Sugarcoat-シュガーコート- #66

第8話 Get in the way -3-


 改札口を出たとたんに叶多は名前を呼ばれた。
 声のしたほうを向くと、駅の出口に、スーツ姿がすっかり様になった異母兄、織志維哲(おりしいさと)が立っていた。
 背が高く、顔立ちも有吏の血を引いているだけあって、全身どこをとってもその容姿は申し分ない。父の哲に似ているけれど、哲よりは目が鋭すぎて輪郭も荒削りだ。ともすれば和久井よりも強面(こわもて)に見える。唯一の難点と云えなくもない。
 それは維哲の生い立ちから根付いた自立心と、抱えていた苦辛を乗り越えて身についた自信のせいかもしれない。

 叶多が六才を迎える春、高校三年生だった維哲は家を出ていった。叶多はその経緯をまったく知らない。学校にも行かず、音信不通になって一年になろうかという頃、維哲は母方の祖父母に引き取られて青南の高等部に復学して卒業したのだけれど、それから大学に行くわけでもなく、定職につくわけでもなく気ままに放浪していた。
 気ままに放浪というのはあくまで何も知らない人の見解であって、維哲には思うところがあったはずだ。
 そのあと、二十五才になる年に大学へ進学、在学中に貴刀グループ本社へ臨時勤務をし始めた。以前から付き合いのあった次期社長候補、吉川紘斗(ひろと)に引っ張られてのことだ。
 学業と仕事の両立をこなし、そこにはやっとたどり着いた維哲の決心が見えた。
 最近になって戒斗から聞いたことによれば、家を出てしまったときから生じていた一族の反感も、そういう維哲の姿勢が認められ、いまでは受け入れられたという。
 放浪しているときだろうが道を見極めたいまであろうが、維哲の常にまっすぐな姿は、頼がそうであるように叶多にとっても(あこが)れであり誇りでもある。

「お兄ちゃん、いらっしゃい!」
 駆け寄って維哲の前にすとんと立ち止まると、叶多を見る眼差しが可笑しそうに光る。
「変わってないな」
 維哲は小さな子にするみたいに叶多の頭に手を被せた。十二才という年の差もあって、維哲にとって叶多はいつまでも幼い子供なのだろう。
「変わってないって、お兄ちゃん、お盆に会ってから三カ月もたってないよ?」
「そういうことじゃなくてさ、一緒に住み始めたからにはちょっとは女になってるかと期待してた。けど、ガキんちょのまんまだ」
 期待という言葉とは裏腹にまったくがっかりした様子はないけれど、叶多は驚いたように大きく目を開き、それから不満を顕わに口を尖らせた。
「酷い。お兄ちゃんまで」
 維哲は笑って叶多の抗議をやり過ごした。
 納得はいかないものの、会えたことのほうがうれしくて叶多の不満も続かず、維哲から背中を押されて一緒にアパートに向かった。

「まあ、そんだけ戒斗がしっかりやってんだろうな」
「どういう意味?」
「いい意味でも悪い意味でも、女は男で変わる、ってよく云うだろ」
「よくわかんないけど少しは成長してるよ」
「自分で云うか?」
「だって、お料理できるようになったし、有吏のこともいろんなことわかってきたし……」
 維哲は小さく笑った。
「意味が違うんだよな。成長することと変わることは違う」
「そう?」
「そうだ。おまえたちの場合、変わったのは戒斗のほうだな。男も女で変わるらしい」
「あたしが変えたの?」
 維哲はびっくり眼の叶多を見下ろした。
「そうだろ?」
 叶多は戸惑って首をかしげた。
「変わらなかったら、そもそもおまえの家庭教師なんて戒斗はやってない」
「……そっか……」

 あのとき、ふたりが近づいたのはあたしの気持ちだけじゃなくて、戒斗にもそれがあったから。そこからここまで繋がってきて……。
 それを誰かに、とりわけ維哲に保証してもらうと不安なことも吹き飛んでしまうほど心強い。

「お兄ちゃんには一生感謝する!」
 叶多の宣言に維哲は声を出して笑った。
「明日は休み?」
「会社は休みだけどな、紘斗んとこで残業だ」
「いつも大変だね。姫良(きら)さんは元気?」
「子供に振り回されてる」
 そう云った維哲の声には叶多に向ける口調とは微妙に違う愛情が見えた。

 姫良は紘斗の奥さんで、維哲がずっと片恋している相手だ。三十才になったいまも独身を通しているどころか、女性の気配さえないことがそれを証明している。
 維哲は叶多が知っているとは思いもしないだろうけれど、姫良のことが話題になるたびに表情が崩れる。
 お兄ちゃんのことを大好きな妹に隠し事だなんて百年も千年も早い、なんてことは口が裂けても云わないけれど。維哲がその気持ちを大事にしていることを知っているから。
 何度か紘斗と姫良に会ったことがある。そのなかで“(てつ)”と呼ばれる維哲は、叶多といるときとは少し違っている。
 紘斗も姫良も維哲の気持ちを知っているのかどうか、幼い叶多から見ても三人の関係は羨望(せんぼう)を覚えた。普通なら微妙な関係なのに、逆に絶妙なバランスで互いの居場所が成立していて、妹である叶多が嫉妬すら感じるほどの絆が見える。

「二人目、生まれたばっかりだもんね。今度、赤ちゃん、見にいっていい?」
「ああ、云っておく」
「楽しみにしてる! 今日は忙しくてもご飯、食べてくよね? 戒斗もそのうち帰ってくると思うし。遅くなるって云ってなかったから」
「いいのか?」
「もちろんだよ。遅いから簡単なのになっちゃうけど」
「手料理ならそれで充分だ」


 アパートに着くとまだ戒斗は帰っていなかった。レコーディングが終わったと思ったら、今度はアルバム発売に合わせて十二月から始まるツアーの準備に入った。
 失礼にも、テレビに出ていない歌い手はいつも何をしているんだろうと思っていたけれど、録画にしても生にしてもそれなりに時間は拘束されてしまうし、レコーディングも仕上げるまでにかなりの時間を要している。
 夏のツアーでは戒斗の時間が極端に独占されたことを考えると、叶多は同棲していて本当によかったと思う。

「ビール飲むならあるよ?」
 叶多は声をかけながらダイニングの椅子にかけていたエプロンを取った。維哲は勧めるまでもなく適当にテーブルについた。
「いや、車だ。駅の駐車場に止めてる」
「お兄ちゃんの車好きは戒斗のバイク好きといい勝負。あたしで戒斗は変わったってお兄ちゃんは云ったけど、バイクには負けちゃってる」
「なんだそれ」
「バイクはずっと戒斗と一緒で、それに大事にされてた」
 真面目に云ったにもかかわらず、維哲は吹きだすように笑った。
「大事さの根本が違うだろ」
「そうなのかな……あ」
 手を洗おうとすると、叶多は手のひらのすり傷に気づいた。少し血が滲んでいる。
「どうした?」
 いつもそうであるようにわずかな異変も見逃さず、維哲が問いかけた。
「うん。ちょっと帰るときに転んじゃって……」
 叶多は身をかがめるとスカートを少し上げてみた。案の定、膝からも血が出て固まっている。
 維哲が立ちあがって叶多のところへやって来た。
「どこだ?」
「手と膝。大したことないよ」
「消毒はしたほうがいい。傷口、洗ったら消毒液を持ってこい」
 維哲は傷を見ると問答無用とばかりに命令した。こうなると過保護気味な維哲は融通がきかない。
 浴室に入って膝を洗うとぬるま湯だったせいか少し沁みた。手のひらより膝のほうが酷くて、それまでなんともなかったのに意識したとたん、痛い気がした。

 洗面台の棚から消毒液を持って浴室を出ると、維哲が待ちかねたように叶多を呼びよせてダイニングの床に座らせた。
「まだ転ぶ年なのか」
 維哲が呆れた声で云いながら消毒液を垂らすと、傷口に沁みて叶多は躰をすくめた。
「人がぶつかってきたの」
 何気なく叶多が口にしたとたん、顔を上げた維哲は怪訝そうな表情になった。
「ぶつかってきたって?」
「学校内でだよ。暗かったから」
 維哲はほっとしたようにため息を吐いた。
「気をつけろよ。物騒な奴、いま多いから」
 心配性丸出しの声に笑いながら叶多がうなずいたとき、玄関のドアが開いた。
 叶多が顔を向けると戒斗の目と合い、その視線は叶多の足もとに這っていき、維哲までたどり着いた。

「お帰り」
「ああ」
 答えた戒斗の瞳が一瞬、鋭くなったように感じたのは気のせいだろうか。
「戒斗、久しぶりだな。邪魔してる」
 消毒液を軽く拭き取ったあと維哲が顔を上げて声をかけると、戒斗は肩をすくめ、叶多の傍に来てかがみこんだ。
「かまわない。それよりどうしたんだ」
「人とぶつかって転んだんだってさ」
 叶多のかわりに維哲が答えると、戒斗までも不必要なほどしかめ面になった。
「大丈夫か」
「これくらい平気」
「気をつけろよ。危ない奴は多い」
 叶多は笑いだした。
「戒斗とお兄ちゃん、おんなじこと云ってる」
 維哲は苦笑し、戒斗はますます顔をしかめた。
「しばらく文化祭の準備で遅くなるって云うし、気をつけるに越したことはないんだ」
 責めるように云い返した戒斗の言葉は、やり過ごしていたことを現実直視せざるを得なくし、叶多はかすかに顔を曇らせた。
 それに気づいた戒斗が窺うように目を細めた。
「叶多?」
「大丈夫。傷がヒリヒリするだけ。お料理、いまからだけどいい?」
「変身するまえに間に合わせてくれ」
 叶多のごまかしがどうにか通じたようで、戒斗は茶化して返事をした。

   *

 コーヒーを淹れる間、料理をしている叶多の横で戒斗は“今日の出来事”を聞きだした。
 いつものごとく話題に尽きない叶多の話の中に変わったことはない。
 和室にいる維哲の前にコーヒーカップを置くと、ニヤニヤした顔に迎えられた。

「維哲さん、云うまえに云っていいことと云うべきじゃないことを考えたほうがいい」
 戒斗が釘を刺すと、維哲は云わないまでも笑いだし、結局は顔をしかめる破目になった。
「おまえらふたりが一緒にいるところを見たかったんだ。安心した。とりあえずは」
「とりあえず、は余計だ」
「余計ならいいんだけどな」
「何が云いたいんだ?」
 戒斗が問うと、維哲は叶多に目を向け、戒斗にまた戻した。
「拓斗のことを聞いた」
「ああ」
 戒斗の表情は一瞬にして無表情になり、返事も素っ気ない。
「ということは、おまえに回ってくるはずだ」
「無論だ」
「……一騒動ありそうだな」
 即答した声に戒斗の意思が見え、維哲はすでに事が動き始めていることを知ってため息を吐いた。
「もともと難なく終わることじゃない。問題がどれだけ増えようが結果は同じだ」
 戒斗は肩をそびやかして云いきった。
「そう願ってる。戒斗、それに加えてもう一つ、別のところで問題が起きてる。蘇我家内も一波乱あるかもしれない」
「どういうことだ?」
「昔つるんでた奴が蘇我家の総領専属で運転手をしてる。そいつの前では当然、詳しいとこまでは話さないらしいが、本家を(おび)かすほど力をつけてきている分家があるらしい」
「その運転手は信用できるのか。逆にはめられてるってことは?」
「おれは“哲”としてしか付き合っていない。これでも口は堅いんだ」
「ああ、悪い。失言だ。維哲さんのことは信用してる」
「信用以上だろ」
 維哲からおもしろがったように云われて戒斗は口を歪めた。

「まだ表面化はしてないが、蘇我家はもしかしたら派閥化する。首領と仲介(なかがい)家がどういう目論見で動いているかは知らない。このまま進むなら、次第によっては有吏に不利益になる――」
「そのまえの段階で止める」
 戒斗は維哲をさえぎって確言した。
「できるのか?」
「おれの拒否が通ったとしても次に回る。そうなったら同じことだ。なら、そのまえで止めるしかない。拓斗とも考えは一致している」
「そうできるなら……」
 維哲は最後まで云わずに言葉を切った。その表情は険しい。
「戒斗、拓斗の替わりがおまえなら、那桜(なお)の替わりが誰かってのを考えたか?」

 維哲の質問はとうとつに聞こえた。が、そう訊かれた瞬間に、戒斗は仲介主宰の仄めかしがなんだったのかに思い至った。
 よりによって。
 父、隼斗が口にした言葉はただ単に八掟家の過去の問題に()ったものかと戒斗は思っていたが、真の意味はそこにあったのだ。

 戒斗の睨みつけるような眼差しに応え、維哲がうなずいた。
「八掟家の立場は危うい。父に続いておれだ。認められたとはいえ、不服を買っているのは否定できない。そしていま、叶多だ」
 戒斗は舌打ちしたいのを堪えた。

「戒斗。叶多はおれに一生感謝するって云うんだ。おれは感謝なんていらない。ただ……勝手な云い分だとはわかっている。けど……あの日、おまえに電話したことを後悔させないでくれ」


   *


 夕食後、しばらく雑談してから維哲は帰っていった。
 戒斗は寝室にこもり、その間に叶多は風呂をすませた。浴室を出てきてもまだ寝室からはくぐもった声がしている。
 叶多が料理していた間の維哲との話で何かあったのか、食べ始めたとき、戒斗は少し不機嫌な感じがしていた。維哲の近況を中心に話が尽きないなか、いつのまにか普通に戻っていたけれど。
 戒斗と維哲が普通に話すところを叶多が見たのは今日がはじめてだ。
 どこに理由があるのかはわからないが、言葉遣いは変わらなくても『維哲』から『維哲さん』に呼び方が変わったぶんだけ、戒斗の口調には維哲への敬意があった。

「叶多」
 足音なく近寄ってきた戒斗にびっくりさせられて、コップを持っていた手が揺れて少し水が零れた。
 答える間もなく、叶多はコップを取りあげられて躰をすくわれた。
「戒斗っ」
 叫んだ声は無視され、叶多は寝室に連れていかれた。
 戒斗は邪魔されないように寝かせた叶多の手を頭の上で押さえつけ、パジャマを脱がせていく。
「戒斗、待って――あっ」
 いつものように口説(くど)くことはなく、戒斗は叶多の脚の間に入りこんで強引に胸をつかんだ。親指が敏感な触覚を撫で、叶多は背中を反らす。
「待たない。触らせただろ」
 ちょっと弄られただけなのに叶多の頭はうまく回らない。
「な……ぁっ……に……?」
 訊き返す間にも喘いでしまい、間の抜けた声になった。
 叶多の手を縛っていた手が離れると、戒斗は脚を持ちあげて膝の傷口の周りを舐めた。
 叶多は驚いて目を見開く。一週間前のことが頭をよぎった。
「傷……手当てしてもらってただけだよ!」
「どんな理由があろうが、誰だろうが関係ない。云っただろ、叶多を好きにするための口実が欲しいだけだって」
「戒斗、待って……んあっ」
 段階も関係なく、戒斗の指先が脚の間を這った。
「あっ……戒斗っ……ご、ご飯! んっ……セットしてないっ」
「明日は休みだし、どうだっていいだろ」
 普通でさえつらいのに、一週間前の意識が飛んでしまうつらさはそれ以上だった。なんとか避けようと、緩んでいく頭で思いつき、引き延ばすために口にした云い訳は素気(すげ)なく却下された。
「戒――っ」
 悲鳴じみた声はくちびるで封じられ、戒斗の手は躰を這いだす。

 自分の意思さえどこにあるのかわからなくなり、叶多の抵抗する気力は戒斗の我慾にもぎ取られた。

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