NEXTBACKDOOR|神様はコールガール!

第4章 雨と無知
1.その心境やいかに

 及川証券の本社は及川HQ(ヘッドクォーター)ビルの上階部分を占める。今朝、出社早々の月曜定例会議が終わったあと、立聖は三浦とともに出かけ、それから二十八階にある自分のオフィスに戻ったのは昼をすぎた。
 来日していた中国人投資家との面談も叶い、契約と今後の日程の再確認をすませ、そして近々中国での面会を約束して空港まで見送ってきたところだ。
 デスクの合間を通る間も、電話だったり社員同士の会話だったりと、せわしさは絶えない。
 証券会社では、特に外資関連の部署になると市場の開く時間が違うため、昼休みなどあってないようなものだ。就職したてのときは研修として及川不動産に出向していたが、その頃とは時間配分がまったく違い、それどころか就業中はゆっくり食事を取っている暇はない。

「お疲れさまです」
 立聖のワークエリアに入ったところで、いち早く気づいた美月が労った。
「お疲れさま。インドの機械株は予定どおり“買い”でいく。設備投資策が拡大される見込みだ」
「インドに連絡します」
「ミャンマーの件はどうなった」
「外国人の投資はまだ難しいようですね。早くても開かれるのは三年後だという話です」
 立聖はうなずくと、「出張の手配を頼む」と美月に依頼したのち声を落として続けた。
「シンガポールと連絡を取って、一カ月後を目途に出張の手配を取ってくれ。中国と合わせて行く」
「それじゃあ」
「ああ。ミャンマー入りを本格的に検討する。会議で了承は取りつけた。証券取引所が開設されるまえに拠点をつくる」

 立聖は美月と会話を交わしながら自分のデスクに着くと、電話機につけられた付箋に気づいた。
「シンガポールではミャンマー人が順調に育ってる。彼らが独立する形で証券会社を設立して及川証券の基盤となってくれれば、三年後だろうが一年後だろうが参入はたやすい」
 あとに続いてきた三浦が継ぐなか、立聖は付箋を取って目を通した。

「あ、それ会長からです。ついさっき入電しました」
 美月は立聖をからかうように見やった。
『腹ぺこの神様は手に負えない』
 事情を知らない人間が見たら、何かの暗号だと思うような文章だ。
「メールですむことを」
 顔をしかめて立聖がつぶやくと。
「無視されては困る、というくらい困っていらっしゃるんじゃあ?」
 美月はおもしろがってトラブルを示唆する。
「困ってるとしても家に戻るわけにはいかないだろ」

 それは半ば自分にも云い聞かせた言葉だ。
 仕事がある以上、四六時中ソラといるのは不可能だ。とりあえず、今日は立輔に任せて家を出てきたわけだが、後ろ髪を引かれなかったと云えば嘘になる。いや、ソラが気になるのではなく、あくまで立聖が感じているのは責任だ。出社して間もなく、仕事モードに切り替えられた自分にほっとした。
 仕事柄、朝は五時起き、経済新聞をざっとチェックして六時には出かける。仕事中、ソラをどうするかは目下の課題だ。

「家に戻らなくても」
 と美月は中途半端に言葉を切り、立聖が目を向けると彼女は人差し指を立てて天井に向けた。
「まさか、来てるのか」
「合ってる」
 立聖は半ば愕然としてため息をついた。
「どうかしてる」
「神話が証明してるでしょ。神様って自分ルールが基本だからわがままなのよ。一定の倫理がまかり通って行動を制限されてる人間よりも人間らしいと思うけど」
「わがままなんじゃない。ソラは知識に欠けた子供だ」
「ふーん、かばうんだ」
 立聖は目を細めて美月を見据えた。

「放りだすわけにはいかないってことはわかってるはずだ」
「遊んでそうで冷ややかっぽくしてるくせに、立聖のそういう生真面目なとこ、ソラちゃん、わかってるのかも。ちゃんと責任とらなきゃね。子供相手に“ナニ”したわけだから」
 美月は堪えきれないといったふうに笑みを浮かべ、ここぞとばかりに隙をつついてくる。
「仕事中に話すことじゃない」
 ぴしゃりと放って、美月の揶揄を封じたがその甲斐なく。
「お箸を投げだしたり裸でうろうろしたり、神様が癇癪を起こさないうちに行ったら?」
 長年の付き合いでそうした立聖の不機嫌さにもめげることなく、美月は追い立てた。
「裸にはなってない。戻ってくるまでに出張の段取りしてくれ」
 立聖は睨みつけて席を立った。


「よお、立聖」
 エレベーターに向かっていると、万田晄生(こうせい)とばったり会った。
 お疲れ、と応じながら、話したがっている雰囲気を感じて立聖は立ち止まる。かすかに首をひねった。
「どうだ、証券会社は?」
 立聖が先手を打って訊ねると晄生は肩をすくめた。
「資産運用は保険会社に欠かせないからな、これ以上になく役立つ。いい勉強になってる」
 ごく模範解答的な答えが返ってきた。
 高校三年のとき同じクラスだった晄生は、万田生命の現社長の息子だ。提携の話が具体的に走りだし、晄生は研修生としてこの春から及川証券で仕事に就いている。それがいま云ったようにプラスになっているのか、それともうんざりしているのかは判別がつかない。

「持ちつ持たれつだ。業務提携はうまく働く」
「ああ、楽しみだ。おまえと組むことになるとは思ってなかったけど」
「おまえに嫌われてるとは思ってなかったな」
 立聖が切り返すと、晄生はホールドアップして首を横に振る。
「そんなつもりはない」
「ああ、仕事は仕事だ。じゃ、急いでるからこれで」
「立聖、今度、飲みに行こうぜ」
「そうだな。誘ってくれ」
 軽く手を上げて応じると立聖はエレベーターに向かった。

 晄生が高校時代から変わっていないところは多少の軽薄さだろう。大学は別々になり、すっかり頭になかったが、万田生命との提携話が本格的になってから立聖はやっと晄生のことを思いだした。
 晄生は万田生命の末裔であることをやたら誇示していた。立聖はむしろ、バックなどなんの意味もない、とそう感じていた。母親が病気という、お金ではなんの解決もできないことがあると思い知らされていたときだった。
 晄生からすれば、そんな立聖の冷めた考え方はばかにされていたように感じていたかもしれない。ふたりが相容れることはなかった。
 考えてみれば、万田咲希は晄生の妹だ。やはり彼女を思いだそうとしてももう全体的な雰囲気しかつかめなかった。


 最上階に行くと重役室の間を通り抜け、立聖はこのフロア専用の受付のまえを顔パスで横切った。
 奥の会長室へと向かい、そこで立ち止まる。ノックをすると返事を待たずにドアを開けてなかに入った。

「立聖!」
 立聖が認めるよりさきにソラが躰をぶつけてきた。反射的に、跳ね返って倒れないようソラを抱く。
「どういうことなんだ。家にいろといったはずだ」
 ソラと立輔、どちらにともなく立聖は文句をつけた。
「おまえの云いつけどおり、家でおとなしくテレビを見ていたんだがな」
「ハンバーガーを食べたくなったの! テレビで見て美味しそうだったから」
 ソラは顔を上げて立輔のあとを継いだ。
 そう云われれば、だだっ広い会長室はそれらしき匂いがする。
 ソラはテレビが好きなようで、ホテルにいたときもつけっぱなしだった。立聖がいない間、子守の役を果たしてくれるだろうと思っていたテレビが仇(あだ)になるとは。

「立聖のぶんまで買ってきたよ。おじーちゃん、立聖は食べる時間がないからこういうのがちょうどいいって云ったから。食べよ?」
 ソラは応接セットのテーブルを指差すと、立聖の意思おかまいなしに手を引っ張った。動かないでいると、ソラはすかされたようにバランスを崩して倒れかけた。ソラが歩き始めたばかりだということを忘れていた。立聖は慌ててウエストに手をまわしてソラを支える。
「お茶を頼む。三つだ」
 立輔が電話をしているのを見ると、立聖はため息をついて観念した。

「ソラ、仕事中だ。相手してる暇ないからな。食べたらすぐ仕事に戻る」
「わかってる。二十歳だから」
 ソラは聞き分けよくうなずくと、浮かれた様子でソファのところに行って、跳ねるように座った。
 ソラは袋を開けると、何を見て習ったのか、中身を取りだしては自分よりもさきに甲斐甲斐しく立聖のまえに置く。驚いたことに立輔のまえにも据えられた。
「食べるんですか?」
 思わず訊ねると、立輔は肩をそびやかした。
「私も食べてみたかったんだ。健康志向もいいが、たまにはジャンクフードもいいだろう? たまにというほども食べてはいないが」
 立聖にしろ、そう食べることはない。
 隣に座ったソラは待ちかねたように手を合わせた。
「いただきます」
 軽く頭を下げると立聖を振り仰いだ。
「いい?」
「ああ」

 ソラはハンバーガーの包みを開けると、さっそくかじりついた。美味しそうに頬張るのを見ると、立聖もつい手が伸びた。
 ソラが、美味しい! と云うのに続いて、立輔も唸って、うまい、と口にした。
「こういうのもいい。ソラ、また食べるときは私も付き合うぞ」
 立輔の言葉に大乗り気でソラは大きくうなずいた。
「じゃあ、明日も!」
 いいぞ、と、立輔は声高に笑う。立聖は呆れつつ息をついた。

「なんと云ってソラを会社に連れこんだんです?」
「知人の娘を預かっていると云っている」
「ひと騒動起きても知りませんよ」
「そこら辺にいる娘となんら変わりないと思うが」
 立輔に釣られて立聖もまたソラを見やった。
 確かに、ハンバーガーを夢中で食べるソラは、昨日みたいに下着姿ではなくちゃんと服を着ているし、特別変哲なところはない。手や口の周りを幼児みたいに汚していることを除けば。

 今朝、立聖が起きて十分後、ぱっと目覚めたソラはさっきみたいに立聖に飛びこんできた。仕事に出かけると話せば、文句を云うかと思ったが――確かに不満げにしたくちびるは何か云いかけていたが、ソラは自制した。
 二十歳になるという目標があるかぎり、ソラはむちゃなことをやる気はなさそうだ。
 ということは、面倒を起こさせたくないなら、当面、ソラを抱けないということか。
 ……待て。それじゃ、まるで抱きたいと云っているようなものだ。……いや、躰が反応していることは否めない。
 昨夜、ソラを抱いて眠るまで寝付きが悪ければ、起きたら起きたで遅刻してもいいという誘惑衝動に駆られた。
 やるべきことはその衝動とはかけ離れている。ソラの極々狭いコミュニティのなかで立聖は立場を悪用しているにすぎないのだ。すべきことは、ソラの誘惑に乗って抱くことじゃなく、人間として独り立ちさせることだ。

「ぱっと見た目はそうでも、実情は違う。こんなふうに」
 立聖はナプキンを取り、ソラの口に当てて拭った。挑むような眼差しを向けると、立輔は論点が違うとばかりに首を横に振った。
「おまえのその心境は、親か、恋人か、どっちだ?」
 一瞬、呆気にとられ、それから立聖は笑い飛ばした。
「限りなく親に近い心境ではある。けど、恋人に見えますか」
 立聖はあり得ないとばかりにあしらった。
「私はおまえがいつ身を固める気なのか、気になってしかたないんだがな」
 立輔はため息混じりで心配事を吐露した。

 立輔は、立聖が結婚する気ゼロだと思っている。
 祖母と母は平均寿命からすれば遥かに若くして亡くなった。それから父の立貴は仕事に打ちこみ、そして過労からくる病で五年まえ、妻のあとを追うに至った。仕事をすることでさみしさを紛らせていたのだと思う。
 両親は仲が良く――それよりは子供のこっちが恥ずかしくなるくらいベタベタしていた。それが嫌だったということはない。立聖の記憶にあるかぎりでは祖父母夫婦も仲が良かった。
 ただ、結婚から亡くなるまでの期間があまりにも短すぎて、及川本家は女運が悪いんじゃないかという噂がある。もちろん、面と向かって云われたことはないが、よくないことは自然と耳につく。
 立輔も知っていて懸念しているのだ。結婚相手として立聖が申し分ない条件を備えていようと、その噂を知れば相手は二の足を踏むだろう。

「期待を裏切って申し訳ありません」
 立聖は素っ気なく退けそれ以上の追及を封じた。
「まあいい。いまが転機であることは確かだ」
「なんのことです?」
「立聖、ソラをここで働かせたらどうだ?」
 それが立聖の質問に対する答えになるのか、立輔は突拍子もないことを云いだした。

「冗談でしょう」
 気づいたときは考えもなしに口にしていた。
「本気だが」
「おれは、神様は元来、気まぐれで怠け者だと思ってきた。ソラはまさにそれだ。いや、それ以上に――」
 それ以上にセックスに興味を持つ、とことん快楽主義者だ――と続けようとした言葉はさすがに伏せた。
「それ以上に、なんだ」
「なんでもありません。無理ですよ」
「可能性を努力するまえから潰すのはどうかと思うがな」
 立輔は首をわずかにひねるというしぐさで立聖をたしなめた。

 ちょうどドアがノックされ、入っていい、と立輔が応じる一方で、立聖は『可能性』という言葉を気に留めながらソラを見下ろした。
 察したようにソラが顔を上げて立聖を見る。すると、ナプキンを持ってソラは立聖の口もとを拭く。
「おれは子供じゃない」
 ソラの手首をつかんで引き離した。
「あたしも子供じゃなくて二十歳。この人間は子供?」
 ソラはお茶をテーブルに置く女性社員を指さした。立聖は嫌な予感を覚える。
「子供じゃない。ちゃんとした大人だ。ソラ、いまはちょっと待て……」
「そうでしょ。テレビ見てたら子供はみんな胸がぺったんこだし。ね、立聖、あたしの胸ってこの大人な人間よりおっきかったでしょ!」

 ソラに関しては、この三日間という短いなかでも勘が働くようになった。ただし、いったん喋りだしたら止まらない弾丸トークを止めることはかなわず、少しも役に立っていない。
「ソラ、しばらく黙ってろ。いいな」
 しんと静まった会長室に立聖の射すくめるような声が満ちた。それでめげるソラではないことは重々承知だ。ただ、立聖が本気で怒っていることはさすがに伝わったようで、拗ねた顔としょげた顔が一緒くたになる。
 立聖は人前にもかかわらず、ため息をついた。それを合図にして、動画の一時停止を解除したようにシーンが動きだす。中途半端に宙に浮いたお茶が立聖のまえに確かに据えられたのを確認してから口を開いた。
「失礼なことを云ってすみません。彼女が子供すぎるというだけであって他意はありませんので」
 三十代半ばの手越(てごし)は笑みを浮かべた。ただ笑うというよりは、おもしろがった気配だ。

 手越は、美月が立聖の秘書になるにあたり教官になった女性だが、先輩後輩を超えて付き合いが続いているという。気が合うと聞いているとおり反応も似ている。つまり、容赦なくからかわれる。
「外国にお住まいだったんでしょう? 気にするほどのことではありませんから。それよりも気になることができました」
 手越は、髪と瞳の色から善意に取り、それからちらりとソラを見やったあと、失礼します、と会釈し、思わせぶりな微笑を残して出ていった。
 ドアが閉まったところで、立輔が堪えきれないといったふうに吹きだした。

「笑い事じゃない。明日には脚色して広まっている。ソラを働かせることがいかに無謀か、おわかりですよね?」
「たまたま今日は都合をつけられたからいいが、毎日、私が面倒を見るというわけにはいかんぞ。ソラを独り野放しにしておくほうが無謀だと思うが。世話係を頼むには、どうにもソラは人見知りする嫌いがある。ファストフード店でも人に近づこうとせん」
 立輔はソラの人間嫌いを好意的に解釈して云ったが、とどのつまり問題は、どうやったらソラに人間を受け入れさせられるか、だ。
 立輔はソラに向かった。
「ソラ、おまえも立聖がすぐ近くにいるほうがいいだろう」
 ソラは話の経緯をどこまで理解しているのか大きくうなずく。そして、立聖を振り仰いだ。

「仕事やってもいいよ?」
 恩着せがましい云い方だ。
「おまえ、字は読めてるんだろうけど書けるのか」
「んーっと……たぶん」
 立聖の顔色をうかがいながら、ソラは曖昧な言葉を付け加えた。
「神様が嘘を吐くな」
「やったことないから『たぶん』で合ってる。人間にできてあたしにできないことないよ」
 ソラは勝気に出た。
「云っておく。『たぶん』程度で仕事はできない」
「練習する!」
 じっと見上げてくるソラは期待に満ちている。立聖は首をひねり、薄く笑った。
「どう考えても無理だ。仕事中にソラの面倒までみられるほどおれは暇じゃない」

 うっ。
 ソラの目が見る見るうちに潤んで、雫がぽたりと落ちた。それが、もったいないという、ちぐはぐな気持ちになるのはなぜか。
 立輔がため息をつくさなか、頼みます、と立聖は会長室をあとにした。

NEXTBACKDOOR

Material by MIZUTAMA.