NEXTBACKDOOR|神様はコールガール!

第6章 まるごとイトオシイ
1.神様は今日も眠れない

 美月から仕事以外の用件とわかる時間帯に電話がかかってきたのは、出張から四日め、シンガポールからミャンマー入りした日だった。
「何があった?」
 名乗るよりも早く――当然、美月は立聖が出るとわかっていて名乗る必要はないのだが――開口一番、訊ねると、美月はくすっとした笑みを漏らした。

『よっぽど心配みたいね。毎日、朝昼晩、熱心に連絡とってるくせに』
「普通に人間なら心配しない」
『人間よりも神様が心配って、なんだかおかしくない?』
「忘れたのか? あいつは地球侵略に来たんだぞ」
『それを立聖が手懐けたわけだ。そういうふうに立聖が律儀だとは意外だったけど。人類が滅びようとどうでもいいでしょ。無常主義っぽい思考してるんだから』
 生きて滅びるのは常だ。それに逆らってどうにかなるわけでもなければ、生きる気力まで失っているつもりもない――と反論するのはやめておいた。ああ云えばこう云う美月との議論は終わりがない。

「何が云いたい」
『ソラちゃんのそっくりさんと再会したでしょ。ソラちゃんから聞いたけど』
 美月はまるで話を変えた。
「ああ。それがなんだ」
『ソラちゃん、人間を被ってるって云ってたじゃない? ソラちゃんが神様だとして、それが万田咲希にそっくりだとしたら、立聖ってやっぱり万田咲希のこと、本気だったのかなと思ったんだけど』
「顔も忘れてたし、ソラの顔を見ても思いだせなかった。このまえ本人と会ってはじめて似てるってわかったんだ」
『似てる以上よ。五年まえの彼女そっくり。つまり、どういうことかって云ったら、ソラちゃんはソラちゃんでしょ』
「だからなんだ」
『神様なら、立聖は、生きている間、独りになることはないんだろうなって思って』
「何、云ってるんだ」
『けっこう心配してるのよっていう話。会長も三浦さんも、わたし含めて親友たちも』
 母親の次には父親。確かに参っていたときもあるが、もう昔のことだ。立聖は吐息混じりに笑った。
「子供じゃあるまいし、よけいなお世話だ。電話はその件か?」
 くだらない。そう一蹴(いっしゅう)しようと口を開きかけたとき――
『それは前置き』
 と、美月はもったいぶった。

「それで?」
 立聖はうんざりした気分を声に込めた。
『ソラちゃんて眠らないの?』
 美月は心配した声で考えこむような怪訝さを含みつつ、立聖が気にかけていたことをずばりと問うた。
「……寝てないのか?」
『たぶんね。わたし、日付変わる頃に寝るんだけどソラちゃんは起きてるし、ヒューは五時起きで、やっぱりソラちゃん、起きてるって。ソラちゃんは大丈夫って云うんだけど』
 まさかとは思っていたが。立聖はあからさまにため息をついた。
『立聖?』
「ソラは特殊な状況じゃないと眠れないのかもしれない。きつそうにしてるか?」
『眠たそうにはしてないわ。でも、退屈しのぎにメイクを教えてあげてるんだけど、預かった日より今日のほうが肌の調子が悪い感じ。脱ぎ方がわからないって云ってたけど、被ってるって云うくらいだし、もしかしたらソラちゃん、躰と意識がまだうまく融合してないのかなと思ったり』

 立聖の平日の睡眠時間は五時間あれば長いほうだが、それに付き合うソラが会社で居眠りをしたことはない。火傷にしろ、食べすぎたことにしろ、自分の躰なのに加減を知らないソラのことだ、美月の云うとおり、まだ融合している段階であり、完璧ではないのだ。
「わかった。電話したときに訊いてみる」
『ところで。特殊な状況って?』
 やはり美月は耳ざとく、聞き逃していない。
「勝手に想像してくれ。じゃあな」
 笑い声が終わらないうちに立聖は通話を切った。

「ソラさんの心配事でも?」
 書類に集中しているかと思いきや、電話が終わるや否や三浦は顔を上げて関心を示した。
「神様を育てたことがはじめてで戸惑ってる、というところです」
「人生、何が起きるかわかりませんね。及川リーダーほど稀有(けう)な人生はないでしょう」
 三浦はめずらしく興じている。
「正直、三浦さんが信じるとは思いませんでした。自分でもよく信じる気になったなと、いまでも奇妙な感覚に陥る」
「残念ながら、人間だけが知的生命体だとは思ってませんよ。こんな業界にいながら口にすることではないかもしれませんが……いえ、この業界にいるからこそわかることかもしれませんね。権力と金さえあればなんでもできるとか、手に入るとか。そんなふうに思いこむような輩(やから)とは違います。及川部長から教わりました」
「父から?」
「ええ。及川部長の体調に気を配れなかったことを後悔しています」
「三浦さんのせいじゃない」

「それでも心残りです。同じように、及川部長もリーダーのことは心残りではないかと……。ですが、ソラさんによれば、及川部長には奥さんと一緒にリーダーを見守る時間がちゃんと与えられている。神界(ゴッドキングダム)、そこにどんなルールがあるのかは知りませんが、そういう世界があるとわかったら、がんばりどきに死ぬ気でやり遂げられそうな気がしませんか。何があろうと怖くない、といいますか」
 三浦は熱弁した。ずいぶんとソラに感化されている。
「例えば、神様がついている、とか?」
 笑うと、三浦は苦笑いをしながら首を横に振った。
「熱くなりすぎましたね」
「いえ。真実だろうが、ソラについてそのまま語れば変人扱いされてもしかたがない。だから、三浦さんにはそこまで受け入れてもらえるとわかって安心してます」
「お安いご用です」
 三浦は応じ、「電話は遠慮なくどうぞ」と続けた。


 三浦の好意に甘えることなく、一時間後、立聖は打ち合わせを終えてからソラに電話を入れた。
『立聖!』
 いくらレンズを覗きこんだところでこちら側が見えるわけもなく、もちろん侵入もできないというのに、いつものごとくタブレットにソラの瞳がどアップで映る。画質がよければ、ブラックホールみたいなソラの瞳を見るのも悪くないが、あいにくとぼやけて、藍色さえ鮮明さを欠いている。
「ソラ、タブレットから顔を放せ。おまえが見えない」
 画面がぶれ、それからソラの顔に焦点が合った。

『これでいい?』
「ああ。元気か?」
『うん。立聖は?』
「おれの心配はしなくていい。それよりおまえ、独りでちゃんと眠れてるのか?」
『そうでもない』
「なんで眠らない?」
『眠るってこと、もともとなかったから眠り方がわからないの。立聖とくっついてるとあったかい気分になって気絶できるんだけど』
 考えてみればもとは意識体だ。人間の脳さえ、眠っている間もそれなりの働きがあって活動しているのだ。意識という存在のソラに眠りなどなかったというのも納得できる。
「躰、冷たくなってないか?」
『うん。ちゃんとふとんのなかに入ってるから大丈夫』
 画面が動いたかと思うと、ソラはうつぶせでベッドに寝転がっているらしく、薄い掛けふとんが盛りあがっていて、その下の方から足が覗いている。

「帰ったら、眠り方を探すぞ。躰が持たないかもしれない。ちゃんと食べてはいるんだろうな?」
『食べてるよ。 今日の朝はね、ヒューがピーナツバターのホットサンド作ってくれた。美味しかった!』
「甘いものならなんでもいいんだろ」
『たぶん』
 ソラは目をくるりとまわしておどけた。
「おれは仕事をもう少しやる。このまま電話、繋いでおくか?」
『うん!』
「じゃ、目をつむって一緒に寝てたときを思いだしてみろ。眠れるかもしれない」
『ダメ。立聖を見てるほうがいいの』

 立聖はホテルのデスクに着いて、タブレットを壁に立てかけた。仕事を切りあげたのは日付が変わってから、日本時間でいえば夜中の二時半だ。それでも、ソラは眠そうでもなく起きていた。
 結局、テレビ電話は切ることのないまま立聖は眠った。早朝、いってきます、とソラが声をかけて立聖を起こすまで、ソラが眠ったのかどうかはわからない。
 自分から眠れないと云わなかったのは、待っている――つまり立聖が帰るまで駄々をこねないという暗黙の約束を果たそうとしてのことか。
 出張したことによって、立聖にとっては独り寝が普通じゃなくなっているということが身に沁みた。そうしてどうにか感覚を取り戻しつつあった独り寝が、電話を繋ぎっぱなしにしていたせいでまたふりだしに戻った。
 立聖の腕が空虚さに途方にくれ、ひどく疼いた。


 出張は忙しさに紛れ、いつもあっという間に時間がたってしまう。ただし、今回は地球の自転速度が遅くなったんじゃないかと疑うほど、もどかしかった。
 やっと日本の地に降り、手続きを終えたところで立聖はスーツパンツのポケットからスマホを取りだした。ソラの番号を呼びだす。
「立聖」
 電話のマークを押しかけた手が止まる。
 立聖が顔を上げて正面に見たのは、素足が剥きだしのショートパンツに肩が大きく開いたサマーセーターという、いかにもソラっぽい恰好だった。薄いメイクも違和感はない。
「おかえりなさい」
 立聖は目を細めた。

 ソラが好む恰好でも立聖が見たことのない服だ。昨日、また美月と服を買いに出かけたと聞いてはいるが。
「こんなところで何してるんですか、咲希さん?」
 ピンクがかった髪もおかっぱロングもソラそのものだが、ちょっと離れた場所からでも明らかにソラとは違った。近づいてきた咲希はカラーコンタクトを入れているのだろう、瞳も藍色っぽくソラを真似ている。
「どこが違うの?」
 さっきのソラに似せた喋り方とは違い、咲希は可笑しそうに訊ねた。
「全部、と云ったら?」
「努力してみたんですけど」
 咲希は首をすくめておどけて見せた。真意はさっぱりわからない。

「あれ、ソラさん?」
 背後から来た三浦が不意打ちを喰らったような声で問いかけた。が、鼓動二拍分くらいの間を置いたのち。
「ソラさんですか?」
 と、ただ訊ねているといったよりは、違うと疑ってかかった口調で質問を連ねた。
「咲希さん、こちらは相棒の三浦です。三浦さん、万田生命の万田咲希さんです」
「ああ……はじめまして、三浦です。ソラさんと本当に似ていらっしゃいますね」
 同じく、はじめまして、と三浦の挨拶に応えた咲希は、納得がいかないとばかりに首を横に振った。
「なあんだ。及川さんだけじゃないんですね。何が違うのかな。いけてると思ったのに」
「ソラに似てると思われてうれしいかといったら、まったくうれしくないんじゃないですか」
 立聖の言葉に、咲希は考える時間を稼ぐように上目遣いで宙に目をやったあと、肩を軽くそびやかした。
「そうですね。及川さん、お茶しません? ちょっとだけ」

 できれば早く帰ってソラを眠らせてやりたい。ただ、勘が働くという、そんな何かがわだかまっている。いずれにしろ、咲希がいまのようなおかしなことをする真意が知りたいし、面倒なことほど解決を後回しにするとろくなことにはならない。
「五分です。運転手を待たせているので」
「せめて五分のカウントダウンは、コーヒーが出てからということでいいかしら?」
 立聖は肯定はせずに肩をすくめて返事に変えた。
「三浦さん、さきに行ってもらえますか」
「かまいませんよ」

 三浦と別れて、立聖は咲希の先導でフードスペースへ向かった。
 昼の一時をすぎたところで、まだ客は多い。やっとカフェ店に空席を見つけ、そこに入った。
「それで、おれになんの話があるんですか」
 コーヒーを注文すると立聖のほうから切りだした。
「お茶を誘っただけですよ」
「そういう付き合いはとっくに終わってますよ」
 あえて丁寧な喋り方をして距離を明示しながらきっぱりと告げると、咲希は落胆のあまりため息を漏らした。
「五年まえ、嫌な思いさせたことは本当に謝ります。後悔しました。わたし、ソラちゃんを見て、もしかしたらわたしが思っている以上に及川さんを傷つけていたのかもしれないって」
 咲希が何を云いたがっているのか、立聖は考えめぐった。
「何も感じなかったと云えば嘘になりますが、さっきも云ったように終わったことです。祖父から聞きました。万田社長は、咲希さんに僕を、とお考えのようです。相容れないことを社長に意見していただけると助かります」
「強制だとしたら?」
「連携の条件だと? いまどき政略結婚はないでしょう。おれが断ったことでいまさら連携がおじゃんになれば、恥を掻くのは万田生命ですよ」
「そんなに嫌われてるとは思わなかった」
「嫌ってはいませんよ」
「でも、及川家もスキャンダルになりません?」
「なんの話ですか」
「ソラちゃんて、お父さまか及川会長の愛人の娘でしょ?」

 立聖は呆気にとられた。
 どこからそんな発想がくるのか。
 すぐに答えなかった立聖を見て、咲希は単に、云い当てられたことに驚きすぎて答えられないとでも解釈したのか、したり顔で笑う。
「コールガールって云われたけど、ソラちゃんのお母さまがそうだったんじゃないかと思って。外部に漏れないよう、ソラちゃんはずっと軟禁されてたんじゃないですか? 世間に疎い感じだし、おかしな天然ぶりも、長年そうされてきたんだったら、納得できます。まあ、会長だったら奥様は早くに亡くなってるし、法律的には問題ないから、だったらお父さまの愛人になりますよね」
「まさか」
 立聖は一笑に付した。あり得なくはない、よくできたシナリオだが。
「軟禁は犯罪ですよ。咲希さん……考えたのはそれとも晄生ですか。想像力が豊かすぎますね」
 もっとも、実際はその想像力を遥かに超える。

「はっきり云ってやったらどうだね」
「云われなくてもそのつもりですよ」
「え?」

 立聖が思考停止に陥り固まった一方で、咲希は何事かという奇異な面持ちで首をかしげた。立聖を嗾(けしか)けたのは男の声で、咲希であるはずがなく、立聖が一人二役したわけでもない。
 四人席のテーブルは片側が二人掛けのソファになっているが、不意打ちで立聖は隣に人の気配を感じた。ゆっくり顔を横に向けると、いつの間にかそこに初老の男がいた。
 立聖は目を見開く。
 白髪交じりの頭と相まって、しわの見える顔つきはごく穏やかだ。恰好を見ると、黒いスーツでシルクハットが似合いそうな紳士だった。和を重んじるといったにこやかな笑顔が立聖に向けられている。

「どなたですか」
 だれですか、というのは不躾な云い方に思えて控えてみた。
「及川さん?」
 咲希が呼びかけ、彼女に目を転じると戸惑った表情に合う。さっきの反応といい、いまの反応といい、咲希はこの紳士に気づいていないのかもしれない。
「私のことは、ソラとやらから聞いているだろう」
 紳士は肩をひょいと上下させた。
 ソラから?
「きみは、なかなかうまく育てているな。うまくいけば私のかわりにソラとやらが地球を守ってくれるだろう。これで心置きなく宇宙旅行ができる」
 ソラの知り合いで、地球を守る、そして宇宙旅行とくれば。
「まさか、神様ですか」
「人間の先入観にあるほど立派なものではないがな」
「……でしょうね。神様というのは、子供よりタチの悪いわがままな生き物です」
 紳士は高笑いをした。ひどくうるさいが、周囲の客が反応することがなければ、目のまえに座る咲希も気に留めた様子はない。彼女が気に留めているのは、きっと独り言を云う立聖だ。
「及川さん、神様って? だれと話してるんですか?」
「ちょっと待っててくれ。こっちの話がさきだ」
 こっちというのがどっちなのかもわからないだろうが、咲希は躰を引いて傍観者に徹することを示した。もしくは文字どおり、ドン引きしたのか。

「現状はだいたいわかっているつもりですが、なぜ僕ですか。偶然ですか」
 神様の笑いが止まったところで訊ねてみた。
「クソ喰らえ、と云われてもな、さすがにクソは食べられん。ソラはお詫びだよ」
「なんの話です? 見えないんですが」
「おやおや、五年まえのことを憶えておらんのかな」
「五年まえ?」
「しなびたバーに来ただろう。母親の次は父親を奪われ、なんの罪もないバーテンダーに向かって裏切られたとか、くだを巻いていたな」
 神様紳士はあからさまにおもしろがって立聖を見やった。

 立聖は、長い間かけられていた呪文を解かれたように、その日――咲希から真相を聞きだした日のことを思いだした。友人たちとよく行く洒落たバーではなく、裏道にあったしけたバーに独り立ち寄ったのだ。入ってみれば、バーテンダーは初老の女性だった。若い頃はきれいだっただろうなと思うような可愛らしい女性だが、年には勝てないというお手本のように感じた。
 あのとき、しこたま呑んだことはわかっているが、酔っぱらってどうやって帰ったのか憶えていない。憶えているのは――
『神様がいるんなら耳の穴にじかに叫んでやる。“クソ喰らえ!”だ』
 あることないこと愚痴ったあとに、そう叫んだことだ。

「彼女のことは、祖父や父親のように、伴侶を見つけたつもりが理想とは違ったんだろう。挙げ句の果て、私を無能呼ばわりとはいただけない。確かに、きみには不幸が重なった。だから、ソラをきみのところに導いた」
「ちょっと待ってください。侵略しに来たんですよ。それをお詫びと押しつけられて納得いくわけないじゃないですか」
「それなら、ソラのことは地球外に追いやってもいいと?」
 神様紳士は鋭く急所をついてきた。立聖がうんともすんとも応えられないでいると、神様は愉快そうに笑う。
「それが答えだろうて」
 神様紳士の指摘に、立聖はふっと、ため息とも笑みともつかない吐息を漏らした。
「これから僕たちはどうなるんです?」
「それはきみたち次第だよ」
 やはり神様は無責任だ。

「さて、きみの答えがわかったところで、ソラを探しに出たほうがいいんじゃないのかな」
「……どういうことです?」
「この兄妹が何やら悪さをしている」
 立聖は眉をひそめた。ちらりと咲希を見やると、変人を見るような警戒感を丸出しにして立聖を見ている。
「どこにいるんです?」
「この近くのジムに閉じこめられてる。人間不信になるまえに救いだしてやってくれ」
「なぜ、それを早くおっしゃらないんです!」
「んーいい反応だね」
 人間不信などと脅したくせに神様はあくまで悠長だ。
「さて、私たちは旅に出るよ。きみたちは留守番だ」
 私たち?
 と、疑問に思ったとたん斜め向かいに――咲希の隣に貴婦人がいた。さらに驚いたのは、あのバーにいた初老の女性だったことだ。
「あなたとわたしは同じ立場ね。いつか選択するときがくると思うけど」
 女性はにこにこと笑い、それから「がんばってね」と手をひらひらと振ってから立ちあがった。
「それじゃあ、あとはきみに頼んでおくぞ」

 そうして、ふたりは立聖のまえからこつ然と消えた。ソラのことで摩訶不思議な現象にも耐性はついたつもりだが、さすがに夢覚めやらぬという気分で、一瞬だけ呆けた。
「及川さん?」
 怪訝そうにした目が立聖の目を捉えた。
「はっきり云っておけば、咲希さんの損失部分をソラで埋めようとしたことはない。このまえ咲希さんに会うまで、咲希さんがソラに似ていることに気がつかなかった。おれにとっては、ソラが軸なんですよ。生まれた順番は関係ない。咲希さんは、ソラに似ているにすぎないんです」
 しばらくまえの咲希の発言は、立聖が咲希にこだわり、ソラを身代わりにするほどいまだに吹っきれていないと云いたかったのだ。
 むしろ、いまになってみると、あの日、酔っぱらったくせに比較的簡単に立ち直っていた。嘘とか欺瞞とか、立聖が気にしすぎるのはきっと両親や祖父母たち夫婦を見てきたからだ。思ったよりも真剣に咲希のことを考えていて、だからこそ理想を理想で片づけられなかった。
 彼女はあきらめようとしているのか否か、立聖の発言に抵抗するような気配を見せていたが、やがて睨み合うような時間は終わった。
 立聖は立ちあがる。
「咲希さん、ソラはどこだ? 晄生といるんだろ。連れていってくれ。じゃなければ警察を呼ぶ」

 警察を呼んだところで、記録を取られることになって困るのは立聖のほうだ。ソラの身元は云い様も説明しようもない。犯罪としてはなんの問題もないが、ソラの身寄りがないのはもとより、空から降ってきたなど説明できないだけに犯罪として扱われてしまう可能性はある。
 警察を呼ぶようなことはしてない――と、咲希が慌てながらとっさに主張して、立聖は二重に安堵した。
 もしもソラが人間として死ぬことがあっても、本来の意識体という姿を考えれば、厳密に、死ぬ、ということはない。そうわかっているのに焦った。自分で思う以上に立聖はソラに拘泥している。
 真田の車で、ソラがいるというスポーツジムに向かいながら、表面上はそう見えないよう努めているものの立聖は落ち着かない。なぜ咲希が相乗りすることになったのか、なぜスポーツジムにソラがいるのか、三浦が知りたがっているのは察したが、説明する気にもなれなかった。
 咲希を同行させたのは、晄生と連絡を取ってこれ以上おかしなことをさせないためだ。晄生に浅はかなところがあるのは否めないが、犯罪をやってしまうほど愚かではない。そう信じるしかない。

 三十分もしないうちにスポーツジムのまえに到着すると、車が歩道脇に止まるのももどかしく、立聖は助手席のドアを開けた。
 咲希を急かしながらエントランスを抜けた。ソラがいるという四階はプライベートスペースで、完全に個室になっていた。咲希が示した場所に行きドアレバーに手をかけると、立聖がひねるよりさきに勝手に動いた。すかされたようにレバーは手を離れ、次には内側からドアが開けられた。

「わっ」
 奇声を上げたのは晄生だった。心なしか、慌てたように見える。その目が立聖を捉えるとみるみるうちに大きく開いていった。自分より背の高い立聖を見上げているせいで三白眼になった晄生は、まるで人相が悪い。
「立聖!?」
 幽霊――いや、神様というほうがリアルだ、ということで――もとい、神様にでも会ったかのような素っ頓狂な声だ。
「ソラはどこだ」
「あ、いや……様子がおかしいからここのドクターを呼びにいこうと……」
「どけっ」
 云うより早く晄生を押しやり、立聖は個室に入った。素早く室内に視線をめぐらせる。すると、壁につけられたベンチシートに寝そべった、小さな躰を見いだした。

「ソラ!」
 ソラは頭をもたげて立聖を認めると笑みを浮かべたが、いつもの活力に欠けていた。それを裏づけるように、すぐ頭はシートに落ちた。
「どうした」
 立聖は滑りこむようにしてベンチシートの傍にしゃがんだ。
「立聖を待ってた」
 そう答えるソラの頬に手を当てると、冷房がきいているとはいえ驚くほど冷たい。

「おれのトレーニングに付き合わせてたら、ここは嫌いとか詰まらないとか云うから、ちょっとエアロバイクをやらせてみたんだ。そしたら、具合が悪くなったみたいだ」
 晄生が口を挟み、立聖はじろりと見やった。
「こういうのは体調を見てからやるべきだってことはわかってるだろ。おまえとソラの体力は違う」
 云いながら、立聖は気づいた。室内をよく見ると、ドアの正面に窓はあるが、陽を避けるためだろう、カーテンで外の景色は遮断されている。つまり、密室だ。ここが嫌いとソラが口にしたのなら、きっとそのせいだ。
 ソラに向き直ると、ちょうど頬に置いた立聖の手にソラの手が重なった。
「カーテン、開けたほうがいいか」
「立聖がいるから大丈夫」
 ソラの手も冷たく、トレーニングウェアのハーフパンツから飛びだした脚に触れれば、やはりひんやりとしている。
「躰が冷たい。うちに来た日の夜みたいだ。体温が調整できてないのか?」
「わからない」
「うちに帰るぞ」
 ソラはかすかにうなずいた。

「このトレーニングウェアはおまえのか?」
「それはレンタルだ」
 ソラのかわりに晄生が答えた。
 立聖は後ろを振り向くと、晄生を睨めつけ、そのまま咲希に目を転じた。
「ソラの荷物はどこだ。持ってきてくれ」
 咲希は驚いたうさぎのように飛び跳ねて部屋を出ていった。
 立聖はまた晄生へと目を戻す。
「晄生、どういうことだ」
「妹の手助けがしたかっただけだ。おまえに未練があるみたいだからさ」
「それだけではすまない。脅迫された」
「脅迫?」
「惚けるな。ソラは祖父の子供でも父の子供でもない」
 晄生は目を見開いて、「違う違う」とホールドアップして否定した。
「脅迫の材料にしたつもりはない。咲希には、おまえとソラちゃんが異母兄妹なら望みはあると励ましたつもりだ。おれはおまえのことがいけ好かない。それはお互いさまだ。だろ? はじめてソラちゃんに会ったとき、あんまり執着しないおまえがソラちゃんにはこだわってるみたいに見えたからな、からかってみたくなった。けど、いけ好かなくてもそれを仕事に影響させるほど、おれはもうガキじゃない。そこを疑うのは勘弁してくれ」
「だったら、二度とおかしなことはしないでくれ。妹についても同じだ。もっとも、おれの頭がおかしいって知られてるからな、咲希さんも見限るだろうが」
「おまえが頭がおかしいって……?」
 咲希が入ってきて、晄生は云いかけたまま口を閉じた。

 立聖は立ちあがってドアに行くと、咲希からバッグをもらい、部屋から万田兄妹を追いだした。
「ソラ、起こすぞ」
「ん」
 ソラは“うん”と云う気力もなさそうな返事をする。立聖はゆっくり起こしてやると壁に寄りかからせた。
「まずは着替える。上からだ」
 ソラのまえに跪(ひざまず)き、立聖は袖を引っ張ってソラの腕をそれぞれ抜いた。頭からトレーニングウェアを脱がせると、かわりに肩の部分が切り抜かれたカットソーを着せた。
「痛いところは?」
 下半身もどうにか腰を浮かして、ソラがホットパンツを身に着けたあと、立聖は覗きこむようにして様子を窺う。藍色の瞳は有毒ガスに包まれた星のように濁って見えた。
「ない。動きたくない」
「眠ってないせいだな?」
「そうかな……わかんない」
「自分の躰のことだ。もっとわかれ。いまつらいなら、やっぱり独りでも眠ることを覚えるべきだ。これでまた人間が疲れたって、嫌になって意識体に戻るつもりでも、おれには止めるすべがないけどな」
「そんなことしない!」
 力がないなりに精いっぱいでソラは叫ぶ。
「神様はわがままで意地っ張りなことは云っても嘘は吐かない。だな?」
 ソラは首をかしげた。力がないせいだろう、そのままシートまで落ちそうになった頭を、立聖は慌てて支えた。
「嘘の吐き方ってまだわからないの」
 思いがけない答えに立聖は笑ってしまう。
「わからないくていい」

 立聖はソラのバッグを取って肩にかけながら立ちあがった。それから身をかがめてソラの腋の下と膝の裏に腕を通した。抱きあげると、ソラは力なくも立聖の首に腕を巻きつけてしがみつく。つくべきところのボリュームを保ちながらも華奢な躰は、重力が半減しているかのように軽く感じた。
 部屋を出ると、廊下の壁に寄りかかっていた晄生は待ちかねていたような様子で躰を起こした。
「大丈夫か」
 それなりに心配はしているらしい。
「ああ。ソラの持病だ」
「持病?」
「眠れない病だ。睡眠不足が祟(たた)ってる」
「……なんか……おまえもいろいろたいへんだな」
「おまえが思ってる以上にな」

 咲希から独り言の話でも聞いたのか、晄生はいつになく同情的だ。これが仕事にへんに関係して影響を及ぼさなければいいが、とちらりと思いながら立聖は咲希に目を向けた。
「父には縁談話はやめるように云います」
「正式に提携が履行した暁(あかつき)には、セレモニーで会いましょう」
 立聖が示した立ち位置、あるいは距離感ははっきり伝わったようで、咲希はうなずいた。

「ソラちゃん……」
 呼びかけた晄生は結局そのさきを云わなかった。

 立聖の腕のなかでソラはすでに“気絶”していた。

NEXTBACKDOOR

Material by MIZUTAMA.