたい人と会いたい時に会えればそれでいい。そうじゃない?」
たぶん、それは逃げているわたし自身への云い訳。もう限界に近いから――そんな本心を隠したくて姫良はごまかすように笑った。
紘斗は眉をひそめただけで答えない。
「それにね、クリスマスって家族とすごす日なんだよ。日本は恋人のイベントになってるけど。紘斗はわたしのこと妹にしてくれたし、家族!」
「してない。あのときは否定しなかっただけだ」
「カノジョから誤解されたらイヤだもんね」
紘斗は肩をすくめてどっちつかずの返事に変えた。
「今日、夜はカノジョと?」
「一大イベントなんだろ?」
「ふーん……そういうのに関心ないのかと思ってたけど……」
ふいに携帯電話が鳴って姫良は言葉を途切れさせた。すっかり電話のことを忘れていた。画面を開くと、六才離れた異母弟の貴刀健朗からだ。
「ごめんね。電話もらってたのに忘れてた」
『姫良、いまどこ?』
「貴刀にいる」
『貴刀……って、父さんは家にいる…………もしかして、吉川さん?』
「うん。あとから連絡するよ」
『今日はどうしても来れない?』
「うん。おばあちゃんにケーキ持っていくの。だから健朗、また今度ね。ありがとう」
健朗の落胆したため息が受話器を通してはっきり届く。中学生なのに、こういうところはまだ子供っぽい。
そして、電話を切ったあとに今度は姫良がため息をつく。健朗の期待にはいつまでたっても応えられそうにない。
「ごめん、身内からの電話」
「べつにかまわない。それより、ばあちゃんとこに早く行ったほうがいいんじゃないか?」
すると、姫良の瞳が揺れ、直後には曖昧に笑って目を逸らす。再び、紘斗に視線を戻したときにはただの笑みにすり替わっていた。
「早く追っぱらいたいんだね」
「そんなこと云ってない」
紘斗はぶっきらぼうに否定する。
給湯室での出来事から、紘斗がそれほど自分を煩わしく思っていないことがわかった。いまはそれだけで満足すべきことだ。おそらくは姫良自身のためでもある。
「いいの。食べ終わったらちゃんと帰るから心配しないで。暖まったし」
やがて食事を終わり、紘斗は仕事に戻る一方、姫良は片づけをやって、食器類を廊下に出した。
「じゃ、帰るね。あとはミザロヂーから引きとりにきてくれるから」
「ああ。気をつけて帰れよ」
「ありがとう。バイバイ」
一階におりると受付嬢に許可証を戻してビルの外に出た。とたんに姫良は身を縮める。
暖かいなかにいると忘れてしまう、凍りつくような風。
心の動きに似ている。暖かさのなかに甘えきっていると、それを失くしたときの心は氷よりも冷たくなる。
わたしは氷になんてならない。わたしの心が凍りつくことのないように……。
自分を励ますように深く息をついたあと、姫良は駅へと向かった。
「おばあちゃん、ケーキ持ってきたよ。今日はホワイトクリスマスになりそうなんだぁ」
姫良は病室に入るなり、元気いっぱいという声で祖母に話しかけた。祖母は薄らと目を開けて小さくうなずく。姫良はベッド横の椅子に座り、しわが寄った手を取ってさすった。
声を出す力もなくなっていく祖母の余命は、姫良にでさえそのわずかさを知らせる。
面会時間終了まで、祖母が起きているときは独りで喋り続け、眠っているときは本を読んですごした。これが姫良にできる精いっぱいの祖母孝行だ。
病院を出てから駅まで向かう通りは、いつもなら静かなのにクリスマスイヴのせいで、いまだ賑やかだ。何組もの家族や恋人たちとすれ違う。
だれもいないマンションに帰る気分にはなれない。せめて人が見える場所にいたいと思った。
*
「はい」
番号非通知の電話がしつこく紘斗を呼びだした。
『吉川さんですよね?』
目のまえにいる美春がワイングラスを揺らしながら口へ運んでいく。
「そうです」
『姫良を頼めませんか?』
少し幼い男の声から姫良の名が出ると、紘斗は眉をひそめた。
「意味がわかりませんが」
『姫良をお願いします。たぶん、いま独りでいるはずだから……』
「おまえ……だれだ?」
『駅に、青南駅にいると思います』
紘斗の質問には答えず、そう告げるなり電話は途絶えた。
「どうしたの?」
首を傾け、美春が問いかけてくる。
「なんでもない」
「せっかくふたりでいるんだし、ケータイには出なくていいんじゃない? 仕事だったらしかたないけど」
「……」
おれたちはそういう関係だったか?
紘斗は思わず声に出しそうになった。
これまで独りで生きてきたぶん、面倒なこととしか思えない。美春のことも、姫良のことも。
けど――。
「ねぇ、聞いてる?」
何もかも計算ずくで首をかしげ、甘えた美春の声が耳障りに聞こえた。
「悪い、こんなときに。やっぱり、おれはだめだ。送ってくよ」
*
駅は色とりどりのイルミネーションで飾られている。待ち合わせによく使われる少女の像の下、姫良は台座に腰をおろして人々を眺めた。
いつも、こうしていると不思議な感覚に捕われる。この世のなかで自分は独りきりなんだという感覚。相反して自分は独りじゃないという感覚。
さみしいのには変わりないけど……。
時折、雪が散るなか、姫良は“マッチ売りの少女”を思い浮かべる。合わせた手のひらのなかに息を吐いてみると少しだけ暖かくなった。
「姫良、またここかよ」
声を認識した姫良は顔を上げ、一瞬後にはそのくちびるに笑みを広げた。
「哲ちゃん、どうしたの?」
「たぶん、おまえがここにいるだろうって予感」
「鋭いね」
「あんま、独りに慣れんじゃねぇぞ」
「哲ちゃん、よくそう云うけど、自分だってそうじゃない?」
「おれは男だからいいんだ」
「わたしはちゃんと昼間に暖まったから、いまは独りでも平気。哲ちゃんが来ると思ってたし」
姫良は哲を見上げてうれしそうに笑った。
「あの男んとこか?」
「うん」
「どうするつもりだ?」
「どうもしない。カノジョいるし」
姫良はあっさりと報告した。哲はその声の裏に姫良の感情を悟る。
似た者同士のおれにしかわからない。
「不毛だな」
「そっちのほうがラク。わたしには哲ちゃんもいるから」
「バカか、おれを当てにすんな」
姫良の笑顔は震えている。
おれでは足りない。
そのとき、ふいに視線を感じて哲は頭を巡らした。その視線を捉える。驚きとともに、安心と微量の嫉妬が哲のなかを駆け抜けた。哲は自嘲する。
「姫良、お役目交代だ。おれは帰るぜ」
いきなり哲は背を向けて歩き始め、姫良は状況を把握できなくて引き止めるすきもなかった。
見守っていると、独り歩いてくる男の横で哲は足を止めた。
姫良の瞳が大きく開く。
哲と彼は言葉を交わしたのだろうか。その彼が哲と入れ替わりに近づいてくる。
*
姫良、僕は姉さんのサンタになれたかな……。
駅構内の片隅で経過を見守っていた健朗は複雑な気持ちでつぶやいた。
隣に立つ少女が腕に触れ、「よかったね」と囁く。
健朗は少女、そしてもう一人、少年とともにそっと身をひるがえした。
*
「何やってんだ? 風邪ひくだろ」
「一大イベントは?」
「気分が乗らない」
あっさりと云い放たれた。
「じゃ、ここで何してるの?」
姫良の声は震えている。
「クリスマスプレゼント、もらいっぱなしだった。お返しにクリスマスプレゼント。朝までおまえに付き合ってやる。どこ行きたい?」
「紘斗……」
立ちあがった姫良の瞳に星が宿って落ちた。凍りつく風に吹かれて流れ星のようにきらりと舞う。
刹那、紘斗の腕が姫良を捕らえると、その星は温かく解けだしていった。
− The End. −